福岡県内のコンビニエンスストアで、コーヒー用の100円のカップを購入した62歳の男が、そのカップの中に150円のカフェラテを注いだ窃盗の疑いで逮捕された のだそうだ。
第一報はツイッターのタイムラインに流れてきた「NHKニュース」の公式ツイッターの RT を通じて知った。
リンク先で紹介されているニュースの動画では、現地のコンビニの駐車場に立った若い記者がこう言っている。
「こちらの白いカップが100円のコーヒー用カップ。そしてこちらの茶色いカップが150円のカフェラテ用カップです。男はこちらの白い100円のカップに150円のカフェラテを入れたということです」
なるほど。
再生を終えた後、しばらく考え込んでしまった。
「要するに違うカップにカフェラテを注ぐことで50円分の代金をチョロまかした62歳の男(←オレと同い年だ)がいました、ということなんだろうけど、これは『ニュース』なのだろうか」
「たしかに法律を厳格に適用すれば100円の代金で150円の商品を手に入れたこの男の行為は、差し引き50円分であれ窃盗は窃盗なのだろう。とはいえ、こんなセコいゴマカシで逮捕されるなんてことが現実にあり得るものなんだろうか」
「逮捕されたことが事実であるのだとして、それでは、この差額50円の窃盗による逮捕劇を全国ネットのニュースで伝える判断を下したデスクは、いったいこのニュースのどの部分にニュースバリューを認めたのだろう」
「2年ほど前にオレは、考え事をしながら西友のセルフレジを精算せずに通過したことがある。で、100メートルほど歩いた時点で気づいて店に引き返したのだが、このオレの素敵な正直さはニュースにならないのか?」
「50円チョロまかしたおっさんの不心得がニュースになるのなら、嫁さんに暴言を吐いた男や、散歩中の飼い犬が路上に残した排泄物を放置した飼い主の不行跡だって、ニュースにされておかしくないと思うぞ」
大げさに言えばだが、私は、この程度の逸脱が全国ニュースとして報じられてしまう国で、この先、自分が、無事に天寿をまっとうできるのかどうかに不安を感じはじめている。カタクチイワシの群れみたいな相互監視社会を作り始めているこのわれわれの国では、右旋回のタイミングがほんの少し遅れれば、そのまま群れから取り残されて永遠に排除されることになっている。62歳の私は、ボタンを押し間違えることが不安で、この先、二度とコンビニのコーヒーを買えなくなることだろう。
NHKのニュースサイト「NHK NEWS WEB」にアップされているニュースの放送原稿では、事件の概要を以下のように説明している。
《−略− 警察によりますと「100円のコーヒーカップに150円のカフェラテを注いでいる」という情報が常連の客から店に寄せられ、店が警戒していたところ、男がカフェラテを注いでいるのを確認しました。
このため店のオーナーが問いただしたところ、男は「ボタンを押し間違えただけだ」と説明していましたが、警察の調べに対し、容疑を認めているということです。 −略− 》
率直に申し上げて、高校の放送研究会がパロディで作る嘘ニュースのシナリオに見える。というのはつまり、それほど「バカなネタを大真面目に作っている」ということだ。
パロディの要諦は、「バカなネタを大真面目に作ること」だ。
で、NHKのこのニュースは、まさに、「バカなネタを大真面目に作る」
というパロディの作劇法そのままの手法で作り込まれている。
その結果、本物のニュースでありながら、最終的には「ニュース」という存在そのものに対する見事なパロディに仕上がっている。
おそらく、このニュースフィルムを作っている間、NHKのスタッフは、自問自答せずにいられなかったはずだ。
「なあ、このニュース、このカタチのままで流して大丈夫なのか?」
「これ、ヘタすると、定時ニュースの権威をクソまみれしちまうぞ」
80から90年代にいくつか列席したテレビ業界関係者の結婚披露宴では、
「新郎が新婦を誘拐した」
とか
「容疑者新郎Aが共犯者新婦Bと共謀して計画的な職場放棄(新婚旅行)を画策している」
みたいな見立てで作られた記者レポート風のVTR作品が上映されて、大いに参加者の喝采を集めていたものだった。
メディア業界の人間は、自分たちの業界のセルフパロディを好む。のみならず、時には、本業での制作物に対する時よりも大きな情熱を傾けてパロディの制作に注力する。
で、彼らが余興や忘年会や仲間内の結婚式で上映する自虐パロディの映像作品の中には隠れた傑作が少なくないわけなのだが、今回のNHKニュースの作風は、その種のパロディニュースのそれとほとんど区別がつかない。
この種のパロディニュースの勘所は
・大真面目なニュース原稿の文体
・真剣な表情のレポーターの現地レポート
・緊迫感を演出する手持ちカメラ映像
・下からアオる感じの大仰なカメラワーク
という、安ワイドショーニュースならではの堅固な形式を固持しつつ、それでいてテーマの部分では
・どうにもあほらしい犯罪(はんぺんの下にちくわぶを隠すことでおでんの会計をごまかしたとか)を告発するといったところにある。
要するに、ニュースの中身をどこまでも空疎にしておくことで、世間の信じている「ニュース」なるものが、いかに外形的な要素に依存した形式的な制作物であるのかを天下に知らしめることが、パロディに与えられている使命だということだ。
私自身、ずっと昔、「ASAHIパソコン」というパソコン情報誌で、「藍亭長屋」という用語解説パロディの連載を持っていたことがある。
藍亭長屋という架空のお江戸下町コミュニティーに住むご隠居さんが、「ユビキタス」「脆弱性」「コンパチブル」「アンドゥー」「パケ死」といったIT用語について長屋の住人相手に解説をカマすという落語仕立てのコラムだった。
必ずしも成功した連載ではなかった(というよりも、わりと盛大にスベってました)のだが、この時心がけていたのは、
「落語の形式と文法は最大限遵守すること」
「落語としてそのまま成立する口舌の冴えとオチの鮮やかさを目指すこと」
「ネタは落語からなるべく遠ざかること」
の3つだった。
つまり、パロディは「形式は完璧に、内容は空疎に(あるいは「異質に」)」という構えで作られているからこそ、パロディたり得るわけで、形式の作り込みが甘かったり、内容が変にもっともらしくなってしまったら、パロディとしては焦点のボケたものになってしまうということだ。
「藍亭長屋」シリーズの連作は、結果的にはニセモノの落語の領域にさえ到達できない半端なパロディに落着した。のみならず、IT用語解説としてもたいしてわかりやすくない困ったテキストでもあった。
ただ、読者にとっては価値の低い読み物であっても、書き手にとっては、あれを書いたおかげで落語への愛情と理解が深まることになったありがたいコラムだった。書かせてくれた媒体や、許容してくれた編集部や読者にはいまでも感謝している。ついでに言えばだが、あの連載を何年か続けたことで、私は、パロディと現実の距離について少しだけ敏感になれたと思っている。まあ、怪我の功名に過ぎないといってしまえばそれまでだが。
最近の例では、ネット上で時々話題になる「虚構ニュース」がパロディの文法をよく踏まえていると思う。
内容のバカバカしさといい、文体模写の見事さといい第一級のパロディに仕上がっている作品が多い。
で、この度のカフェラテのニュースだが、実際、「虚構ニュースの映像版」と言われて見せられたら、私は信じてしまったかもしれない。
それほど完成度が高い。
ということはつまり、それほど形式のみが完成されていて中身がバカげているということだ。
こんなことが起こるのは、もしかして、ニュース制作の現場で、
「きちんとした中身(内容)のあるニュースを配信する」ことよりも、
「形式として完成度の高いニュースを制作する」
ことが重視されているからなのかもしれない。
記者さんやデスクさんたちは、ニュースの中身の信頼性やニュースバリューの重さをあれこれ考えることよりも、ただただ右から左に作っては流すニュースの形式としての完成度ばかりを気にかけている。だから、ニュースバリューはゼロでも、形式としてニュースらしかったり、扇情的な素材として視聴者のアイキャッチに貢献する素材であれば、そのままニュース項目として合格点をつけてしまう。実にありそうな話ではないか。
うがった見方をすれば、このニュースは
「コーヒー類飲料の品種ゴマカシ注入の横行にアタマを痛めるコンビニ業界が、警察とマスコミを巻き込んで一罰百戒の逮捕案件ニュースの配信を企画した」
結果なのかもしれない。
そう考えると、一応の辻褄は合う。
あるいは、もっと別の陰謀論的な推理を持ち出せば
「厚労省による不適切統計処理や五輪招致に関する贈賄疑惑などなど、政権にとって不利なニュースばかりが並ぶ中で、政権との軋轢を恐れるニュース制作現場が、誰も傷つかない無難なニュースを求めた結果が、ほのぼのローカル軽犯罪ネタの全国ニュース昇格という結果への着地だった」
という読み方もできる。
いずれも信憑性は著しく低い。
というよりも、まるっきりの当てずっぽうに過ぎない。
おそらく、真相は、ニュースを配信している現場の人間たちが、ニュースバリューという抽象的で手強くで厄介で神経の疲れる対象についてアタマを絞ることよりも、ニュースの完成度という手慣れた人間には一発でわかる尺度でニュースを選別することを選び続けたことの結果が、ゴミみたいなニュースの配信を招いているということなのだと思う。
雑誌の現場でも似た問題は起こっている。
「内容はまるで空疎なのに、なんとなく形式が記事っぽく整っているから通用している」
みたいな記事はたくさんあるし
「本当は面白くないんだけど、面白っぽく書いてあるもんだからついつい笑わされたような気分になるコラム」
がいたずらにトラフィックを空費している例だって、たぶん珍しくない。
個人的には、コーヒーの容器にカフェラテを注いだおっさんの小ずるさと、のべ2015万人に対して、雇用保険の支給額など564億円を過小支給していた厚労省の統計不正の深刻さを虚心に比べて見れば、後者の方が数億倍は悪辣だと思うし、ニュースバリューに関しても、後者のニュースの方が少なくとも百倍は重要だと思うのだが、放送時間の方は、せいぜい二倍程度しか割かれていない。
実に不健全な運用だと思う。
この微罪逮捕案件を公共放送が全国ニュースで配信した理由を解明するためには、実は、もうひとつ、有力な仮説がある。
以前、当コーナーでも紹介した「スッキリ中国論」(田中信彦著 日経BP社)の中にその話が出てくる。
以下、本書の56ページ〜69ページの記述の中で詳しく紹介されている内容を簡単に要約する。
・刑法学が専門の一橋大学法学研究科、王雲海教授(法学博士)によれば、中国の刑法と日本の刑法には根本的な違いがあって、中国が犯罪の「質と量」を問うているのに対して、日本では「質」のみが重視される。
・具体的には、日本では無断で携帯の充電をした人間が窃盗罪に問われた例があるのに対し、中国では、ある程度以下の金額の窃盗は捜査されない。
・中国では違法行為と犯罪は2つの異なった概念である。それゆえ、違法行為であっても「犯情が極めて軽く、危害が著しくない場合は犯罪にならない」
・他方、日本では、「法律に違反すること」そのものが「犯罪」であり、被害の大きさは犯罪の成否には関係しない。
要するに、「スジ」を重視する日本人の考え方からすれば、たとえ50円でも、あるいは携帯を充電するための数円相当の電気料金であっても、人様のものを勝手にわがものとすればそれはすなわち窃盗であり犯罪になるということだ。
で、この「スジ」が厳格に守られているからこそ、わが国は世界でも珍しいほど治安が良いわけで、これはこれで素晴らしいことではある。
が、一方においてなにかにつけて「スジ」で考える日本人が作っているわれわれの社会は、窮屈だったり、融通がきかなかったりして住みにくい部分を持ってもいる。
中国風と日本流のどちらが悪くてどちらが良いという問題ではない。
この原稿でどちらかを推薦したいと考えているのでもない。
ただ、私が思うに、NHKをはじめとするメディア各社(朝日新聞、日経新聞、読売新聞、毎日新聞、FNNなど)がこの微罪逮捕のニュースを一斉に報じていることから感じられるのは、もともと「スジ」にこだわる傾向の強かったうちの国のメディアの潔癖性の傾向が、さらに極端になってきていることだったりする。
たとえばの話、私が20代の若者だった40年前に、これほどまでに軽微な罪を新聞全紙とテレビ各局が伝えた例はなかったはずだ。
罪を犯した者へのこの苛烈さが、われわれは群生動物のマナーを身に付けはじめていることの最終段階を示す兆候でないことを祈って稿をおさめたい。
「罪を犯した人間を擁護することよりも、犯罪者を一人でも減らすことに力を注ぐのがコラムニストのあるべき姿ではないのか」
という感じの想定コメントに対しては、あらかじめ
「良いコラムニストは、罪薄き違法行為者の側に立つものだ」
とお答えしておく。
根拠は特にありません。
(文・イラスト/小田嶋 隆)
統計不正による過少支給額「795億円」は「564億円」の誤りです。お詫びして訂正します。本文は修正済みです。 [2019/01/25 18:05]
なぜ、オレだけが抜け出せたのか?
30 代でアル中となり、医者に「50で人格崩壊、60で死にますよ」
と宣告された著者が、酒をやめて20年以上が経った今、語る真実。
なぜ人は、何かに依存するのか?
<< 目次>>
告白
一日目 アル中に理由なし
二日目 オレはアル中じゃない
三日目 そして金と人が去った
四日目 酒と創作
五日目 「五〇で人格崩壊、六〇で死ぬ」
六日目 飲まない生活
七日目 アル中予備軍たちへ
八日目 アルコール依存症に代わる新たな脅威
告白を終えて
日本随一のコラムニストが自らの体験を初告白し、
現代の新たな依存「コミュニケーション依存症」に警鐘を鳴らす!
(本の紹介はこちらから)
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この記事はシリーズ「小田嶋隆の「ア・ピース・オブ・警句」 ~世間に転がる意味不明」に収容されています。フォローすると、トップページやマイページで新たな記事の配信が確認できるほか、スマートフォン向けアプリでも記事更新の通知を受け取ることができます。