新聞の存在感が、すごい勢いで世の中から失われている。
5,400万部を記録した1997年の総発行部数は2022年に3,000万部にまで落ち込み、44%もの減少になったほどだ。
当然、主要各社の売上も大幅に落ち込んでおり、今なお底が見えない。
その理由について、メディアはどこも判で押したようにこんな分析をしている。
「インターネットやスマホの普及で、新聞が読まれなくなったからだ」と。
紙媒体としての新聞については、確かにその通りだろう。
しかし断言できるが、新聞各社の売上が減少し続けているのは決して、インターネットやスマホが普及したからではない。
単に経営陣が世間の感覚からずれていて、今もなお間違っているからである。
なぜそんなことを、断言できるのか。
話は変わるが、グンゼという社名を聞いてどのようなイメージが思い浮かぶだろう。
40代以上の世代であれば、オジサンや子ども向けブリーフのイメージだろうか。
もう少し若い世代の女性であれば、レギンスやストッキングのメーカーとして馴染みがあるかもしれない。
令和の今、グンゼはそういったインナー・レッグウェアはもちろん、プラスティック製品や省エネ素材、さらにタッチパネルやスポーツクラブの運営など幅広い分野に進出している会社だ。
売上高は1,200億円にのぼり、従業員も5,000名を数える大企業である。
では一体なぜ、“子ども向けパンツメーカー”だった同社が最先端素材や不動産まで扱っているのか。
グンゼはもともと、明治19年(1886年)に京都府北部の寒村・何鹿(いかるが)郡で、生糸生産を手掛ける会社として誕生している。
現在の京都府綾部市だが、登記上の本社は今もこの創業の地のままだ。
京都駅から嵯峨野線で特急に乗り、1時間以上も揺られて綾部駅で降りると、何もない駅前に驚くほど小さくて静かな街である。
なお明治19年といえば、日本にこれといった産業もなく国全体がまだまだ貧しかった時代である。
富国強兵の掛け声の下、お茶や海産物などを輸出して外貨を稼ごうとするも、なかなか上手くいかない。
そんな中、日本政府は生糸の輸出で外貨を稼ごうとするが、日本の生糸はとにかく質が悪く特に欧州で悪評だった。
さらに何鹿産の生糸は、国内からも「品質粗悪」と酷評されていたというのだから、寒村の貧しい暮らしぶりが目に浮かぶだろう。
そんな中、縁あってこの地で生糸の生産を手掛けることになったグンゼの創業者・波多野鶴吉は、どうすれば生糸の品質を向上させられるか悩む。
そして出した結論は、こうだ。
「善い人が良い糸をつくり、信用される人が信用される糸をつくる」
良いものを作るには、先に善い人を育てなければならないという、当然の出発点である。
さらに、信用される人でなければ信用される製品など作れないという原点も見出した。
そして工場内に従業員向けの寄宿舎を置くと、多くの教室まで設置し、人材育成に多額の先行投資を行うことになる。
このような経営は決して、奇をてらったものではないだろう。
目新しさは何もなく、おもしろい話ですらない。
しかし現実の会社経営ではそのような、凡事を徹底するリーダーこそが結果を出すものだ。
実際にグンゼの生糸はその後、極めて短期間のうちに「精良優美」という最高の品質評価を、世界で勝ち取ることになる。
さらに1900年に開かれたパリの万国博覧会では金牌を受賞し、翌1901年にはアメリカ向け高品質生糸の輸出が本格的に始まるなど、外貨の貴重な稼ぎ頭に成長し国策に貢献する。
「品質粗悪」と敬遠された寒村の生糸は、わずか15年で世界最高の製品に変貌を遂げたのである。
しかしここでお伝えしたいグンゼの凄いところは、実はそれではない。
1918年(大正7年)、創業者の波多野は60歳で急逝するのだが、彼が育てた後継の経営陣の優秀さこそが同社の、そして日本の宝だった。
昭和初期、米国でレーヨンの生産が盛んになると日本の生糸生産は大打撃を受ける。
生糸よりも安価な繊維素材が普及してしまい、経営環境が根底から覆ってしまったのである。
するとこの経営危機にあってグンゼは、大量の在庫と化した生糸をもとに最終製品の製造・販売に進出する決断を下した。
生糸を生糸のままで売っていては二束三文で買い叩(たた)かれるが、最終製品にまで仕上げてしまえば十分利益が出ると踏んだのである。
さらにこの時グンゼは、原材料から自社で手掛けている強みを活かし、最終製品の品質に徹底的にこだわった。
令和の今でいうところの高級路線を志向し、安い繊維素材では出せない質感と満足感で、消費者の支持獲得を目指すのである。
その価格帯は他社製品に比べ2割ほど高かったというが、「金の品質、銀の価格」と呼ばれブランド化し、1950年代には揺るぎない地位を確立する。
さらに1960年代には時代の変化に合わせ女性向けパンティストッキングを、1970年代のベビーブーム期にあってはベビー用品を手掛けるようになり、アパレル事業の基礎を築いた。
このようにして今日、年配世代がイメージするグンゼ製品が、私たちの日常に浸透していったのである。
他方、同社の経営陣は起死回生の成功体験にも決して、安住することはなかった。
大きな時代の流れはやはり、天然素材から化合繊に移り変わりつつあるのは明白だ。
そのため1950年代には新たな繊維素材の研究を始め、1970年代には本格的に化繊の製造・販売を開始する。
さらにその過程で化学製品の取り扱いノウハウを得て、包装資材の内製化を果たすと、さまざまな石油化学製品の製造にも乗り出す。
このようにして、プラスティック、塩ビ、特殊フィルムと事業領域の拡大を続け、令和の今ではタッチパネル素材の製造まで手掛ける総合メーカーにまで、成長を果たしたということだ。
常に10年20年先の時代を取り込み、強みを活かした横展開で変化に適応し続ける同社の経営は、呆れるほどに逞(たくま)しい。
成功とは衰退の始まりであり、順調だからこそ危機意識を持たなければならない重要性をも、私たちに突きつけてくれている。
137年続くこの“常に新しい老舗企業”から私たちが学べることは、余りにも多い。
話は冒頭の、新聞の衰退についてだ。
なぜ、新聞各社の売上減は単に経営陣が世間の感覚からずれており、今もなお間違っているからだと言い切れるのか。
新聞社の本質的な強みとは本来、「知性ある記者・編集者」が「取材やエビデンス」に基づき、「信用できる情報」を届けてくれることにあったはずだ。
だからこそ戦後、新聞人は知識人とされ、多くの政治家まで輩出し、「第四の権力」と言われるほど国民の強い支持を得続けてきた。
であれば、これこそが、いい加減な情報が流布するインターネットメディアの時代にあって、形を変えながらも守るべき存在意義ではなかったのか。
グンゼが磨き上げた最高品質の生糸を横展開し、絶望的な環境の変化をチャンスに変えたように。
にもかかわらず、発行部数が減少傾向になると経営陣は各社とも浮足立ち、この一番大事な本質を見失った。
そして自社のコア読者層に迎合し、言説の先鋭化が進み、客観性を失い続けている。
このような本質を放棄した方法で、発行部数も売上も維持・回復できるはずなど無いではないか。
もちろん全ての会社、全ての記事・紙面がそういうわけではない。
今もなお、会社により高い志で紙面づくりに尽力している素晴らしい記者がいることも、私は知っている。
しかし「悪貨は良貨を駆逐す」のことわざ通り、ファクトの疑わしい恣意的な言説が僅かに混入するだけで、もうその紙面は全てが台無しになってしまう。
できたての美味しいラーメンにたった1滴の泥水を垂らすだけで、もうそれは誰も食べられない生ゴミになるということだ。
「善い人が良い糸をつくり、信用される人が信用される糸をつくる」
グンゼの創業者・波多野鶴吉が定めたこの創業の原点をみて、新聞各社の経営者は今、何を思うだろうか。
「善い記者が良い紙面をつくり、信用される記者が信用される紙面をつくる」
という想いで、自社の社員を大事に育てているだろうか。
環境の激変を乗り越え137年、強く逞しく成長を続けるグンゼの歴史からぜひ、多くのことを学んで欲しいと願っている。
余談だが、同社は1987年(昭和62年)、祖業である生糸の製造から完全に撤退し91年の歴史に幕を下ろしている。
では今のグンゼは、波多野がつくった会社とは別物なのだろうか。
私は決して、そう思わない。
経営者が創造するものは“本質的な価値”であり、創業の理念は今もなお、経営陣によって墨守され続けているのだから。
グンゼの歴史や経営陣のこのような決断は、創業の地・京都府綾部市に所在する「グンゼ博物苑」を訪れれば、より肌感覚で体験できる。
明治時代の社屋が今もそのままに博物館になっており、訪れるだけでも楽しめる場所だ。
京都駅から特急で1時間以上かかる長旅になるが、それだけの価値がある場所である。
ぜひ企業や組織のリーダー、リーダーを志す人には一度、足を運んでもらいたいと願っている。