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ピーター・ターチン「科学とイデオロギーを切り離す」(2013年5月11日)

もし世界をよりよくしたいのなら、まず社会がなぜこのように動いているのかを明晰に理解しなければならない。〔…〕受け入れがたい結論を避ければ、社会病理の根底にある因果関係に蓋をしてしまうことになる。

Keeping Science and Ideology Apart
May 11, 2013
by Peter Turchin

〔私が運営している〕社会進化フォーラム(the Social Evolution Forum: SEF)は、科学にフォーカスを当てることを指針としている。一方、イデオロギー的だったり党派的だったりする投稿やコメントは歓迎されていない(これまででそのようなコメントを削除したのは2件だけだ。大抵は、話題を政治に移すのは控えてほしいとだけ頼めばそれで事足りた)。

SEFでイデオロギーに基づく議論を禁止するのには、十分に実際的な理由が存在する。インターネットの黎明期、私はネット掲示板やオンラインフォーラムの多くをを追っていたのだが、そこでは議論が当初のテーマから政治の話題に移ると、激しい人格批判がなされるようになり、議論が終わってしまう、というウンザリするような光景が繰り返されていた。

より一般的に考えても、イデオロギーと科学をできるだけ切り離しておくことには、同じように十分に実際的な根拠が存在する。経験的に、一度イデオロギーが科学的議論に持ち込まれると、議論の質は急激に劣化するのだ。

しかし私たちは、科学が有用であってほしいとも思っている。実際、我々科学者は、究極的には自身を支えてくれる社会のおかげで活動できている。このことは、全ての科学的探究が、社会に直接的な利益をもたらすと約束して自身の存在を正当化する必要があることを意味しない。このブログの読者は承知の通り、そのような〔科学に対する〕態度は逆効果になる(また詳しくは述べないが、愚かである)と私は考えている。しかし究極的(長期的)には、科学は〔社会に〕善をもたらす力となるべきだ。象牙の塔に閉じこもっている少数の科学者を除けば、ほとんどの科学者はこれに同意するはずである。

この問題は最近、以前にもまして私の意識に上るようになっている。なぜかと言えば、私は今、イデオロギーと科学を平然と混同したある学術書を批判する原稿を書いているからだ。一般的に見て、歴史はとりわけ、イデオロギー的な目的のために誤用され濫用されがちな学問分野である。

ちなみに、ソ連では著名な歴史学者や社会科学者がごく少数しか生まれず、多くの優れた数学者やチェスのプレイヤーが輩出されたのもこのためだ。数学者やチェスプレイヤーにとっては幸いなことに、定理の証明や、チェスの盤上で駒をどのように動かすべきかについて、弁証法的唯物論は何も語らない。

歴史にある程度精通した人なら、自分のお好みの理論を支持する複数の歴史的事例をいつでも挙げることができるだろう。同時に、それとは論理的に対極に位置するような理論を支持する複数の歴史的事例も挙げられるだろう。これが意味しているのは、歴史学が無能な学問であることではなく、単に過去についての理論をどのように検証するかについて慎重になるべき、ということである。特にチェリーピッキングはご法度だ。ある事実から特定したサンプルの集合があるとき、〔その中から一部を取り出すのではなく〕全てのケースを含めて研究しなければならない。同様に、年代史の記述者(あるいはその雇い手)の政治的意図や、ある種の人工物が他の人工物よりも考古学的記録に残りやすくなる物理的プロセスといった、データに影響を与えている可能性のあるバイアスについても気にかけなければならない。これは専門的で、たくさんの思考や作業を必要とするが、かなりの程度実行可能である。

以上のことは、ほとんど自明である(だからといって、政治家や御用学者たちによる歴史の日常的濫用を止めはしないだろう)。しかし他の例を考えてみよう。ある小さな、しかし誇り高い国が、外部の敵に対する名高き勝利や、世界的な文化遺産に対する重要な貢献などの、自国の過去の栄光を、その若き国民たちに教え込んでいるとしよう。実際には、その国は貧しすぎる上に戦略上なんの価値も持たなかったため、周辺の帝国はわざわざ征服しなかっただけであり、国外で読まれる作家もおらず、ノーベル賞を受賞した科学者もいない。

このとき、あなたは、その国の学校のカリキュラムを、客観的な歴史研究に可能な限り沿わせるべきだと主張するだろうか? 私は、自分に確信を持てない。結局国家は、アンソニー・D・スミスとジョン・アームストロングによる巧みな造語を用いるなら、「神話エンジン」(mythmoteur) [1]訳注:国民や民族の連帯を可能にする物語、の意と思われる。 を必要としているのだ。その国の栄光の過去に対する誇りを壊してしまったら、その国に住む人々が国家制度の中で協力する能力を低下させてしまうかもしれない。そして、シニシズムと腐敗が蔓延し、最終的には人々のQOLを下げてしまう可能性もある。

言い換えれば、学校における歴史教育のカリキュラムは、科学的根拠を必要としていない。歴史教育は社会的連帯に関するものだが、クリオダイナミクス(歴史動力学)〔という科学的探究〕とは別の問題なのだ。

もちろん、2008年にジョージアで起きた事件のように、自国への誇りの感覚や過剰な自尊心は手に負えなくなることもある。ジョージアは、南オセチアとそこに駐留していたロシアの平和維持軍を攻撃してロシアとの戦争のトリガーを引き、すぐに屈辱的な敗北を喫して、自国への誇りはいたく傷ついた。

それほど小さくはなく、かつ誇り高い国も、過剰にナショナリスティックな自信を持ち、それによって周辺国、更にはしばしば自国に対しても破滅的な帰結をもたらしてしまいがちである。ナチスドイツはもちろん典型例だが、他にもたくさんの例を挙げることができる。

私が驚天動地の〔受け入れがたい〕結論を提示できるかはまだ分からない。それでも、科学は可能な限りイデオロギーから自由であるべきだという考えは理にかなったものだと信じている。「何であるか」と「何であるべきか」を混同しないことは大変重要だ。もし世界をよりよくしたいのなら、まず社会がなぜこのように動いているのかを明晰に理解しなければならない。良い科学は政治的に正しくない結論や、ときには納得しがたい結論を生み出すかもしれない。しかし、そのような受け入れがたい結論を避ければ、社会病理の根底にある因果関係に蓋をしてしまうことになる。これは、社会をよくするための最も効率的な方法ではない。

ゆえに、「あるべき」状態を最も効率的に達成するためには、まず「何であるか」の追求において「何であるべきか」を無視しなければならない。社会がどのように機能し進化するのかを突き止めてはじめて、私たちは社会を正しい方向に誘導していく方法を設計し始められるのだ。

これはまた、SEFでは明らかに(あるいは、暗黙的だがあからさまな)イデオロギー的、党派的なコメントは、問答無用で削除されるということも意味している。

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1 訳注:国民や民族の連帯を可能にする物語、の意と思われる。
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