羽生結弦が『情熱大陸』の「感動の文法」にハマらなかった理由
あの人気ヒューマンドキュメンタリー番組『情熱大陸』が、900回の記念放送にフィギュアスケート選手の羽生結弦を取り上げる──。
新聞記事でそのことを知った瞬間、私は録画予約を始めていた。とくに熱い『情熱大陸』ファンではないのだが、羽生を取り上げるとあってはチェックしないわけにはいかない。〈羽生結弦×『情熱大陸』〉は、最高のカップリングに思えた。
ところが番組を見てみたら、何かがおかしい。いつもの『情熱大陸』と、どこか違う……。そんなことを思いながら見ているうちに、もうエンドロールが始まってしまった。「え、これで終わり?」と声に出してしまったほど、違和感が残った。
この放送に、いったい何が起こっていたのだろう。
『情熱大陸』が残した感動と違和感
『情熱大陸』という番組に、もう説明は不要なはずだ。旬な人物に「密着取材」を敢行し、その「素顔」を届けるというドキュメンタリー。1998年の放送開始から900回を数えたとあっては、もはや「国民的番組」と言っていい。
その番組が900回の記念放送の主役に羽生結弦を選んだ理由も、説明は不要だろう。羽生は今や問答無用の「国民的ヒーロー」だ。
この番組の中でも、羽生の出演する大阪でのアイスショーを見に来た人たちに彼の魅力を尋ねるシーンがあるが、その答えを聞いても「国民的」な人気度がわかる。
「羽生くん、かわいい」
「すごく誠実やし」
「インタビューの受け答えなんかが素晴らしい」
「もう人間じゃないみたい」
「自分より年下なのに、しっかりしてて、日本を背負ってやってるんやなって」
年齢も性別も関係なく、幅広い支持を得ていることがうかがえる。羽生結弦×『情熱大陸』――「国民的」な人気を持つもの同士の最高の組み合わせだ。
それなのに、番組が大きな違和感を残したのはなぜなのか。そこを確かめるために、もう1度見直してみた。