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藤井弘単語

フジイヒロム
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藤井弘ふじい ひろむ)とは、元プロ野球選手である。故人。

概要

1935年9月29日生まれ。広島県福山市出身。

商業高等学校に進学。3年の県大会では決勝戦まで勝ち進むも敗退。も敗れてしまい、甲子園大会には縁がなかった。

卒業後、倉敷レイヨンに就職。ここで活躍し、1955年八幡製鉄から移籍話が舞い込み本人も乗り気だったが、倉敷レイヨンから猛反対され断念。この少し後に広島カープから打診を受け、プロ球団ならやむなしと倉敷レイヨンから許可を取り広島カープに入団。ちなみに、八幡製鉄については八幡製鉄監督広島白石敏夫監督後輩であったため、問題になることはなかった。

初年度から出場機会を得たが、プロにぶち当たり、当時の新人ワースト記録となる41打席連続ノーヒット記録。あまりの打てなさに自信を喪失し、での移動中にに身投げしようとするまでに追い込まれたが、野崎泰一二軍監督に見つかり「死んだつもりで頑ってみろ」と諭され思いとどまった。初年度の最終成績は打率.075であった。

1957年プロボールに対応できるようになり3番打者に定着、オールスターゲームにも初出場した。成績は全試合に出場して、打率こそ.231であったが、17本塁打、62打点と長打力でチームに貢献した。

以降、広島の中軸打者として活躍を続け、1958年打率.272、17本塁打、55打点1959年打率は.213であったが、20本塁打マーク

1960年は故障したで86試合の出場にとどまったが、翌1961年からは復調し、1967年まで7年連続で二桁本塁打を放ち、特に1963年には打率.280、20本塁打、80打点といずれの部門でもキャリアハイの成績を残した。

1968年からは衣笠祥雄らの台頭もあり出場機会は減少。1969年、現役引退

引退後も広島に残り、スカウトや一・二軍の打撃コーチ二軍監督の任を務め、導者として広島黄金時代を築いていった。

2018年11月9日脳梗塞のため死去。享年83歳。

人物・エピソード

持ち前の長打力と勝負強さを武器に、低迷期の広島の中軸打者としてチームを支えたスラッガー。相手チームエース級やサヨナラの場面での一打もった。

その反面守備に難があり、内野の守備時に藤井の守備位置にフライが上がると球場が静まり返ったという。

41打席連続ノーヒットの新人記録は、2021年佐藤輝明更新するまで長らくプロ野球記録であった。

通算成績

打撃成績

通算:15年 試合 打席 打数 得点 安打 本塁打 打点 盗塁 犠打 犠飛 四球 死球 三振 併殺打 打率 出塁率
NPB 1504 5055 4343 476 1035 177 603 34 41 33 590 48 747 114 .238 .336

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