安井智規(やすい としのり)とは、元プロ野球選手である。
OB | |
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安井智規 | |
基本情報 | |
国籍 | 日本 |
出身地 | 兵庫県西宮市 |
生年月日 | 1943年1月25日 |
身長 体重 |
177cm 66kg |
選手情報 | |
投球・打撃 | 右投右打 |
守備位置 | 内野手 |
プロ入り | 1961年 |
引退 | 1975年 |
経歴 | |
選手歴 コーチ歴 | |
プロ野球選手テンプレート |
大阪高等学校に進学。在学3年間で甲子園大会には出場できなかった。
入団2年目の1962年、控えの内野手として一軍に定着し、59試合に出場。
その後は打撃面で結果を残せず、代走や守備固めでの起用が続いたが、1964年には109試合に出場。
1966年、ショートのレギュラーであった矢ノ浦国満が移籍したことでレギュラーに定着。102試合に出場して、打率.216、1本塁打、10打点、8盗塁を記録。
1967年、課題であった打撃面の改善に成功。打率.247、7本塁打、31打点、15盗塁を記録。
1968年、全試合に出場して、打率.243、3本塁打、34打点、54盗塁を記録し、盗塁王のタイトルを獲得。
1969年、初めてオールスターゲームに出場し、打率.272、27打点、42盗塁を記録。
1970年以降は打撃面で苦しんだが、1970年・1972年にはパ・リーグ最多犠打を記録するなどつなぎの役割をこなした。
1972年に一枝修平が移籍してきて以降は、サードやセカンドなどを守る機会が増えていった。
近鉄退団後は関西メディカルスポーツ学院で監督、コーチを務めた。
俊足好守で活躍した内野手。犠打も多く、つなぎの役割も得意としていた。
1968年にセーフティーバントを試みた際に榎本喜八と交錯し、乱闘に発展した事がある。なお、この乱闘の際、近鉄の控え選手がバットを振り回して榎本の頭部を殴打し、その選手が後に暴行容疑で書類送検されるまでに発展してしまった(後日、両球団間で示談は成立している)。
通算:14年 | 試合 | 打席 | 打数 | 得点 | 安打 | 本塁打 | 打点 | 盗塁 | 犠打 | 犠飛 | 四球 | 死球 | 三振 | 併殺打 | 打率 | 出塁率 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
NPB | 1288 | 3719 | 3394 | 369 | 782 | 20 | 199 | 200 | 146 | 12 | 146 | 21 | 325 | 52 | .230 | .266 |
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最終更新:2024/12/28(土) 03:00
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