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劉 隆(りゅう りゅう、? - 57年)は、後漢の武将。元伯(げんはく)。長沙定王劉発の子の一人である安衆康侯劉丹の子孫の安衆侯劉㱈劉崇の一族(『後漢書』列伝12・本伝)[1]光武帝の功臣であり、「雲台二十八将」の第16位に序せられる(『後漢書』列伝12)。

略歴

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姓名 劉隆
時代 代 - 後漢時代
生没年 生年不詳 - 57年建武中元2年)
字・別号 元伯(字)
本貫・出身地等 荊州南陽郡安衆侯国
職官 騎都尉〔更始→劉秀(後漢)〕

→誅虜将軍〔後漢〕→南郡太守〔後漢〕
中郎将〔後漢〕
驃騎将軍兼行大司馬事〔後漢〕

爵位・号等 亢父侯〔後漢〕→竟陵侯〔後漢〕

→扶楽郷侯〔後漢〕→長平侯〔後漢〕
→慎侯〔後漢〕→慎靖侯〔没後〕

陣営・所属等 更始帝→劉秀(光武帝
家族・一族 父:劉礼、子:劉安

30歳前後にして長安で学んだ[2]更始帝こと劉玄より騎都尉に任命されるが、更始2年(24年)、劉秀が河内にいることを聞き付け、直ちに合流して騎都尉を拝命した。馮異とともに洛陽の劉玄軍と対峙した。

建武2年(26年)、亢父侯に封ぜられた。呉漢に率いられ、の近郊で農民反乱集団の檀郷を討った。

建武4年(28年)、誅虜将軍を拝命し、淮南で称帝した李憲を討ち平らげた。また、荊州の武当で屯田した。

建武11年(35年)、公孫述を攻める岑彭の上書により南郡太守となり、一年余りで将軍の印綬を返上した。

建武13年(37年)、食邑を加増され、竟陵侯に封ぜられた。この頃、全国の地方官が当地の豪族と結託し、墾田・戸籍について不実申告をなすことが横行していた。建武16年(40年)、劉隆も不実申告の罪に坐した。同罪の十数人は死罪となったが、劉秀は隆の功績により許して庶人の身分とした。

建武17年(41年)、また封ぜられて扶楽郷侯となった。中郎将に任命され、伏波将軍・馬援の副将として交阯徴姉妹を撃つ。徴弐を捕らえ、斬首千余級、2万余人を降す。帰還すると長平侯に封ぜられた。

 
劉隆

建武20年(44年)、大司馬の呉漢が逝去し、劉隆が驃騎将軍として大司馬を代行した。法に則って務めること8年、将軍の印綬を返上して辞職した。列侯として朝請を奉じた。

建武30年(54年)、慎侯に封ぜられた。

建武中元2年(57年)、逝去し、靖侯と諡された。

人柄・逸話

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  • 居摂元年(6年)、劉隆の父の劉礼は劉崇とともに王莽討伐の兵を挙げたが、露見して罪に坐した。劉隆は7歳に達していなかったために許された。
  • 劉玄に属していた頃、劉隆は休暇を請い妻子を洛陽に置いた。劉秀に合流した際には妻子を帯同せず、そのため妻子は守将の李軼李通の従弟)に殺された。

脚注

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  1. ^ 『後漢書』巻22、朱景王杜馬劉傅堅馬列伝第12、劉隆伝。
  2. ^ 『後漢書』の記述。居摂1年=西暦6年に6歳なれば、30歳になるのは西暦30年になり、西暦6年に1歳なれば、30歳になるのは西暦35年になり、劉玄から騎都尉に任じられるのが西暦24年以前なれば、この記述は誤りである。

参考文献

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  • 范曄著、『後漢書』。
    • 中央研究院・歴史語言研究所「漢籍電子文献資料庫」。
    • 岩波書店『後漢書〈第3冊〉列伝(1) 巻一〜巻十二』2002/5/29 范曄(著), 吉川忠夫(著)