戦時中の日本政府は「逃げるな、火を消せ」という防空法と、「空襲は怖くない」という情報操作を実施した。その全体像は前回記事(「空襲から絶対逃げるな」トンデモ防空法が絶望的惨状をもたらした)で紹介した。
この体制下で人々はどのように追い詰められたか。県知事が「逃げる者は処罰する」と布告した青森の実例をみることにする。ここでは、第一次と第二次の空襲の間に恐るべき命令が出されて市民が犠牲となった。
恐怖で逃げ始めた市民
大戦末期の1945年(昭和20年)7月14日午前から15日午後にかけて、洋上の米空母13隻から飛び立った艦載機2000機が北海道の根室から岩手県の釜石まで各地の港湾や飛行場を攻撃。
青函航路を擁する輸送拠点の青森市では、船舶・港湾・鉄道施設が狙われた。青函連絡船は沖合の船を含めて10隻が沈没、2隻が損傷して輸送が断ち切られたのである。
目の前で起きた空爆に、青森市民は震えあがった。避難禁止の法律など守っていられない。
7月15日の地元紙「東奥日報」は、勇ましい防空活動の美談と並べて、空襲下の青森駅で切符を求める行列ができたことを嘆いて「空襲下のしばらくの時間くらいは帰宅して防空活動に専念してもらいたい」という国鉄の部長談話を紹介。さらに、避難者を批判する次の記事を掲載した。
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何事ぞ、避難者の群れ 指導者は指揮を誤るな
「浮足立った市民が三々五々村落へ避難していく。警防団の制止も聞かばこそ、大部分は老幼婦女子であるが十分防火活動に堪え得る者もある」
「町会役員までがこの避難者の群れに混じっていたのはなんということか」
「自分たちさえ助かれば家はどうなってもよいという借家人心理は絶対に許されない。町会長、警防班長、隣組長の指導力強化こそ急務だ」(東奥日報1945年7月15日付)
紙上には、空襲を恐れず食卓を囲む模範的な家族と、農場へ避難する不届きな家族の写真も掲載。内務省特高課による検閲の影響もあり、不心得者を戒める紙面となっている。
新聞紙上だけではない。
青森県知事が作成した報告書「空襲状況に関する件」(同年7月23日付)は、「今次空襲に対する一般民衆の動向に関しては、……極めて逃避的なる態度に出づる者あり、これ相当混乱を呈したる状況」があったので、空襲後は「一般民衆の戦線離脱を極力防止する」ための伝達宣伝を展開するという。
逃げる者を放置することは絶対許されない。これは、県知事として責任を果たすという政府への約束でもある。