OB | |
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基満男 | |
基本情報 | |
国籍 | 日本 |
出身地 | 兵庫県武庫郡 |
生年月日 | 1946年11月10日 |
身長 体重 |
172cm 71kg |
選手情報 | |
投球・打撃 | 右投右打 |
守備位置 | 内野手 |
プロ入り | 1966年ドラフト外 |
引退 | 1984年 |
経歴 | |
選手歴 監督・コーチ歴 | |
プロ野球選手テンプレート |
1946年11月10日生まれ。兵庫県武庫郡(現:神戸市東灘区)出身。
小・中学生時代はサッカー部で活動していたが、中学3年時に担任教師の勧めで野球を始める。
報徳学園高等学校に進学。1年時よりセカンドのレギュラーとして活躍し、1964年春・夏の甲子園大会に出場。夏の甲子園大会ではベスト4まで勝ち進んだ。
大学は駒沢大学に進学。しかし、父親が亡くなったため大学を中退し、篠崎倉庫に就職。1年半ほど勤めた後、西鉄ライオンズと阪神タイガースの入団テストを受け、両チームとも合格したが西鉄に入団することを決めた。
初年度の1967年から出場機会を得て124試合に出場、打率は.225を記録。
翌年1968年にはセカンドのレギュラーに定着し規定打席に到達、打率.235、12本塁打21盗塁、オールスターゲームにも選出された。この年秋にアメリカの教育リーグに派遣され、当初は速球で押してくる外国人投手に苦しんだものの、必死に喰らいついているうちに次第に対応できるようになっていった。これが翌シーズン以降に繋がっていく。
1969年、パ・リーグ8位の打率.295、二塁打はリーグ最多の34記録。
1970年、開幕直前に黒い霧事件の嫌疑をかけられ西鉄球団が自主的に出場停止処分を下し5月いっぱいの出場を見合わせた。後に八百長を断ったこと、報酬の受け取りを拒否したこと、すでに球団から出場停止処分を受けていたということでNPBからの処分は戒告処分のみとなった。この年は前年より打率を下げたものの、キャリアハイとなる21本塁打を放った。
1972年には初の打率3割超えとなる打率.301に加え、20本塁打、25盗塁という成績を残し、初のベストナインにも選出された。
1976年、この年首位打者に輝く吉岡悟にレギュラーを奪われ、中日の藤波行雄とのトレードが内定していたものの、藤波がこれを拒否し基は残留することになった。翌年には再びレギュラーの座を奪回している。
1979年、不調であったフェリックス・ミヤーンの代わりにセカントのレギュラーとして出場、ミヤーン復調後は故障した田代富雄の代わりにサードのレギュラーとして出場、中軸もこなすユーティリティープレイヤーとして重宝された。
1980年、別当薫監督の助言を受け打撃フォームを改良。自己最高の打率.314をマークし、ベストナインとダイヤモンドグラブ賞を受賞した。
1984年はコーチ補佐を務め、兼任選手としてプレー。少ない出番の中で打率.345を残したものの、若手に出番を譲る形で現役を引退した。
引退後、大洋、日本ハムファイターズで1988年までコーチを務め、以降は解説者や評論家として活動している。
走攻守に渡り高いレベルでプレーしチームに貢献し続けた職人肌の名手。右打ちや進塁打、バントなどの小技だけでなく、時には長打を放つなど様々な役割をこなした。
ウッドペッカーというグラブを叩いてボールを出し、ショートにバックトスするという独特のグラブトスを見せることもあった。
通算:18年 | 試合 | 打席 | 打数 | 得点 | 安打 | 本塁打 | 打点 | 盗塁 | 犠打 | 犠飛 | 四球 | 死球 | 三振 | 併殺打 | 打率 | 出塁率 |
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NPB | 1914 | 7355 | 6349 | 796 | 1734 | 189 | 672 | 217 | 179 | 40 | 731 | 60 | 925 | 120 | .273 | .352 |
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最終更新:2024/12/28(土) 03:00
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