結婚や離婚の取材を長年続けているライターの上條まゆみさん。「子どもがいる」ことで離婚に踏み切れなかったり、つらさを抱えていたりする人の多さに直面し、そこからどうやったら光が見えるのかを探るために、具体的な例をルポしていく。
今回は30代前半で未就学児だった二人の娘を連れて離婚した渡辺晴子さん(仮名・56歳)。暴力があったわけではない。離婚しなかったらどうなっただろう、とも思う。そんな離婚について考えてみたい。
ごく普通の家族だった
渡辺晴子さんは21年前、30代の前半で離婚した。当時、娘は6歳と2歳。
「ちょうど上の子が小学校に入学する直前でした。入学してから苗字が変わるって、子どもには大変じゃないですか。だから、離婚しようかとなったとき、じゃあそれまでに、と急いでしまった部分はあります」
晴子さんは専業主婦をしていたが、実家が商売をしており、帰れる家も仕事もあったことが離婚のハードルを低くした。2人の娘の親権は当然のように晴子さんがもち、実家の持ちビルの2階に入った。
離婚の理由は、性格の不一致、つまり「好きじゃなくなった」。24歳のとき、知人の紹介で知り合った元夫は5歳年上で、そのころとしては互いに結婚適齢期。初めから結婚を意識して付き合い、1年ほど経ったところで「そろそろ……」と結婚した。女性は「クリスマスケーキ」、つまり25歳までに結婚しなければ売れ残りと言われていた時代だった。
結婚してから元夫は、勤めていた不動産屋を辞めてスーパー経営を始めた。1階がスーパーで2階が住まい。朝昼晩とも食事が一緒という生活に息がつまり、晴子さんの希望で住まいだけ別の場所に移した。その後、2人の娘に恵まれた。
「とくに仲が良くも悪くもなく、ごく普通の家族だったと思います。父親としても、頼めば子どもの面倒を見てくれましたし、大きな不満はありませんでした」
母亡きあとに父のケアを反対され
一方で、生活の端々で性格の不一致を感じてもいた。休日には家族で出かけたい晴子さんと、「混んでいるから」「面倒だから」と家に居たがる元夫。事あるごとに「嫁にもらったのだから」と口にする義両親に異を唱えないのも、一人娘で苦労なく育った晴子さんには鬱陶しかった。
はっきりと嫌になったのは、晴子さんの母親がクモ膜下出血で急死してからだ。1人残された父親は昭和1桁生まれで、家事は一切できない。突然、連れ合いを亡くして気弱にもなっている。そんな父親が心配で、晴子さんは頻繁に実家に帰った。それが、義両親や元夫には気に入らなかった。「嫁に来たのに、まだ娘のつもりなのか」と言われ、「いや、一生娘だから」と、カッとなった。