無限の選択肢を前に呆然とする消費者。交換の場に本来の価値を取り戻し、そこで選ばれるためには、任される「顔」が必要になる。気鋭の経営コンサルタントが岩井克人氏との対話から戦略論を探る。連載の第2回。

 

ドラマチックな交換

 交換の効率性はその極に達した。

 ワンクリックで本が届く、柿が届く。望めば南アフリカからケープ・ペンギンも届く。私たちは、親の世代が想像できないほどの商品を前にしている。しかし、親たちよりも不満足である。さらには子どもの頃の自分よりも不満足である。ファミコンに心を躍らせたのは子どもだったからではない。昔はワクワクできた。レビューは大損しないために有用だが、予定調和を生む。「まあ、きっと面白いだろう」と思ってゲームを買う時、その面白さは半ば失われている。

 レビューの星を数え、スペックを比べ、価格の一番安い店を探し、ボタンを押す。これが本質的に「交換する人間」であるわれわれが望む交換の形であろうか。いや、そうではない。では、交換の場から何が失われたのだろうか。その亡失の歴史は貨幣とともに古い。

 岩井克人先生はモースの『贈与論』や、オーストリアの経済学者の言葉を引きながら、交換から本来の価値が失われる前の姿を示された。豊かな「贈与交換」の世界である。

「貨幣以前の社会というのは、これはカール・ポランニーなどが有名にした言い方で、『経済が社会の中に埋め込まれている』社会である。どういうことかというと、経済的な交換というのは、さまざまなもっと広い意味での交換のごく一部でしかないということを言っている」

 先生は交換が経済以外の社会的な価値も豊かに持っていた例として、ポットラッチなどの儀式的な「贈与交換」の話をされた。一族の前で気前の良さを見せ合う酋長の着飾った姿が目に浮かぶ。日本でもお中元やお歳暮に僅かに残っている交換本来の十全たる姿。そこでは、交換が手段であるだけでなく、目的としても存在している。

「そういう意味で古代の交換というのは、人間社会をほとんど全部覆い尽くすような、人間社会の中で最もドラマチックな、人間が自分の存在を確かめるようなものが交換する行為だったのです」