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2024.12.16

ひとりの人類学者の登場ですべてが変わった…20世紀の学問史を塗り替えた男が発明した「とっておきの調査手法」

「人類学」という言葉を聞いて、どんなイメージを思い浮かべるだろう。聞いたことはあるけれど何をやっているのかわからない、という人も多いのではないだろうか。『はじめての人類学』では、この学問が生まれて100年の歴史を一掴みにできる「人類学のツボ」を紹介している。
※本記事は奥野克巳『はじめての人類学』から抜粋・編集したものです。

本当のことが知りたかった男

どのような分野であれ、人は何かを知りたいと思ったとき、まずはこれまで先人たちが残してきた書物を探します。そして目的のことが書かれている本や文献、資料にあたれば、たいていのことはイメージが掴めるでしょう。

しかし、それで本当に知りたいことの「すべて」が理解できるわけではありません。遠く離れた場所に住む人たちのことは、本だけでは分かりません。どうしても理解できない部分がモヤモヤと残ります。それならば実際に現地に行って、見てみることで、謎は解決に向かうはずです。

そのことを人類学の中で突き詰めた人がいます。ポーランド生まれのブロニスワフ・マリノフスキです。彼はフィールドに出かけて長期間にわたって現地に住み込み、その土地の言語を身につけて調査を進めました。

マリノフスキは1884年、ポーランド南部の古都クラクフに生まれました。父は著名なスラブ語学者でしたがマリノフスキが幼い頃に亡くなり、彼は母子家庭で育ちました。若くして父を失ったマリノフスキですが、仲間たちと詩や論文を読み耽り、19世紀末のヨーロッパの文芸思想に親しむ少年時代を過ごします。

クラクフにあるヤギェウォ大学に入学したマリノフスキは、最初、物理学と数学を専攻しました。その後、次第に哲学に関心を移し、『思想の経済性についての考察』という題の卒業論文を書き上げます。そうして哲学を研究する中でフレイザーの『金枝篇』を読む機会を得て、人類学に惹かれていったのです。

マリノフスキは、ドイツのライプツィヒ大学で民族学者カール・ブリュッヘルと民族心理学者ヴィルヘルム・ヴントのもとで学んだ時期がありました。ヴントは、その頃広がっていた、文化を進化論的に見る考え方に対して批判的な姿勢をとっていました。個人の意識や心理の発達を、言語や神話、慣習などの社会の諸要素との関係の中で捉えようとしたのです。それはデュルケームの「集合表象」にも近い考え方でした。

1910年にイギリスに渡ったマリノフスキは、ロンドン・スクール・オブ・エコノミクスの大学院に入学します。そこで彼は、ニューギニアでの調査を終えて『英領ニューギニアのメラネシア人』を出版したばかりのチャールズ・ガブリエル・セリグマンと、幼少期にともに育った男女同士は性感情を持たなくなるという「ウェスターマーク効果」の提唱者であるエドワード・ウェスターマークから学びました。