加藤明利
加藤 明利(かとう あきとし)は、江戸時代前期の大名。陸奥三春藩主、のち陸奥二本松藩主。官位は従五位下・民部大輔。
時代 | 江戸時代前期 |
---|---|
生誕 | 慶長4年(1599年) |
死没 | 寛永18年3月25日(1641年5月4日) |
戒名 | 雲心夢月寶樹院 |
墓所 | 福島県二本松市の顕法寺 |
官位 | 従五位下民部少輔、民部大輔 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家光 |
藩 | 陸奥三春藩主→陸奥二本松藩主 |
氏族 | 加藤氏 |
父母 | 加藤嘉明、堀部市右衛門娘 |
兄弟 | 星覚院、日野光慶室、明成、明信、明利、 |
妻 | 朝倉宣正娘 |
子 | 明勝、明正、嘉遐、明重、佐々木高重室、南部重直正室 |
略歴
編集慶長4年(1599年)、加藤嘉明の三男として松山にて誕生。母は堀部氏。
元和2年(1616年)1月19日に従五位下・民部少輔に叙任[1]。始め父の会津移封に従い、寛永4年(1627年)3月14日に陸奥三春に3万石の所領を与えられ、民部大輔となる[2]。翌寛永5年(1628年)10月5日に同二本松に移封された。寛永8年(1631年)に父が死去すると、兄・明成に従うようになる。兄が家老を殺した事件に連座した直後、寛永18年(1641年)3月25日に病没したが、死因に不審な点があったことから幕府にその死を疑われ、死後にその所領は改易とされた。号は雲心夢月寶樹院。
長男・明勝は父に連座して謹慎となった後、3,000石を与えられたが、正保2年(1645年)に13歳で死去し、無嗣断絶となった[1]。三男・嘉遐に1,300石、四男・明重に1,500石が与えられ、旗本として家名は存続した。墓所は二本松市の顕法寺にある。