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デザインと哲学を行き来し、ただひたすらに「問い」続ける──newQ・瀬尾浩二郎

日常のなかで感じる違和感から問いを立てたり、これまで上手く捉えられなかった事象を表す概念を工学したりすることは、「考えることからの疎外」から脱却する手段だと考えています。

俗世間を離れ、薄暗い研究室でカビとホコリにまみれた本の山とにらめっこしながら、一般人には理解不可能な論文を執筆する。多くの人々が描く「哲学者」のイメージは、きっとそんなところだろう。つまり、仙人のように、過去の偉人たちが遺した書籍にだけ向き合っている存在。

けれども、newQ(株式会社セオ商事)・瀬尾浩二郎の話す「哲学」は、そんなイメージとはちょっと違う。

自社内に「哲学事業部」を設立し、哲学カルチャーマガジン『ニューQ』の刊行や「問いフェス」といった哲学のイベントを開催。また、クライアントワークの中でワークショップを行いながら、哲学がデザインにもたらす可能性を検証している。瀬尾はものをつくる中で「哲学する」ことを探究してきた人物だ。

近年、とりわけ2010年代から2020年前後にかけて、ビジネス領域からの哲学に対する注目は、世界的に高まってきた。

もともと、ヨーロッパにおいて1980年代から見られていた「哲学コンサルティング」(哲学の知見や手法を応用したコンサルティング)に対するニーズは、2010年代になるとシリコンバレーの企業に波及していった。AIやデータマネジメントなどの倫理的な問題に対して思考する「企業内哲学者」を登用する動きも見られ、Googleは2011年に哲学者のデイモン・ホロヴィッツをフルタイムの企業内哲学者として採用、Appleでは政治哲学者のジョシュア・コーエンを登用している。

日本でも近年、株式会社メタがスピノザ研究者の佐々木晃也を登用。電通には大阪大学社会技術共創研究センター招へい准教授で プラグマティズム言語哲学とその思想史を専門とする朱喜哲も加わっているなど、同様の動きの萌芽が見られる。

そうした中で、瀬尾は初の著書『メタフィジカルデザイン -つくりながら哲学する-』(左右社、2024)を上梓。「何かをつくる人のための哲学入門」としながら、デザインと哲学を行き来して探究していくことを論じた。

いったい、瀬尾は、なぜ哲学とデザインの往還に挑むのだろうか。そして、それが実現した先には、どのような未来を描いているのだろうか。

「デザイン思考」に感じていた「窮屈さ」

取材に向けたやり取りをしていると、瀬尾から、「取材前に食事でもどうでしょうか?」と誘われた。

彼が指定した小洒落た雰囲気のピザ屋には、瀬尾とともに、彼の会社・newQに所属する若いスタッフたち。取材前ということで本題には入らず、ざっくばらんに共通の友人の話やデザイン業界のトレンドなどに話が弾む。すると、ふと思い出したように、ひとりの社員が瀬尾にこう告げた。

「あ、明日、デモ行くので早退しますね」

どういうことだろう? 筆者と編集者の怪訝そうな表情を見たのか、瀬尾は、取材陣に向けてこう補足する。

「うちの会社では、福利厚生の一環で、就業時間中にデモに行っていいことにしたんです」

柔らかな物腰の瀬尾もまた、いわゆるアクティビストとまでは行かないまでも、ときおりデモに参加する。そういえば、最近上梓した『メタフィジカルデザイン -つくりながら哲学する-』のあとがきにも、入管法改正反対のデモに参加したときの様子が書かれていた。

上品な味わいのピザでお腹を満たしたわたしたちは、newQのオフィスへと移動。曲線を多用した内装が、柔らかな雰囲気を演出するそこで、iPhoneのボイスメモを起動した。

もともと、エンジニアとしてそのキャリアをスタートし、サービスの企画やUI、UXデザインを専門とするようになった瀬尾。20年以上にわたりITやデザインといった領域に身をおいてきた人物だ。

面白法人カヤック時代には、日経ビジネスのアプリやGoogleのキャンペーンサイトの企画などを手掛けてきた。2014年に独立し、newQ(株式会社セオ商事)を設立。THE GUILDにも所属し、クラウドサインのUI設計や、ニュースメディアのデザイン業務などに携わってきた。

この期間、スマートフォンをはじめ新しいテクノロジーによるイノベーションが多く生まれるとともに、「デザイン思考」という手法もまた広く普及していった。だが、瀬尾は次々と生まれてくる新たなテクノロジーやチームでイノベーションを生み出す思考方法に魅力を感じてきたものの、次第に、それらに対し、そこはかとない違和感を覚えるようになったという──そこに現実の「社会」を見つめる視点が抜け落ちているように思えたからだ。

瀬尾「この15年の間に、デジタルテクノロジーを中心としたデザインの世界は、新自由主義的な価値観が随分と強くなってきたと感じています。自由な発想が求められる一方で、『競争に勝つ』『破壊的イノベーションを巻き起こす』といったゴールが設定され、定性的な価値より、測定することのできる定量的な価値を中心に評価されるよう変化していったと思います。

しかし、そうした価値判断のフレームが設定されることで、『社会をよくする』といったときに検討されるべき倫理的な側面や、『何とも言えないけどいいよね』という感覚的な側面など、フレームの外側にある事象を上手く捉えられなくなっていった印象も受けたんです。言い方を変えれば、客観的に説明できることばかりが重要視され、デザインにおいて大切な、まず自分が実際に観察したり手を動かしたりして感じたことや、『正しい』と思えることから考えていくという主観的な視点が失われていったように感じました。それが、すごく窮屈に思えました」

瀬尾が独立した2014年からの数年は、海外ではケンブリッジ・アナリティカによる個人情報の不正利用が注目され、国内でも医療健康情報サイトWELQが物議を醸すなど、ITの世界における問題が顕在化し、より深刻なテーマとして浮上していく時期だった。その中で、隆盛を極めていた「デザイン思考」にも限界を感じるようになったという。

瀬尾「デザイン思考は、デザイン実践のプロセスを体系化したもので、対象を観察することで課題を見つけ、プロトタイプをつくりながら問題を解決していくことを基本とします。それらをさまざまなツールやフレームに落とし込むことで、デザイナーではない人もデザインのプロジェクトに巻き込んでいけるようになりました。

デザイン思考はチームで考えていくための、とても良い枠組みだと感じていたのですが、一方で扱える課題に限界があるとも思うようになっていきました。たとえばデザイン思考でよく扱われる問いに“How might we ~?”という構文があります。これは『どうすれば私たちは~できるか?』という問いの構文を完成させることで、プロジェクトで解決すべき課題を定式化するものなのですが、課題の前提を疑ったり、ものごとの意味や価値そのものを検討するといった作業は、デザイン思考の枠組みでは難しいのではないか? という印象を持つようになっていったんです

「哲学する」との出会い

限界を感じつつあるデザイン思考に対して、さらには新自由主義的な価値観が強まる社会そのものに対して、窮屈さを感じたとしたらどうすればよいのだろうか。 主体的に立ち止まって、与えられた価値観や思考法を疑うことなしに、外に出る糸口を見つけることはなかなか難しい。

そんなジレンマを抱えていた頃、瀬尾は友人でありAI研究者の三宅陽一郎が主催するイベント「人工知能のための哲学塾」(後に『人工知能のための哲学塾』(ビー・エヌ・エヌ新社、2016)として書籍化)に参加した。

集まっていたのは、人工知能研究者、脳神経科学者、哲学研究者、ゲームエンジニア、SF作家など多種多様な人々。三宅による講義の後、そんな、バックグランドの全く異なる人々が「知能とはなにか?」という大きな命題に対して和気あいあいと議論を行う。

瀬尾「そこでは、課題を解決するためにアイデアを出す必要はなく、ただ問いをもとに皆で話し合いながら知能とはどういうものなのか、理解を深めていくことができました。

課題を解決しようと、がんばってアイデアを出し続けるのではなく、一旦立ち止まってみる。そして問いをもとにじっくりと考えていくことが、窮屈だと感じられるフレームから外に出て、自分なりの価値観や考え方を形づくるヒントになるのではないかという予感がしたんです。それが、自分と『哲学する』こととの出会いでした」

瀬尾の使う「哲学する」という言葉には注釈が必要だろう。それは歴史的な哲学者の探究や理論を研究し解釈していく営みというよりは、実際に自ら問いを立て、考えていくことを指している。もちろん「哲学する」ことなしにこれまでの哲学者の探究を研究することは難しく、また「哲学する」上で過去の理論や研究を参照することもあるだろう。しかし、まずは身の回りにある問いを見つけ哲学していくことに瀬尾は魅力を感じた。

「問う」という営みが描く希望

こうして「哲学」という魅力的な取り組みに可能性を感じた瀬尾は、哲学の実践をおこなっている友人とサービスデザインのプロジェクトにおいて「問いを立てるワークショップ」を開催することになる。

瀬尾「はじめて『問いを立てるワークショップ』を開催したのは、遺伝子情報を扱うスタートアップとのプロジェクトでした。そこでは『自由』をテーマに問いを立てながら議論をしました。遺伝子情報を調べると、その人のルーツだけでなく、健康や病気に関する傾向や『数学が得意』『スポーツが得意』といったその人の特性がある程度わかるようになります。

そのような傾向を知るのと知らないのでは、『何かをやってみよう』と思ったときの選択がもつニュアンスが少し変わる気がしたんです。その変化を紐解きながら、遺伝子情報を調べることの価値や、必要な倫理的な配慮について議論をしました」

また、とあるニュースサイトのプロジェクトにおいて、「ニュースの公共的な価値」を考えたことも印象深かったと瀬尾は述懐する。

瀬尾「ニュース記事を評価する際に、ページビューや滞在時間といった指標がまず挙げられるのですが、それだけでは足りないという課題がありました。たとえば、ページビューだけを意識すると『釣りタイトルの記事が増える』という懸念が生まれます。また、滞在時間で計ろうとすると速報性の高い短文の記事を評価することが難しくなるでしょう。

そこで、『いい記事』がもつ要素を紐解くために、『ニュースの公共的な価値とは何か?』という問いから考えてみることにしたんです。そうすると、一見みんな共有できていたような『公共的な価値』の認識にも違いがあることがわかってきた。そこから議論をしながら、みんなで共有することのできる、記事を評価するための指標をつくっていくことに、とても意義を感じました」

このような「問いを立てるワークショップ」を実践していく中で、瀬尾はある変化に気がついた。問いを立て、課題を捉え直していくことでチームの議論は活性化し、その後のサービスデザインにおける施策の立案においても、優れたプランが多く集まるようになったという。

瀬尾「前職でもあるカヤックが制作する『まちのコイン』というコミュニティ通貨のサービスデザインに誘われた際は、『取引を行うときに何を行っているのか?』という問いから考えてみました。取引では、ただサービスや商品を金銭と交換しているだけではなく、もっと多様なやりとりが行われていることがあります。たとえば、立ち話で地域についての情報を交換したり、常連のお客さんだったらちょっとしたお土産を持っていったりすることがあるかもしれません。また、取引をする中で、お互いの関係に信頼感が生まれていきます。

そのような取引のあり方に注目していく中で、お店とお客さんという一義的な関係でなく、もっと多様な関わり方ができることが、より豊かなコミュニティを育むことにつながると思うようになったんです。たとえば、海沿いのカフェがビーチクリーンのボランティアにお客さんを誘って、参加してくれた人にちょっとしたおまけをするといったように。このようなストーリーをいくつか考えながらアイデアを出し合い、デザインを進めていくことになりました」

このように、サービスデザインの中で哲学していく仕事のほかにも、問いを立て「哲学する」ことのおもしろさを探究するために、瀬尾は知り合いの編集者やデザイナーとともに、2018年に哲学カルチャーマガジン『ニューQ』を創刊。

『「答え」より「問い」の方が面白い? 』をテーマに「ISSUE 01 新しい問い号」を刊行し、続いて「ISSUE 02 エレガンス号」「ISSUE 03 名付けようのない戦い号」を制作してきた。

雑誌やサービスデザインを通して「哲学する」ことを探究しながら、2010年代の後半から2020年代へと、時代は移り変わっていく。

「考えることからの疎外」を乗り越え、「自由な社会」を生み出す

瀬尾のオフィスはリラックスした雰囲気に満ちている。多すぎない哲学書やデザイン書。大きなスピーカーとターンテーブルに、社員がそれぞれ持ってきたという10数枚のレコードたち。インタビューの裏では、キース・ジャレットやチック・コリアの名盤で知られるECMレコードの音源が流れていた。

閑話休題。

新たな価値観をつくる哲学、そして問いの可能性に魅了されていった瀬尾。

では、そんな哲学という経糸に対して、デザインという緯糸はどのように絡まり合っていったのだろうか?
具体的にデザインを行う際に、哲学はどのような貢献をすることができるのだろうか?

その結節点となる試みが、近年、分析哲学と呼ばれるジャンルにおいて注目が集まっている「概念工学」という発想だった。概念を新たに生み出したり、既存の概念を改定することによって人々の認識を変えていく。瀬尾の目には、「概念工学」は哲学とデザインとの橋渡しとなる営みとして映り、「哲学にもデザインのように工学的な側面があるのか! と驚いた」と振り返る。

瀬尾「たとえば『シェアリングエコノミー』という言葉は、近年、新たな概念として世界的に普及し、日本でもサービスの形態の一つとして広く捉えられるようになりました。しかし、日本からは、このような新たな概念が生み出されることが近年減ってきたと感じます。

与えられた概念の枠組みの中で試行錯誤するのではなく、既存の概念が持つ問題点を見つけ、改訂することを提案したり、新しい概念をつくっていくことで、より上手く探究していくことができるのではないかなと考えました」

彼が本のタイトルにも用いた『メタフィジカルデザイン』という造語もまた、一つの概念工学なのだろう。

形而上の物事を扱うことのできる哲学と、具体的な事物をつくっていくデザイン。両者が組み合わさることによって、哲学だけでも、デザインだけでも成し得なかった新たな可能性が見えてくる。

哲学をしながら何かをつくり、何かをつくりながら哲学する。そこには、形而上と形而下を往復する運動としてのデザイン/哲学が見えてくる。それは、ジャズプレイヤーが音楽理論を用いながらも、その瞬間の響きや空気を感じ取り、即興の中で新たな音を紡ぎ出すことに似ているのかもしれない。

では、デザインと哲学を混ぜ合わせた活動をとおして、瀬尾はどんな未来に到達したいのだろうか?

そんな質問を受けて、長い時間悩んだ後、瀬尾は「いい社会を作っていくこと」と、つぶやく。

瀬尾「自分がずっと気になっていたのは『考えることから疎外されているのではないか』という感覚でした。

一般的には、組織の中で設定されている指標だったり、共有されているイデオロギーの外に出て考えるのは困難なことです。たとえば、公共性といった社会に必要とされるものごとの価値を仕事のなかで考えるのは実はなかなか難しい。また、イノベーションの文脈で社会を語るときに、よく『技術の民主化でより自由な社会をつくる』といった定型句が語られるのですが、そこで価値とみなされる自由は意外と表面的なものだったりもします。たしかに、リモートワークやシェアリングなどで生活は便利になり、できることも増えているのに、どこか『自由に考えること』からは疎外されているような気がしてしまう。

日常のなかで感じる違和感から問いを立てたり、これまで上手く捉えられなかった事象を表す概念を工学したりすることは、『考えることからの疎外』から脱却する手段だと考えています。それは新たな発想に貢献するし、何よりも自分たちの探究を明らかにし、主体的にものをつくっていく原動力になります。問いを立てて前提を疑いながら考えていくことは、わたしたちが『自由』を手にするための手段でもあるんです」

複雑に設計された社会システムは、人々に対して思考の放棄を強いてきた。それによって、わたしたちの暮らしは楽になり、考えるというコストを支払わなくなっていく。そうして失われるのは、「自由」という人間が古来から求めてきたはずのものだった。問いを立て、概念を吟味し、ときにデモへ行く。瀬尾にとって、それらはすべて自由を巡って行われる営みであった。

では、いったい、わたしたちにとって、自由とは何だろう?
あるいは自由に考えることが大切なのだとしたら、「考える」とは何か?
言語以外で、たとえば映像を使いながら「考え」られないだろうか?
いや、そもそも誰もが自由に考えるためには、「公正」であることも必要では……。

瀬尾の頭の中には、いつも、さまざまな問いが入り乱れている。

Credit
取材・執筆
萩原雄太

1983年生まれ。演出家・フリーライター。サイゾー、CINRA.net 、美術手帖、XD、早稲田ウィークリーなどに寄稿する。『浅草キッド「本業」読書感想文コンクール』優秀賞受賞。

撮影
今井駿介

1993年、新潟県南魚沼市生まれ。(株)アマナを経て独立。

編集
小池真幸

編集、執筆(自営業)。ウェブメディアから雑誌・単行本まで。PLANETS、designing、CULTIBASE、うにくえ、WIRED.jpなど。

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