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日本ではいまや中華料理の代表格となった麻婆豆腐 Photo: DigiPub / Getty Images

日本ではいまや中華料理の代表格となった麻婆豆腐 Photo: DigiPub / Getty Images

クーリエ・ジャポン

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Text by Cheuk Kwan

※本記事は、関卓中『地球上の中華料理店をめぐる冒険』の抜粋です。

「3代目」の物語


私は80年代に東京勤務を経験している。当時は経済自由化の真っ只中にあり、勤務先のエンジニアリング・建設会社でたびたび耳にした国際化が進展していた時代でもある。

2023年の訪日時、とても暑い晴れた日、かつて頻繁に訪れていたお気に入りのレストラン2軒を訪ねることにした。

まず1軒目は、テレビ番組『料理の鉄人』の出演で人気を集めた陳建一の店、赤坂の「四川飯店」だ。その日オーダーしたのは、麻婆豆腐と辣子鶏丁(素揚げした鶏肉を四川特産の香辛料などで炒めた料理)である。

陳建一の父、陳建民は四川省出身。1952年に来日し、初の四川料理店をオープンさせた。数年後に東京オリンピック(1964年)を控えていたころの話である。辛い料理はそれほど人気がないとされていた国で、四川料理を広めたのが、陳建民の功績だ。

その代表格が四川料理の麻婆豆腐である。中華料理の定番メニューになるほど普及していることはご存じのとおりだ。

私が赤坂の店を訪れる半年前の2023年3月、息子の陳建一はこの世を去っていた。政界関連のビルが立ち並ぶ永田町から歩いてすぐのオフィスビルの5階・6階に店はある。30年以上にわたって店を切り盛りし、国内外で「中国料理の鉄人」として名を馳せた男である。今、その息子である3代目の陳建太郎が継いでいる。

3代目の物語がもう1つある。

赤坂で食事を終えてすでに満腹状態にもかかわらず、中華軽食を求めて、昔よく通った西麻布界隈を歩き回っていると、懐かしい店構えが目の前に現れた。伝統的な中国庭園によく見られる「月亮門」を模した円形の入り口が特徴的で、創業50年になる「北海園」である。

日本で最初に北京料理を出したのがこの店で、自慢料理は人気の豆漿(豆乳)と油條(訳注:チュロスのような細長い揚げパン)だ。

店内の装飾は昔のままだ。お気に入りの円形ソファー席を陣取ったまではよかったが、メニューに豆漿が見当たらない。すると、台湾出身の支配人である許(シュウ)から、もう豆漿は提供していないと聞かされた。客からの注文がないのだという。

6年前に元のオーナーから店を譲り受けたのだが、私のような愛着のある客のことを考えて、店の装飾はそのまま残しているそうだ。そこで、煎鍋貼(焼き餃子)を注文した。


日本はついに中国各地方の料理に目覚めたようだ


今回の訪日の際には、中華料理店がひしめく赤坂地区のホテルに宿泊した。どの店も、すっかり定着した四川料理(と、他省の人気料理)のサンプルが店頭のウインドウに飾られ、四川の本場仕込みの料理人が腕を振るうとアピールしている。

話を聞いてみると、実際にはこうした料理人はほとんどが「東北部」の出身で、上海で腕を磨いてきたようだ。

ここ30年の中国人移民事情を象徴的に示している地域といえば、山手線北西部の新大久保、高田馬場、池袋の3駅ではないだろうか。池袋駅を中心としたエリアは、今や東京のチャイナタウンと言われるほどだ(聞くところによると、埼玉県西川口駅周辺には上海人が集まっている)。

日本が好景気に沸いた1980年代後期は、深刻な労働力不足を招き、特に建設業やサービス業で影響が顕著だった。円高も手伝って、中国やフィリピンから大量の男性労働者が流入した。

中国人留学生も、日本政府の奨励策を背景に、大量に押し寄せた。新大久保駅で下車すると、中国人学生をターゲットにした日本語学校の看板がいくつも目に飛び込んでくる。

中国人や韓国人の経営する店が並び、当然のことながら、中国のあらゆる地域の地方料理を目玉に掲げる中華料理店もある。香港式の甜品(デザート)店も発見したのだが、オーナーは福建人だった。

駅から大久保通りを山手線の内側に向かって1ブロックほど歩き、狭い階段を降りていくと、地下に「廷吉香」というレストランがある。オーナーの侯(ホウ)は黒竜江省出身で、厨房を預かる夫の朴(プウ)は、隣の吉林省出身の朝鮮族だ。どちらの省もかつて日本が満州と呼んだ地域に相当する。

創業12年になる同店は、上野にも支店があり、飾り気のない店内には食べ放題の人気料理を並べたカウンターがある。

私は麻辣牛肉麺と羊肉陷餅(マトン肉のパイ)をオーダーした。どちらも中国のイスラム教少数民族の間では定番料理である。麺は適度な辛さがあり、いい香りだ。パイはサクサク感があり、中にはジューシーな肉が詰まっている。両方とも見事な本場の味である。侯によると、客の半分は日本人だという。

広東料理の時代を経て、日本はついに中国各地方の料理に目覚めたようだ。その過程で唐辛子をきかせた味も定着していく。

日本で力強く生き抜く中華料理店に送る賛歌


日本に住んでいたころは、日比谷映画に足繁く通い、封切り外国映画(ロードショー)を楽しんだものだ。この辺りも、いい思い出が詰まっている。だが、後にこの地区は再開発され、あの映画館はもうない。跡地は高級ショッピングモールになっていた。

だが、すぐ隣に「添好運(ティムホーワン)」が進出していることに気づいた。香港発祥の質素な点心専門店が東京に支店を出していたのだ。添好運は2010年にミシュラン1つ星を獲得し、「世界で最も安いミシュラン星付きレストラン」となった。今や12ヵ国に支店を出すグローバルチェーンである。

近年は世界的な中華料理チェーンも、人気を博す原点となった店名を引っ提げて、続々と日本上陸を果たしている。例えば、「海底撈(ハイディラオ)」(四川火鍋)「全聚徳(ぜんしゅとく)」(北京ダック)「鼎泰豐(ディンタイフォン)」(台湾小龍包)、さらには台湾式の夜市グルメとして人気の「台灣大鶏排(台湾式唐揚げ)」などだ。

中国人移民は、故郷を遠く離れて文化も言語もまったく違う社会に身を置くことも多い。生き抜くためには、移住先に適応し、臨機応変に立ち回る必要がある。そして、この適応力と創意工夫の精神の典型こそ、海外にある中華料理店なのだ。

レストラン経営であれ、製品作りであれ、生き残るには客の趣味や嗜好に合わせなければならない。それがビジネスの鉄則である。

日本の中華料理も、中国の料理を日本というパレットに適合させた現地化あるいはハイブリッド化によって生まれた料理なのである。そして、日本の食習慣に合わせて普及し、なじんでいった結果、街のいたるところにいわゆる「町中華」が誕生したのだ。

私は20年ほど前、世界の中華料理店をテーマに全15編からなるドキュメンタリー映画を撮った。撮影スタッフを引き連れ、アマゾンから北極圏まで、5大陸15ヵ国を訪ね歩き、中華料理店を足がかりに世界に離散していった中国人たちの物語を描いた。本書はその回想録である。

だが、どういうわけかドキュメンタリー映画では日本が抜けていた。日本版のために本稿を書いたのは、その“過ちの埋め合わせ”の意味もある。また、こうやって日本で過ごした思い出をたどることは、私にとっての“帰郷”であり、日本で力強く生き抜く中華料理店に送る賛歌でもある。

本記事は関卓中『地球上の中華料理店をめぐる冒険』の抜粋です

PROFILE

Translation by Eiichiro Saito

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