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回復した京アニ放火容疑者は、なぜ「優しさ」についてまず語ったのか

凶行から垣間見える「やさしさの偏在」

人からはじめて「やさしさ」をもらった

〈病院関係者によると、青葉容疑者は現在、感染症などの合併症を起こす危険な状態を脱している。自力歩行はできないが、会話は可能という。転院前、治療に携わった医療スタッフに対して「人からこんなに優しくしてもらったことは、今までなかった」と感謝の言葉を伝えたという〉(京都新聞『京アニ事件容疑者「こんなに優しくされたことなかった」 医療スタッフに感謝、転院前の病院で』2019年11月15日より引用)

ある人にとっては、毎日のように与えたり与えられたりするのが当たり前である「やさしさ」。しかし別のある人にとって「やさしさ」は、ほとんど見つけられず、まただれからも与えてもらえず、場合によっては一生涯これと無縁のままで生きていくこともある。

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人の「やさしさ」は無限に湧き出すものではない。有限のリソースである。また、個々人がそれぞれに持つ「やさしさ」は、この社会ではだれに手渡すかを自由に決めてよいことになっている。分け与える対象を第三者に強制的に決定されるようなことはない。

その結果として、多くの人から「やさしさ」をたくさん集められる人と、だれからも「やさしさ」を与えてもらえない人へと、ゆるやかに二極化していく。

私たちは、自らが持つ有限の「やさしさ」をだれに配るべきか、つねづね慎重に見定めている。私たちは「やさしさ」を道行く人へ適当に与えたりしない。自分の「やさしさ」を、もっとも喜んでくれる人に与えたいし、もっとも見返りが大きそうな人に与えたいと考える。私たちは「やさしさ」を一種の貨幣のように扱っている。

彼が人生ではじめて「他人のやさしさ」を知ったのは、大量殺人の容疑者になってからだった。自分で自分を破滅させて、多くの人の命を奪い、社会から「とうてい赦しがたい極悪人」という視線を受けてようやく、医療者からの「やさしさ」に触れた。もっとも、凶行によって半死半生の状態にならなければ、その「やさしさ」が与えられることすらなかったのだろう。やりきれない光景だ。

Photo by gettyimages

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