1867〜1941(慶応3〜昭和16)
草創期の博物学・民俗学に異彩を放つ業績を残した在野の学者。和歌山の富裕な商家の次男として生まれる。
幼少の頃から、その博覧強記ぶりは知られ、中国の百科全書である『和漢三才図会』を完璧に記憶して、写本を全巻残したというエピソードは有名。
上京して大学予備門に入学するも、アカデミズムに馴染めずに帰郷。同級生には正岡子規・夏目漱石などがいた。
その後、20歳の頃に渡米し、フロリダ・キューバなどで動植物の採集を行う。
26歳の時に、ロンドンへ渡る。大英博物館を拠点としながら、ありとあらゆる文献を渉猟しつつ、『nature』などの学術誌に「東洋の星座」をはじめとした学術論文を投稿し、学者としての地歩を固める。
またロンドンにおいて真言僧土宜法竜や孫文とも親交を結ぶ。とりわけ土宜との親交は深く、彼の宗教的関心がその往復書簡からはうかがえる。
33歳の時、大英博物館においてイギリス人の差別発言に激怒した熊楠は大英博物館を出入り禁止となり、職にもつけず、失意のまま日本へ帰国する。
帰国後は和歌山県田辺(田辺市)に居を構え、坪井正五郎などの推薦により、中央の学術誌に論文を書くようになり、文筆業を主な収入源にして、生計を立てる。
また柳田国男と頻繁な書簡交換をすることで、柳田に海外の民俗学研究の動向を紹介したりするなど、柳田民俗学の形成にとって、重要な役割を果たした。
明治末年に起きた神社合祀の動きには敢然と反対の意を唱え、神社合祀反対運動を展開する。その運動は、鶴見和子氏などの研究により、彼は先駆的エコロジストとして評価されている。この運動のきっかけは、現和歌山県田辺市の高山寺にあった日吉神社の強制合祀と同宮の神木の伐採であったという*1。
晩年には昭和天皇が和歌山に行幸した際、粘菌に関する講義を行ったエピソードは有名である。
また、1990年〜1991年にかけて、熊楠の幼少時代から青年期にかけてを描いた「てんぎゃん -南方熊楠伝-」が週刊少年ジャンプに連載されている。
しかしながら、そのスケールの大きさに相俟ってマニア的博引旁証と奔放な叙述が、逆に彼の研究状況を妨げていると言っても過言ではない。
その意味において、熊楠の研究はまだ途についたばかりだと言えるだろう。
書籍
関連書籍
*1:高山寺 〔正面南山〕より。