なぜ「政府からの独立」が必要か?
私は今年10月14日まで開催されていた「あいちトリエンナーレ2019」のキュレーターの一人であるが、同時に文化庁の委員を二つ務めていた。
一つは、2018年に始まり、日本の現代美術の海外発信を目的とする「アートプラットフォーム事業」、もう一つは非公表の外部審査委員(文化庁の特定の事業の審査を行う役職)である。
アートプラットフォーム事業は、海外との人的ネットワークの構築、日本の美術に関する文献の英訳、海外に向けた日本の美術館の収蔵情報データベース整備などを行なっている。私はその中で、翻訳ワーキンググループの主査を担当していた。訳すべき文献の選定をし、各文献にふさわしい英訳者を探し、校閲も含めた編集体制を整えること、著者や発行元、画像の権利処理についての方針を固めること、出版やウェブなど公開方法の検討をすることが主な仕事内容である。日本の美術に関する文献が英訳されて資料体として公開されれば、国際的なパースペクティブで現代美術を研究する上での基盤となるだろう。
この事業は、助成とは異なり、文化庁自ら行うものである。このことは大きな危険と背中合わせである。国が自ら文化事業を行うことは、政府に都合のよい表現を「発信」することに転化しやすいからである。それを防ぐためには、事業が政府から独立していることがとりわけ重要となる。
ましてや海外へ発信するなら、なおさらである。海外には検閲のある国が多くあり、アーティストたちは常に自由を求めて戦っている。今回のあいちトリエンナーレでの「表現の不自由展・その後」中止に対する反応からは、特に検閲のある国の作家たちが介入に対して極めて敏感であることを痛感させられた。
国に公認された「御用」美術の宣伝だと受け止められてしまうと相手にされない。幸いにもアートプラットフォーム事業では、選書の過程で、内容について文化庁から注文がつくようなことは一度もなく、検閲の恐れを感じたことは全くなかった。