「差別は悪い」は本当か
「差別」問題が世間を騒がせている。
トランプ発言、H&Mパーカー問題、ダウンタウン浜田のエディー・マーフィー・メイク問題、FIFAワールドカップのヘイトスピーチ問題……古くて新しい問題。人間社会の鬼門である。
差別は悪い――。本当だろうか。
新約聖書にある有名なエピソード。
人々が姦淫の罪を犯したひとりの女を捕らえ、律法に定められているとおり石で打ち殺すべきかと問いかけたとき、イエス・キリストが言った。
「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」(新共同訳)
結果はあきらかである。イエスと女本人を残し、すべての者が立ち去っていった。
罪の告発と、自分の心に罪があるかどうかは、別の問題である。はたして私たちの中に、差別感情を持ったことのない人など、存在するのだろうか。
人種、民族、国民、地域、都道府県、市町村、学校、偏差値、性別、職業、貧富……私たちのまわりには、差別の対象となりそうなありとあらゆる指標が満ちあふれている。
「黒人」の側に立つ
黒人差別というのは、もっともわかりやすい事例のように見える。
15世紀から19世紀まで続けられた奴隷貿易、アメリカの公民権運動、アレックス・ヘイリーの『ルーツ』、ジャマイカのラスタファリ運動、ボブ・マーリーの活躍、南アフリカのアパルトヘイトとネルソン・マンデラ……ここ、極東の国にいる私たちのもとに、文字で、映像で、サウンドで、黒人に関する情報が届けられ、そして私たちは想う。
「ああ、悲劇の人種、黒人」
「自由を求めて戦う黒人」
「苦悩する黒人たちに幸あれ」
では、この「黒人=差別の被害者」というイメージは本当だろうか。
ここで、簡単に自己紹介をさせていただこう。
私はアフリカ音楽を研究する文化人類学者であり、妻はアフリカ人の歌手である。
コートジボワールのアビジャンで恋愛し、現地で伝統的な結婚式を挙げ、今は日本とアフリカを往復しながら、私は研究し、妻は音楽活動を展開している。
黒人と結婚するとはどういうことか。それは、私が「彼らの側」に位置する、ということである。
恋愛と結婚は違う。結婚とは、正式の手続きにのっとって姻族関係を結ぶということ。相手の親族とのあいだに権利・義務関係が発生するということ。
褐色のカワイイ女の子とちょっとイチャついて、やがて別の娘に乗り換える、というのとはわけが違う。そのことをもっとも敏感に感じとるのは、彼ら自身である。