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カオスな「レンタルショーケース」を始めたときの話(元たま・石川浩司の「初めての体験」2)

カオスなレンタルショーケース店「ニヒル牛」の外観
カオスなレンタルショーケース店「ニヒル牛」の外観

20世紀最後の年に、とあるお店をオープンした。

「あぁ、売れなくなった芸能人がよく始める飲み屋とかでしょ? ありがち、ありがち。スナック『ランニングシャツ』とか居酒屋『着いたー!』とか?」

いえいえ、レンタルショーケースのお店で、当初はアートギャラリー雑貨店と言っていた。店名はニヒル牛。「にひるぎゅう」と読む。西荻窪にあるお店だ。

元々「たま」というバンドのアルバムタイトルを考えている時に、ふと僕が思いついたネーミング。一見のほほんとした牛が、陰ではニヒルにニヒヒヒと笑っているイメージでつけた。

美術作品は「披露する場所」が少ない

ライブハウスに出始めた二十歳の頃から、ひとつ疑問に思っていたことがあった。

音楽をやる人には、「発表の場」の段階がいくつもある。駅前で歌うという即時性のものもあるが、基本的にまず始めは、小さめのライブハウスの昼の部からスタート。そこで人気が出ると夜の部になり、スリーマンやツーマンでライブができるようになる。そこからさらにワンマン。そして大きめのライブハウスに出られるようになるとメジャーのレコード会社から誘いがくるようになり、デビューしてホール。最後はアリーナと、どんどん大きな会場へとステップアップがある。

しかし、美術をやっている人にはそうした場がほとんどない。絵画やオブジェ、写真などを撮っていても、いきなり画廊での個展は難しいので、美術学校や美術サークルの仲間と一緒にグループ展をやるのがせいぜいだろう。しかし見に来るのは、ほとんどの場合、友達や関係者だけで、一般の人の目に触れることはあまりない。ましてやそれが販売されることも。

つまり音楽に比べて、美術は発表の場が極端に少ないと思ったのだ。実際に僕が20代の頃に暮らしていたアパートは、いろんなアマチュア表現者たちのたまり場で、ミュージシャンが多かったものの、中には美術方面の人もいた。しかし、彼らの作品を簡単に見られる状況では無かった。

美術作品を販売する構想

そこで僕が考えたのは、「美術のライブハウス的なもの」を作れたら面白いんじゃないかということだった。敷居を低くして、一般の人にも見てもらえ、なんなら買ってもらえるというお店があったらいいと思った。

そこで僕は、店内に多数の箱と仕切りを置き、そこにひとつずつ作家さんの作品を置いて売れるスペースがあったらいいと考え、当時はまだアマチュアだった「たま」のメンバーにもその構想を話した覚えがある。

箱のスペースを月極めで安く貸して、売れたものの何割かを手数料でいただく。全くの素人考えだが、作品を置いてくれる人が継続してくれる楽しいお店なら、大儲けはできなくても採算は取れるんじゃないかと思った。

当初は、箱のスペースの値段を上げて、販売手数料は無くした方がいいかとも思ったが、それだと箱代だけが収入になってしまう。そうすると、「こんな物もありまっせ~」といった店員の販売努力につながらなくなってしまうので、この形態がいいかなと思ったのだ。

しかし、そう考えたもののお店を始めるお金も無く、また具体的にどうすればいいのかも分からずに、アイデアを温めただけで時間が過ぎていった。そうこうする間に、「たま」がメジャーデビューして、いつの間にか10年近い月日が経ってしまい、すっかり忘れてしまっていたのだ。

スイスの美術館で運命的な出会い

そんなある日、曲がヒットしてちょっとだけお金が入ったので、「今しか親孝行はできねえ~」と思って、山好きの両親にスイスのアルプス旅行をプレゼントした。山もすばらしかったが、ここで運命的な出会いがあった。

ローザンヌという町のアール・ブリュットという美術館だ。ここには精神障害者や犯罪者など正規の美術教育を受けていない人たちの作品があった。後にアウトサイダーアートの巨匠として知られることになるヘンリー・ダーガーの作品は、特に凄い迫力で迫って来た。これには僕や両親、そして何より妻が凄い衝撃を覚えた。

「美術の教科書には絶対に載らないような素人でも、こんな凄まじいオーラを放つ作品が作れるんだ!」

ヘンリー・ダーガーはそもそも死の直前に作品が大量に見つけられたものの、本人は人前でそれを発表する意思さえなかったのである。僕らは「こういう大発見があるかもしれない。素人のアートをもっと見てみたい」と思った。そこでハッと思い出したのが、前述の「美術のライブハウス」である。それなら素人のアート作品を、もっと手軽に見せることができる。

幸い妻は、僕と違って行動派だった。すぐに不動産屋をめぐり、物件を見つけてきた。そして、姉御肌で人を集めることにはすこぶる長けていたため、あっという間にお店のデザインをしてくれる友人、作品を展示する箱を作ってくれる友人、電気関係の配線などを設置できる友人などを集めて、お店を開くこととなった。

開店してわかった「たま」ファンの特徴

「ニヒル牛」の店内の様子
「ニヒル牛」の店内の様子

もちろん不安はあった。経営なんてしたことないし、これまでにない形態の店だ。しかし僕らは、「失敗してもともと。また面白い遊びを見つけたぞいっ!」という感じで、開店準備を進めた。こういうお店だからこそ、作品を展示する箱もDIYじゃないとね。ちょっと汚れていた方が雰囲気が出ると、ひとつの箱に何度もニスを塗ってはヤスリでこすって風合いを出した。作った箱の数は、トンカントンカンと200個以上。その作業だけで一ヶ月近くかかった。

そして作品の募集を開始。募集要項としては「一般流通したり大量生産していない、手作りの物」を基本とし、「100人のうち99人にとってはゴミでも、たったひとりの人にとっては宝物かもしれない物」といった作品を求めた。一般的な美術の価値を壊すためにも、基本的に「無審査(アンデパンダン)」を強く打ち出すことにした。お店のスタッフが「これは素晴らしい、これは駄目」という基準を決めない。最低限のルールとして、法的に問題がある物やニオイを発生して他の作品に迷惑がかかる物などは除外したが、それ以外は自由に値段をつけて販売していいものとした。

この応募には予想外の展開があった。実は僕らが当時やっていたバンド「たま」は、レコード会社の人から「どうやって売り出せばいいかわからない」と言われていた。パンクなら10代向けのロック雑誌に、ジャズやクラシックならちょっと大人向けの雑誌に宣伝するそうだが、たまはそれが分からないと。お客さんも老若男女いるものの、誰にでも受け入れられているわけでもない。つまりファンの共通点がわからないので、どの層に向かって宣伝すればいいのかわからないということだ。

しかし、このお店を開店することで、それがわかったのだ。開店する時にまずは作品を置いてくれる作家さんを募集したのだが、当初はその多くが「たま」のファンだった。僕がバンドをやって、そこで宣伝しているのだから当然のように思えるが、作品のレベルがみな高かったのだ。つまり、「たま」のファンは年齢層や性別などではなく、「美術など創作活動をしている人」が多かったのだ。これは嬉しい発見だった。

レンタルショーケースの先駆けに

「ニヒル牛」の店内に並べられた箱
「ニヒル牛」の店内に並べられた箱

「ニヒル牛」には、200を超える箱が並べられた。ひとつひとつの箱が、それぞれの作家による小さな美術館。「ひとつずつ豆電球も付けたら小さなお店のようで面白いよね」という空間プロデューサーのアイデアも取り入れられた。

個性的な作品が並べられ、混沌としている展示スペース。さらに、作品も買うことができるという当時では斬新なコンセプト。僕がミュージシャンをやっていることもあってか、「新しい店舗形態」として、次々とテレビに取り上げられた。NHKを含む地上波にはすべて紹介され、中には「ニヒル牛」に集う作家に焦点を当てた1時間のドキュメンタリー番組まで作られた。

その翌年頃から、似たようなお店がいろんな町にオープンした。友達からは、「また似たようなお店ができてたよ。特許というか実用新案でも取っておけば良かったのに~」とも言われたが、僕はいろんな町で、いろんな作家さんの作品が売られている店があれば、それはとても面白いことだと思っていた。ただ、作家さんにスペースを貸すために作ったルール事項をホームページに載せていたら、それを丸パクリしているお店もあって、さすがにその時は「ちょっとはオリジナリティ持ってよ~」とは思ったが。

ちなみにウィキペディアにも「ニヒル牛」がレンタルショーケースの先駆けということは書かれている。上海にあるレンタルショーケースの「牛心」は、「同じような店を中国でもやりたいんです!」という経営者の熱い希望により、店舗指導に上海まで視察に行って、運営方法などを教えたお店で、今では観光ガイドブックにも載っているらしい。

個性的な展示の数々

店では「石川浩司」をモチーフとした作品も出展されている
店では「石川浩司」をモチーフとした作品も出展されている

開店当初は特に実験的な作品も多かった。ガラスの試験管の中に野菜を密封し、それがどんどん腐っていく様子を見せる「腐敗オブジェ」。100円払って箱の中に自分の頭を突っ込むとカラフルな色紙が髪の毛に絡まる「オシャレボックス」。そしてDANROでライターとして活躍している吉村智樹さんは、布で覆われた箱に幾ばくかのお金を払うと、そこに隠された秘密の面白写真が見られるという表現活動も行なっていた。

他にも小学生が自分で絵を描いたオリジナルTシャツ、プロの下駄職人さんが作ったミニチュア下駄、その横には一本糞のオブジェがなど、とにかくカオスな空間となっていった。

最近は音楽活動が忙しくなり、お店は妻に任せきりになってしまったが、個性的な作品の他にもいろんな特別展をやっていて、訪れるたびに新しい発見があるような店づくりをしている。例えば、怖い人形などを並べた「お化け屋敷」。個人旅行のミニコミを集めた「旅の本展」。海の生き物をモチーフにしたグッズばかりの「海中アパルトメント」。ちょっとアダルトな作品を集めた「秘宝館」。個性的な展示が多く、次に何が起きるか予想のつかないお店となっている。

ちなみに、僕も妻も大好きだった、故・忌野清志郎さんがステージで使っていた派手派手なアクセサリーは、「ニヒル牛」で調達していただいた物も多かったのだ。

そういえば狂牛病が流行った時に保健所から人が来たこともあった。

「あっ、店名に『牛』はありますが、店を見てもらったらわかる通り、食品は一切扱っていないアート雑貨の店なので」

そう妻が言ったが、「いや、万一のこともあるので」と強引に注意事項の用紙を置いていったこともあった。「万一」ってどんな時だ・・・。お役所仕事なり。

(2021年4月現在、新型コロナウイルスの影響で店内の人数制限をしています。なるべく来店日時を電話かメールで予約していただけると確実に入店できます)

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石川浩司 (いしかわ・こうじ)

1961年東京生まれ。和光大学文学部中退。84年バンド「たま」を結成。パーカッションとボーカルを担当。90年『さよなら人類』でメジャーデビュー。同曲はヒットチャート初登場1位となり、レコード大賞新人賞を受賞し、紅白にも出場した。「たま」は2003年に解散。現在はソロで「出前ライブ」などを行う傍ら、バンド「パスカルズ」などで音楽活動を続ける。旅行記やエッセイなどの著作も多数あり、2019年には『懐かしの空き缶大図鑑』(かもめの本棚)を出版。旧DANROでは、自身の「初めての体験」を書きつづった。

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