倭。 もともとは古代中国による古代日本の呼称だったが、「日本」という国号が採用されるまでは日本でも用いられていた。
中華思想により、漢民族は周辺の異民族に蔑称を用いたが、「倭人」とは「背丈が短く背が曲がっている人」を意味する。
なぜか『旧唐書』では倭国伝と日本国伝に分かれているほか、『旧唐書』以降の史書では日本国(倭国)は倭奴国だったと書かれている。
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又、色々な発掘調査で「九州だ」「畿内だ」とやってますけど、これって地震研究とか同じで、東大派や京大派の史学者の利権や金儲けの様な気がしてならないのです。 研究費用って音頭取っているところにお金が動く訳で、それらしい本を出しては金儲けって事じゃないでしょうかね? 昨今では、ゲノム解析やミトコンドリアDNA解析も進んでいるので、真実は分かっていても、あえて避けている様な気がしています。 写真の本は一部ですけど、色々な本を読んで、私が感じている内容のまとめです。 1.邪馬台国はあったのか? →ありましたが、邪馬台国ではなく倭国でしょう。魏志倭人伝の言葉は中国から見た日本を貶んだ文字で表現したと推測し…
ライブドアブログ「帆人の古代史メモ」に「114 『和をもって貴し』は『倭をもって貴し』である」をアップしました。http://blog.livedoor.jp/hohito 縄文論とは直接には関わりありませんが、「9.『委・倭人』のルーツはどこか?」では、雲南の「イ(夷・倭)族(烏蕃、ロロ族:1200万人)」とわが国の「委・倭(い)人」との関係を整理していますので、参考にしていただければ幸いです。 聖徳太子についての各説を極論的にまとめると、右派は「日出処天子致書日沒処天子」と「新羅侵攻」に着目して独立・武闘派であると主張し、左派リベラルは反天皇制から「聖徳太子架空説」を唱えるか、「和を以て貴…
7世紀の日本には大きな出来事がありました。それは中大兄皇子などを中心とした宮廷勢力が豪族の長であった蘇我氏を滅ぼし大化改新を行ったことです。巷間言われるように、中大兄皇子が蘇我氏を滅ぼさなければならなかったのは単なる権力争いではありませんでした。大化改新がなされたまさに645年、唐の太宗は10万人の大軍で高句麗に攻め込見ました。倭国は高句麗・百済と親交があり高句麗の次に唐が攻め込んでくるのは倭国ではとの恐怖に駆られました。当時の倭国は、それぞれの地域で豪族が乱立した状態であり対外的にとても結束などできる状態ではありませんでした。唐からの攻撃が予想される中で倭国としては国内の権力を天皇のもとに集…
今回紹介する新書 海の向こうから見た倭国 (講談社現代新書) 作者:高田貫太 講談社 Amazon 出版社:講談社 発売日:2017/2/15 レビュー 朝鮮半島の情勢を読み解くことで、日本古代史を多角的に俯瞰する1冊。 よく高校までの日本史においては、「朝鮮半島から渡来人がやってきて中国の進んだ文化を取り入れた」などと簡単に語られることの多い古代外交。しかし、果たして航海のリスクが非常に高かったこの時代に、本当に先進文化を伝えたいという善意だけで人々は海を渡ってきたものなのでしょうか?まるで倭だけが一方的に恩恵を受けたような印象を受けますが、朝鮮半島側も倭と結ぶメリットがなければ、このような…
清朝のチャイナドレス、独特の民族衣装は見慣れているので一目で分かりますが、それ以外の衣装が、パッと見てどの時代?と見分けがつかないので、中国時代服飾辞典を見たいと思っていました。この動画がわかりやすかったです。昔の絵画などに忠実に再現したドラマを紹介されています。 唐と明の時代の女性の衣装、チマチョゴリに少し似ていますね。チマチョゴリは、上着を上に出していますが、唐のは襟のない上着をブラウスのように下に着て、スカートを胸の上で巻き付けるような感じみたい。露出の多いデザインで、冬はどうするのかと思いましたが、上に重ね着をするみたいですね。唐の時代のファッションと言えば、高松塚古墳の壁画に描かれた…
邪馬台国東遷に従わなかった側についての話8、遣唐使についてです。 前回の話 小野妹子以降も 旧唐書には2つの国が 使節に関する記述 前回の話 前回は、小野妹子について考えてみました。 yokositu.hatenablog.com 遣隋使が大和政権から派遣されたのではなく、九州王朝の王により派遣されたという前提から、『日本書紀』に書かれた「大唐」への派遣は作り話であり、その使者とされる小野妹子も架空の人物ではないかという話でした。 小野妹子以降も その「大唐」への派遣ですが、有名な小野妹子以降にも、犬上御田鍬らを派遣したと『日本書紀』にあります。 しかし、この『隋書』側には、倭からの朝貢につい…
(目次) はじめに 第1章 人類の登場~ホモ・サピエンス前史 1 人類の起源をどう考えるか 2 人類の進化史 コラム1 脳容積の変化と社会構造 第2章 私たちの「隠れた祖先」~ネアンデルタール人とデニソワ人 1 ゲノムが明らかにした人類の「親戚関係」 2 ネアンデルタール人のDNA 3 謎多きデニソワ人の正体 4 ホモ・サピエンス誕生のシナリオ コラム2 DNA・遺伝子・ゲノム 第3章 「人類揺籃の地」アフリカ~初期サピエンス集団の形成と拡散 1 「最初のホモ・サピエンス」から出アフリカまで 2 アフリカ内部での人類移動 3 農耕民と牧畜民の起源 第4章 ヨーロッパへの進出~「ユーラシア基層集…
どうも、ひのきですm(*_ _)m さて、じわじわと進めておりましたホツマツタヱの読み解きですが現在40あるうちの17アヤ(章)までしか進んでい状況でございまして、一気に進めていた所から急な巡拝続きでピタリと停まっておりましてw 18アヤ以降の読み解き再開は恐らく年末年始記事を書き終えた頃... 記事としてはひとアヤでひと記事だったりいくつかをまとめていたりとマチマチですがずっとそのままというのも参拝の考察(主に後述)とズレも出てきてしまうのでそろそろアップしていこうかな~と思います 過去に書いたこととも被りますが全体的に共通する部分を予めまとめておこうと思った次第であります ∠( ̄^ ̄) 人…
特集「日本古代国家形成史研究の最前線」 ◆国家形成史研究の歩み(森田喜久男*1) (内容紹介) 特集の総論的な内容。 ・藤間生大*2『日本古代国家』(1946年、伊藤書店) ・石母田正*3『日本の古代国家』(1971年、岩波書店→後に岩波文庫) ・吉田晶*4『日本古代国家成立史論』(1973年、東京大学出版会) ・都出比呂志*5『前方後円墳と社会』(2005年、塙書房) ・広瀬和雄*6『前方後円墳国家』(2003年、角川選書→2017年、中公文庫)、『古墳時代政治構造の研究』(2007年、塙書房) ・寺沢薫 『弥生時代国家形成史論』(2017年、吉川弘文館)、『弥生国家論』(2021年、敬文舎…
邪馬台国東遷に従わなかった側についての6、俀國についてです。 前回までの話 「俀國」について 「俀國」と称していた? 「俀」の意味から考えると 前回までの話 前回までの2回の話は、遣隋使について考えてみたものでした。 yokositu.hatenablog.com yokositu.hatenablog.com 遣隋使に関する中国側の記録である、『隋書』「東夷傳俀國傳」の内容から、遣隋使がどこから派遣されたのかを考えました。 中国側の使者である裴世清の旅程から、畿内まで行ったとは考え難く、九州に目的地の都があったと考えらえることから、遣隋使を派遣したのは九州の勢力(九州王朝)だったのではないと…
馬見丘陵公園、古墳状高まり 次に向かったのは、奈良盆地の南西部の馬見古墳群エリアにある馬見丘陵公園。馬見古墳群は、奈良盆地における佐紀盾列古墳群、箸墓古墳を含む大和柳本古墳群と並ぶ大和三大古墳群の一つで、4〜5世紀に築造されたといわれる古墳が多く、250基を超える大古墳群である。約56haと広大な馬見丘陵公園には、3つの駐車場がある。南駐車場は巨大な前方後円墳である巣山古墳の前方部に面している。古墳外堤のすぐ北に古墳状高まりがあり、発掘調査で円筒埴輪列と円筒棺、船形埴輪の破片が出土した。 馬見丘陵公園、古墳状高まり 巣山古墳は、馬見古墳群の中央群中でも中心的な、墳丘長は204m(推定復元220…
・ ・ ・ 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。 ・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・ 2024年12月13日 MicrosoftStartニュース Real Sound「古代朝鮮に倭の拠点はあったか? 歴史学者・仁藤敦史に聞く、古代東アジア史の一大争点「加耶/任那」の実態 © Real Sound ブック 国立歴史民俗博物館教授で古代史を専門とする歴史学者・仁藤敦史氏による新書『加耶/任那―古代朝鮮に倭の拠点はあったか』(中公新書)が話題を呼んでいる。 「加耶(かや)/任那(みまな)」は、3~6世紀に存在した朝鮮半島南部の小国群を指す名称で、『日本書紀』は任那と記し…
以前小麦から古代史を振り返りました。 同様に米による農業革命にも興味があり、日本において米視点から古代を振り返ってみました。 稲作(関連技術)の伝来 漢委奴国王印の金印から伝来時期を推測 渡来人が来た理由を推測 稲作革命(農業革命) 魏志倭人伝からわかること 謎の邪馬台国 まとめ 稲作(関連技術)の伝来 米、稲作は中国(台湾含む)から直接または朝鮮半島を経由して、最初に九州に伝わったと言われています。 その際に田植えから、炊飯して食べれるようになるまで伝わったようです。 そりゃ、そうですよね。 春に 「こうやって田んぼは作るんだぞ!」 と教えてもらい、秋になって 「こうやって、刈り取るんだぞ!…
昨日は日本人と韓国人の違いを論じた。今日は、日本人の「争いを避ける文化」の起源を探った。日本人の祖先である縄文人は、1万年以上争いをせず日本列島で暮らしてきた。それが弥生時代となり、渡来人が入って来て稲作が始まると一変した。 上図は環濠集落の分布を示す。環濠集落とは、周囲を濠(ほり)で囲んだ集落で、外敵の侵入を防ぐための防御機能や排水機能を備えている。中国史書の『後漢書』の「東夷伝」には、2世紀後半(弥生時代末期)の倭国が統一的な支配者を持たず、戦が頻発して国が乱れていたことが記されている。魏志倭人伝においても、邪馬台国は争いを続ける国々だったが、卑弥呼が女王になったことで戦乱がおさまったと記…
『随書俀国伝』(現代語訳・注:山尾幸久)から 当時の倭(俀)国からの遣隋使についてはp322-323に記事あり。開皇20年(西暦600年)に倭(以下俀の代わりに倭を使ってしまう)の王で姓が阿毎(あま)で字が多利思比孤(たりしひこ)。倭国では阿輩鶏弥(あほきみ)と称している。 倭王の妻の名は鶏弥だ。 太子の名は和歌弥多弗利だ。(山尾氏は田村(みたふり)皇子(後の舒明)を当てている) 文帝が所轄の官庁に倭国の風俗を尋ねさせて、答えを得ている。 倭国には城郭がないとも言っている。 *"俀=タイ"文字については 引用先平凡社刊東洋文庫264『東アジア民族史1』p320-321を参照 本紀で倭を用い、志…
韓国尹大統領の非常戒厳宣布から発した韓国政治の混乱は、弾劾決議が否決されたことで、一気に大統領失職まで進む流れは取り敢えず止められたが、野党には弾劾再提出の動きもあり予断を許さない。韓国ではいつも、与党も野党もどちらも折れようとしない。どこかで妥協して、このような政治混乱を解消する方が余程良いと私は思うのだが、韓国人はそんな風には考えないみたいだ。 余談ながら、私が昔ブラジルの海外現地法人へ出張した時、現地駐在員から「日本人と韓国人は全然違う」という話を聞いた。これは駐在員の印象ではなく、駐在員がブラジル人から聞いた話である。ブラジルにおいて、日本人(日系人)の評価は非常に高い。日本からブラジ…
邪馬台国東遷に従わなかった側についての話4、遣隋使についてです。 やはり大和政権ではなかった 『隋書』の記述 畿内というには無理が 九州から出ていない やはり大和政権ではなかった 前回の記事では、倭の五王について考えました。 リンク: yokositu.hatenablog.com 九州に残った勢力が、広開土王碑に倭として描かれているように、朝鮮半島北部の奪還に失敗した後で、高句麗組み難しと見たのかそれ以上の武力による解決を諦め、政権の正当性の確立と朝鮮半島南部での権益を守る方向に方針転換をします。 その結果として行われたのが、中国の歴史書『宋書』にある、倭の五王による朝貢なのです。 「讃・珍…
出雲の国譲り神話か史実を元にしているとするならば、いつの時代の出来事だったのか?妄想してみました! 式内楯原神社に伝わる武甕槌の子孫の社伝 出雲の国譲りの時代はいつ? 出雲の国譲りと荒神谷遺跡 結論から申しますと、出雲の国譲りは3世紀中旬頃の出来事だったのではないかと考えています。 式内楯原神社に伝わる武甕槌の子孫の社伝 出雲の国譲りの時代を知りたくなったのは、大阪府大阪市平野区喜連(きれ)にある式内楯原神社(しきないたてはらじんじゃ)は武甕槌の子孫のゆかりの土地であると知ったためです。神話の中の神様というイメージから実在した人物なのではないかと考えました。 式内楯原神社(しきないたてはらじん…
佐紀高塚古墳 ヒシアゲ古墳から西へ向かう道は狭く、一度平城宮跡まで戻って、佐紀盾列古墳群の西群に向かう。佐紀石塚山古墳(成務天皇陵)、佐紀陵山古墳(日葉酢媛陵墓)、五社神古墳(神功皇后陵)と共に西群を構成し、その最も南に位置するのが佐紀高塚古墳(称徳天皇陵)である。墳丘長が127mの前方後円墳で、前方部を西方向に向け、南北を主軸とする西群の他古墳とは直交する。この写真では、正面に前方部、森の奥に後円部が位置する。 佐紀高塚古墳 佐紀高塚古墳の築造は古墳時代前期後半の4世紀代と推定されているが、被葬者は不明である。宮内庁により「高野陵(たかののみささぎ)」として称徳天皇陵に治定されている。『続日…