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メトロポリタン美術館に掲げられた日本の写真家、笹本恒子のポートレート
Photo: Kelly Midori McCormick

メトロポリタン美術館に掲げられた日本の写真家、笹本恒子のポートレート Photo: Kelly Midori McCormick

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ワシントン・ポスト(米国)

ワシントン・ポスト(米国)

Text by Kelly Midori McCormick

抑圧された生きづらい社会を生き抜いて活躍した女性たちの姿を見ると、勇気づけられるものだ。だが女性という「性別」だけにとらわれ、残した功績の裏側にある歴史を見落とすことは本末転倒なのではないか──男性優位の写真の分野で活躍した日本人女性、笹本恒子の作品が展示されたことを受け、歴史家が米紙「ワシントン・ポスト」に寄稿している。

2021年7月2日~10月3日にかけて、「カメラの背面に立つ新しい女性(The New Woman Behind the Camera)」と銘打った特別展がニューヨークのメトロポリタン美術館(MET)で開催された(現在はワシントンのナショナル・ギャラリーに巡回中。会期は2022年1月30日まで)。これは、20世紀前半に活躍した重要な女性写真家の作品を紹介した写真展になる。

ニューオーリンズの黒人コミュニティで写真スタジオを開いて成功した女性写真家たちをはじめ、世界各地で活躍した女性写真家の草分けの作品が一堂に会している。METの正面エントランスで人びとを迎えていたのは日本の写真家、笹本恒子の8メートル近い特大ポートレートだ。

アジア人と、アジア系アメリカ人に対するヘイトクライムが急増するアメリカで、METの壁面に掲げられたアジア人女性写真家のポートレートを見上げれば心強くも感じられるだろう。

しかし、この写真の使用には問題がひとつだけある。たしかに笹本(1914年生まれ、現在107歳)は、男性が優位の分野で活躍した女性報道写真家の草分け的存在に違いない。だがそれだけではない。彼女は第二次世界大戦中、日本政府のプロパガンダ写真家でもあったのだ。彼女の作品は日本の東南アジア侵攻とその植民地化を正当化し、「日本はアジアのどの地域よりも優れた存在」とする危険なイデオロギーの押し付けに使われた。

今回の特別展がどれほど大成功を収め、笹本が女性写真家のパイオニアであることは間違いないとしても、弾圧する側に組み込まれて名声を得たという歴史上の事実が冷水を浴びせている。

メトロポリタン美術館による展示作品の紹介。笹本に関わる作品については4分あたりから


横行する写真によるプロパガンダ


笹本恒子は1914年、富裕な家庭に生まれた。彼女が育ったのは、日本が軍事力と領土の拡大へ突き進んでいた時代。

19世紀後半、成立して間もない大日本帝国は台湾、現在の沖縄県にあった旧琉球王国、そして北海道をあらたな領土として編入した。次いで1910年、旧大韓帝国を併合すると、日本は朝鮮語と朝鮮文化を徹底的に抑圧する。1931年、日本軍は中国東北部の満州を占領し、東アジアに展開する日本の「新秩序」を樹立するための重要拠点と位置づけた。そうして過激な急進派が台頭した日本政府は急激に右傾化し、1937年に中国で凄惨な戦争を始め、1941年、アメリカに宣戦布告する。

笹本は美術学校を出ると、東京の新聞社で挿絵画家として働き、1939年に内閣情報部の国策機関「写真協会」に入る。協会所属の写真家は、ファシズム体制下の日本の生活を捉えた、国家プロパガンダ用途の政府公認の写真を撮影し、それが国内外の定期刊行物に掲載された。

日本のファシズムもヨーロッパ大陸のファシズム国家と同じく、純血思想を国民に植え付けて統制を図り、日本人から見て「劣っている種」と断じた民族の支配を画策した。写真によるプロパガンダは、この目的達成の重要な役割を果たしている。

大日本帝国のプロパガンダグラフ誌『FRONT』の海軍号。同誌は1942〜1945年まで出版された
Photo: Wikimedia Commons


まず自国や植民地向けに写真を制作して配布し、日本人が人種的にも文化的にも優れていること、伸張しつつある帝国の指導者であることが強調された。次に、アジア以外の人びとを想定した写真を制作して、日本の文明と文化が、アメリカや西ヨーロッパ列強諸国と少しもひけを取らないことを証明しようとした。

笹本が撮影した写真もこの宣伝工作の一翼を担った。彼女の撮影した写真には平沼騏一郎首相(第35代)と、彼の内閣の祝賀用肖像写真が含まれている。平沼は天皇裕仁の相談役のひとりだ。そして笹本の写真は大日本帝国女性の働く姿や遊ぶ姿を理想化し、象徴化して、彼女たちへの憧憬の念を掻きたてる道具として利用された。

笹本の写真はドイツ紙にも掲載され、また『写真週報』など、当時の日本国民に広く読まれていた国策グラフ雑誌に掲載された。こうしたプロパガンダ刊行物は、戦争の遂行や日本政府の政策を宣伝して、日常のありとあらゆるものを統制するのが狙いだった。

1938〜1945年に出版された、国内向けの週刊国策グラフ誌『写真週報』。第249号の表紙は東條英機
Photo: Wikimedia Commons


写真の時代背景を無視していないか


笹本の名が知られるようになったのも、ほとんど「日本人初の女性報道写真家」という彼女自身の主張に依存している。MET前に掲げられたポートレートは1940年に撮影された。プレスカメラを構え、ビューファインダーに目を押し当てている彼女のカットは、それを雄弁に印象づけている。
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PROFILE

マコーミック・ケリー ブリティッシュ・コロンビア大学(カナダ)の助教。専門は近代日本の物質、視覚的文化の歴史。

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ワシントン・ポスト(米国)

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