糖尿病が「自分事」になる瞬間
先日、2型の患者さんにリブレを使ってもらった。高度な肥満が背景にある40代女性のCさんで、糖尿病としても重症だった。2週間程度の入院中、リブレを装着したまま内服薬を調整し、日ごとに血糖値が下がっていくさまを見てもらった。
退院するとき、彼女は笑顔でこう言った。
「私ね、入院して本当によかったです。なんで入院しなきゃいけないの、って思ってたの。太ってるのは困ってたけど、糖尿病はべつに困ってなかったから。リブレつけてみて、私の血糖値がやばかったのも、ご飯の量で血糖値のあがり方が違うのも、薬が効いているのも、すごくよくわかりました」
治療者としては大満足の答えだ。しかし「血糖値がやばかった」というこの素直すぎる感想に、どこか引っかかりを感じないでもない。
「血糖値がやばい」かどうかは今後、彼女にとって極めて比重の高い価値基準となるだろう。これまでは好きなものを好きなように食べていたのに、これから先なにを食べるにも血糖値のことが頭をよぎるだろう。
ちょうど『ハーモニー』に登場する市民が、”Watch Me”に諭されるままに不健康な食事を避けるように、彼女も主食の量を調整するようになるだろう。
この不可逆的な変化を与えてしまったことが本当によかったのかどうか、実はよくわからない。自分はその不可逆性を深く理解したうえで、彼女にリブレを勧めていたか。おそらく答えはノーだった。
リブレは「身体の輪郭」を書き換える
リブレの登場は、人間が血糖値を知覚するための新しい感覚器を手に入れたことを意味する。この新たな知覚は、人間が自分の食行動と血糖推移を結びつけ、予測モデルを構成することを可能にする。というか、そうすることを強いるようなテクノロジーである。
いままでCさんにとってどこか他人事だった糖尿病という病気は、リブレによっていやおうなしに自分の身体の内側に組み入れられたのだ。先のAさんやBさんに起こったのも、おそらく同じことだった。
そしてAさんやCさんは、自分の身体を自分でコントロールできることを知り、喜び安堵した。他方Bさんは、自分の身体がコントロールできない初めての感覚に襲われ、ひどく恐怖した。
彼等に急速に芽生えた当事者意識は、糖尿病ケアにおいて極めて本質的かつ重要な意味を持つ。ゆえにリブレは、治療者にとって強力な武器である。ただし、同時に我々治療者は、その暴力性にも十分に留意せねばならないと感じる。なにしろそれは、相手の身体の輪郭を、まるっきり書き換えてしまうのだ。
いまこぞってリブレを使っているたくさんの治療者は、どんな風に感じているだろうか。