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あるカメラマンのアーカイブ〜丹野清志の記憶の断片〜

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あるカメラマンのアーカイブ〜丹野清志の記憶の断片〜
カメラマン 丹野清志。昭和19年(1944年)に生まれ、平成、令和の時代を通り過ぎ、60余年に渡って日本を撮り続けてきた。一人のカメラマンの小さな“記憶の断片”といえる写真とともにタイムスリップし、その時、その場所で出逢った物語を今の視点で見つめる。
公開日:2024/12/25

第1回 1960年代 カメラマンを目指す 襟裳岬での出逢い

Photo & Text:丹野清志

プロローグ

部屋の片づけとともに写真の整理を始めてから、何か月になるだろうか。不用品はなんとか処理できても、写真の整理はいっこうに進まない。フィルムで約40数年写し続けたアルバムを見ていると、思い出すこともなかった“その時”が鮮明に蘇り、あれこれ記憶の糸を手繰っていくからです。さらに、なんとなく写していたカットを見つけて、これいいよねぇ、と“新発見”があったりするものだからますます滞るのです。
昔を懐かしむだけではなく、私だけが見たシーンがここにある、ということに興奮します。昔、写真は「時代の目撃者」、「証言者」などと言われたりしたことがあり、なんだか偉そうな言い方だなあと思ったものですが、カメラマンはその時を写しとっているということで、つねに記録者なのですね。
長野重一さんが、写真集「時代の記憶1945-1995」(朝日新聞社刊)の中で、「ここにある写真は、私の主観的な眼に映った個人的な記憶の断片にすぎない」「私の心に映った“半世紀の心の自画像”」と記しています。
 


今回からスタートするこの連載は、昭和19年(1944年)に生まれ、平成、令和の時代を通り過ぎてきた一人のカメラマンの小さな“記憶の断片”。いま、それを物語のようにつないで見ていくことで、何が見えてくるか。世代によって感じ方は違ってくると思いますが、私も、“いま”の視線で眺めてみようと思うのです。

 

1960-1962年カメラマン志願

文字で記録し伝えるという仕事をしたいと思っていた地方の高校生がカメラマンという仕事にあこがれたのは、書店で毎月発行される写真雑誌の巻頭ページに展開する写真家の作品を見たのがきっかけでした。“見せる”ことで表現する写真の魅力に惹きつけられたのです。1959年にニコンFが発売され、一眼レフ人気の盛り上がりとともに写真雑誌の読者も増えていった時代。「カメラ芸術」(1959-1964)、「フォトアート」(1949-1977)、 「カメラ毎日」(1954-1985)、「アサヒカメラ」(1926-2020)、「日本カメラ」(1950-2021)などがありました。1960〜1961年に写真雑誌に掲載された「アサヒカメラ」連載の長野重一『話題のフォト・ルポ』『群像』カメラ毎日の連載の『東京エッセイ』、「フォトアート」連載の東松照明『家』、『NAGASAKI』アサヒカメラ『占領』シリーズなどに刺激を受けました。写真雑誌は、カメラマン志願の高校生の教科書だったのです。
当時、スナップ写真といえば小型カメラ(35ミリ判カメラ)で写す「人物スナップ」のことで、写真作法を解説するページには「いかに人物の動き、表情をしぜんのままにとらえることができるか」というようなことがスナップ撮影技法として書かれていて、カメラを意識されずに“いい瞬間”をねらう写し方を目差したものです。
小さな写真雑誌の写真コンテストに、車中で眠りこけている友人を写した写真と知人の子の小学校入学の日に写した写真を応募して続けて入選、印刷物に掲載されたのですから高校三年生はすっかりカメラマン気取りでいたのでした。私が高校時代に使ったカメラはヤシカ35(ヤシノン4.5cm F2.8)、最初に買った写真集は土門拳の「筑豊のこどもたち」(1960年刊)でした。

 

1960年代の日本

1960年。日米新安保条約締結反対の安保闘争、三井三池炭鉱の労働争議三池闘争とまさに激動の時代。日本社会党の委員長浅沼稲次郎が日比谷公会堂で演説中に17歳の少年に刺殺され、その瞬間を写した写真が話題に。けだるい声で歌う西田佐知子の「アカシアの雨がやむとき」が流れ、ダッコちゃんブーム。玄光社から「コマーシャル・フォト」が創刊。映画、大島渚監督「青春残酷物語」「太陽の墓場」、今村昌平監督「豚と軍艦」、ルネ・クレマン監督「太陽がいっぱい」ジャン=リュック・ゴダール「勝手にしやがれ」。
1961年。旧ソビエト連邦のガガーリン少佐が人類初の宇宙飛行、「地球は青かった」。小田実「何でも見てやろう」がベストセラー、坂本九の「上を向いて歩こう」植木等の「スーダラ節」がヒット、CM「レナウンのわんさか娘」「伊東に行くならハトヤ」。映画、黒澤明監督「用心棒」。蔵原惟繕監督「憎いあんちくしょう」。
1962年。5月、常磐線三河島駅構内での列車事故で160人が死亡。マリリン・モンローが謎の死、ビートルズがレコードデビュー。「無責任時代」が流行語。「スカッとさわやかコカコーラ」のCMにのせられてよくコーラを飲みました。映画、小林正樹監督「切腹」、黒沢明監督「椿三十郎」、小津安二郎監督「秋刀魚の味」ミケランジェロ・アントニオーニ監督「太陽はひとりぼっち」。

1962年(昭和37年)春、私は、「写大」と呼ばれていた東京写真短期大学へ入学します。
学校の授業は写真化学、写真光学が主で、現像薬剤の組成など最も苦手な数字と記号を覚えるようなことばかりなのでうんざりしていた私を誘うように、テレビから歌が流れてきました。ジェリー藤尾がハスキー声で歌う「遠くへ行きたい」(永六輔作詞、中村八大作曲) 。どこか遠くへ知らないところへ旅をしたいと漠然と思っていた写真学生は、1年の夏休みに北海道へ人生初旅をしました。18歳の夏のことです。


18歳、襟裳岬へ 


レオタックスf + W-NIKKOR 3.5cm F2.5 ネオパンSSS

7月19日。上野駅発の夜行列車「急行八甲田」で終着駅青森へ。早朝着の青森駅から青函連絡船(青森駅と函館駅間の鉄道連絡船。乗船券は乗車券でした。1970年代初めがピークで、1988年青函トンネル開通により廃止)で函館。函館から叔父が住む千歳へ。翌日、千歳から苫小牧経由、日高本線で様似駅へ。
“風はひゅるひゅる 波はざんぶりこ”。駅のスピーカーから、島倉千代子が歌う「襟裳岬」(作詞丘灯至夫、作曲遠藤実)が流れていました。ちなみに森進一が歌った吉田拓郎作曲の襟裳岬は13年後の1974年の歌。(日高本線は、2015年の高波被災で運休となり、2021年鵡川駅から様似駅間が廃止。現在、札幌〜えりも間に高速バスえりも号が出ていて4時間)
様似駅からバスで日高山脈の最南端、襟裳岬へ。
初日は岬のバンガロー泊。宿泊代は1泊300円。あかりのローソク1本10円、売店のカレーライス100円、おにぎり1個20円。北海道周遊の旅をしているという大学生二人が同宿することになり、宿賃は100円に。夜、バンガローの女性たちとテント客も加わってワイワイ大騒ぎになりました。
翌朝7時、幌泉町(現えりも町)へ。カメラマンはまず歩くこと、歩かなければ写真は写らないと思っていましたから、バスに乗れば1時間ほどで着くのに霧雨の中をびしょびしょになって山を越え、とぼとぼ歩いて4時間半。町に着いた時は晴れていました。



浜に行くと、打ち寄せる波の中にたくさんの人がいて、何をしているのだろうと波打ち際に近寄って見ていると、流れつく昆布をかき集めているのでした。岩場からはがれて浜へ打ち寄せられた昆布を拾うのです。昆布の浜であることを知り、初めて見る昆布拾いの様子を夢中になって写しました。拾い集めた昆布は、砂浜にひろげて天日乾燥します。(今日知られる日高地方産の「日高昆布」の約6.5割が、えりも産だそうです)







昆布拾いの仕事が一段落したところで、砂浜をぶらぶらしていて少年たちと出会います。「何してんだ」と聞くので「コンブの写真を写してる」と答えると、少年たちはふーんとカメラに興味を示すこともなく、顔なじみのお兄さんという感じで私にまとわりついてきたのでした。浜にいた少年たちと遊んでいたら夕方になり、近くに宿屋はないかと聞くと、一人の少年が、うちに泊まれ、と言うのです。で、のこのこついていくと、少年の母親が出てきて、こんなところでよかったらどうぞとすすめられたのですが、ご主人は仕事で千歳に出ていて留守中だというのです。どうしようかと迷っていると、いいから入れよと少年に引きずり込まれるように家の中へ。結局そのまま泊めてもらうことになり、なんとその日から3日間泊まってしまったのです。


 

 


朝、母は橋梁の補修仕事に出かけ、私は少年と家を出て、昆布拾いを見て、港へ行って魚の水揚げをみて、浜で遊び、と少年たちとの時間の合間に写真を写す、という日々でした。
「もう一人はどうした」
「かあちゃんにどやされてたよ」
「何かやったのか」
「昨日家手伝うのやんなかったら」
少年を連れまわしたのは私なのです。









私の初旅は、写真を写すということに何一つ苦労することなく、深刻に考えるようなこともなく、見知らぬ土地で見知らぬ人の好意にあまえた旅でした。よく、旅をすると学ぶことがたくさんあると言われますが、数日の滞在で写真学生が得たことは、しぜんに写すということは写す側がしぜんのままでいること。この時のささやかな体験が、後に「取材者」として旅する私のカメラマン人生の方向を決めたようです。


レオタックスf + W-NIKKOR 3.5cm F2.5

襟裳の旅で使用したカメラはレオタックスf。レンズはW-NIKKOR 3.5cm F2.5とミノルタSR-1 ロッコール100ミリf3.5。使用フィルムはネオパンSSS。当時、カメラといえばレンジファインダー式がメインで、広角はレンジファインダー、望遠は一眼レフというカメラの組み合わせがプロカメラマンのカメラスタイルだという雰囲気があり、プロカメラマンを目指すならライカを使いこなせと言われましたが、神田川沿いの三畳一間に南京虫と同居している貧乏写真学生にライカは高根の花。で、コピーライカと言われた古いレオタックスを購入したのでした。
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丹野 清志(たんの・きよし)

1944年生まれ。東京写真短期大学卒。写真家。エッセイスト。1960年代より日本列島各地へ旅を続け、雑誌、単行本、写真集で発表している。写真展「死に絶える都市」「炭鉱(ヤマ)へのまなざし常磐炭鉱と美術」展参加「地方都市」「1963炭鉱住宅」「東京1969-1990」「1963年夏小野田炭鉱」「1983余目の四季」。

<主な写真集、著書>
「村の記憶」「ササニシキヤング」「カラシの木」「日本列島ひと紀行」(技術と人間)
「おれたちのカントリーライフ」(草風館)
「路地の向こうに」「1969-1993東京・日本」(ナツメ社)
「農村から」(創森社)
「日本列島写真旅」(ラトルズ)
「1963炭鉱住宅」「1978庄内平野」(グラフィカ)
「五感で味わう野菜」「伝統野菜で旬を食べる」(毎日新聞社)
「海風が良い野菜を育てる」(彩流社)
「海の記憶 70年代、日本の海」(緑風出版)
「リンゴを食べる教科書」(ナツメ社)など。

写真関係書
「気ままに、デジタルモノクロ写真入門」「シャッターチャンスはほろ酔い気分」「散歩写真入門」(ナツメ社)など多数。

主な著書(玄光社)

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