ノートは数学の授業を板書したもので、その冒頭にはその授業の日なのだろう、それぞれの日付が記されている。一ページ目の冒頭には『二◯二二年一月十四日(金)』と書かれていた。 二◯二二年……一月十四日……。 今が二◯二四年なので、今から二年前。その一月というと菜摘が高一の時の冬になる。つまり真衣も同じく高一だった。真衣が菜摘のクラスに転入してきたのが二◯二一年の十一月だったはずだから、転入してきてから二ヶ月ほど経った頃のものだ。 菜摘は一枚一枚ページを捲っていき、その記載内容に目を通していく。 病的と思えるくらい几帳面で丁寧な文字で、数学の数式や、その数式を説明する文章が書き込まれている。それ以外は…
そもそも、あの白い影は本当に佐々木真衣なのだろうか。 高校で真衣と同じクラスだった子にメッセージを送って確認した時は、『真衣は高二の冬に亡くなった』という返事が返ってきた。 自分も高二の時に佐々木真衣が亡くなったことを聞いた気がする。それは誰から聞いたのか。真衣のクラスメートの子から噂話の一つとして聞いたのか。それとも菜摘の担任の教師から「二年C組の佐々木真衣が昨日亡くなった」と聞いたのか。 霞がかったかのように、記憶がひどくぼやけている。 高校の時の真衣の存在は、菜摘にとって取るに足らないものだった。多くのクラスメートの中の一人に過ぎなかった。だからその記憶が曖昧だったとしても仕方のなかった…
カーテンの隙間から、秋晴れの空からの日差しが漏れている。その日差しは菜摘の座っているベッドの上にまでその手を伸ばしていた。 どうすればいいのか。今、自分は何をすればいいのか。 そのことを考えていた。このままベッドの上にいても、状況は何も変わらない。 昨夜、あの覗き穴から見た光景。その光景が菜摘にもたらした恐怖と衝撃は今でも生々しく菜摘の胸の中に巣食っていた。それでも時間が経つことで少しずつ気持ちが落ち着いていったのも事実だった。 千穂にこれまでのことをすべて話して、助けを求めるか。一人ではわからないことも、二人で考えれば何か良さそうな解決策を思いつくかもしれない。 だけど千穂は信じてくれるだろ…
俯いた格好で、あの白い影がそこには立っていた。 ドアを挟んで、菜摘とその白い影は一メートルも離れていない位置に立っている。その姿を見た途端、菜摘の体は金縛りにあってしまったかのように固まった。指一本動かせなかった。恐怖のあまりその覗き穴から目を離そうとするのだけど、離したくて離したくてたまらないのだけど、菜摘の意思に反してその目はのぞき穴を通してそのドアの外を見つめ続けていた。 マンションの通路には夜間灯が点灯していて、そのドアの前の空間を照らしている。その光を背後から受けているはずなのに、その白い影の周りだけがやけに闇の中で淀んでいた。その闇の中で、やはり公園で見たときと同じように、菜摘の高…
菜摘はしばらくベッドの上に横たわり、闇の中で目を光らせていた。 先ほどのチャイムは、自分が寝ぼけていて、夢の中のシーンを現実の世界の出来事のように勘違いしているだけなんだと必死に自分に言い聞かせていた。こんな時間に菜摘を訪れる人なんているわけがないし、深夜の二時にマンションの部屋のチャイムを鳴らすという行為に何かしら狂気じみたものを感じた。 部屋の中は静まり返り、自分の心臓の鼓動だけが聞こえる。 それから、何も起こることはなく時間だけが流れた。自分でもどれくらいの時間が経ったのかわからない。ただ、自分に「さっきのはやはり夢での出来事なんだ」と言い聞かすことができるだけの長い時間が流れたのだと思…
4 その夜は、菜摘はベッドの上でなかなか寝付くことができなかった。 どうしても殺された武井有加里のことを考えてしまう。そしてその有加里の元を訪れたという白い影のことを考えてしまう。その白い影がその数時間前に、菜摘の住むこのマンションの前に現れたのだ。 もう外に出るのも怖くて、その日は何度も何度も窓や玄関の戸締まりを確認してからベッドに入った。それなのに、常夜灯で仄かに照らされた薄暗いこの部屋の片隅にあの白い影が立っている気がして、急き立てられるかのようにして部屋の電灯を点け、そして部屋の隅々に視線を巡らせる。そこに何も立っていないことにホッとして、また電灯を消してベッドに入り込む。そのようなこ…
高校の制服姿の有加里が友達と一緒に写っている写真で、有加里の隣に立つ女性生徒の顔はモザイクで消されている。だけど菜摘はその友達の顔もはっきりと思い出すことができた。有加里とよく一緒につるんでいた女子で、そして有加里と一緒になって真衣へのいじめを執念深く続けていた。 画面に映る写真を媒介して、高校時代の記憶が次々に蘇ってくる。有加里の前で黙って俯いていた真衣の姿も、その記憶の中のシーンにははっきりと刻み込まれていた。 「なぜ……有加里が……」 無意識のうちに口から零れた菜摘の声は、ひどくかすれていた。 画面の中の女性記者は深刻そうな表情をその顔に貼り付けたまま言葉を続ける。 「マンションのエレベ…
なぜ……ここにいるの……。 なぜ……こっちを見ているの……。 眼の前で起こっている事態がうまく理解できない。 ただ、体は小刻みに震え始めていた。それは決して寒さのためだけではなかった。 菜摘はベランダの地面に落ちたシャツをそのままにして、部屋の中に飛び込むようにして戻る。窓を閉め、窓の鍵をかける。そして急いでカーテンを閉めた。あの白い影から自分に向けられた視線を一秒でも早く遮りたかった。そのままへたり込むようにして、窓に背をつけて床に座り込んだ。 菜摘の中に、ある一つの疑問が浮かび上がる。 彼女は……いつから、いたのだろう……。 この数日、菜摘の身に何も起きなかったことをいいことに、菜摘はいつ…
それから数日は、菜摘の身に何も起こることなく過ぎていった。 ただ、相変わらず夜にあの公園の前を通らないようにはしていたし、夜一人で外を出歩くことも避けるようにしていた。 大学の学園祭も迫っていたが、サークルの出し物の準備には千穂に『体調が悪いから』とメッセージを送って、あの白い影を見た日以来行くことも無かった。 千穂からは『大丈夫?』『お見舞いに行こうか?』『何か欲しい物があれば買って行くけど?』というメッセージがたびたび送られてきたが、千穂に申し訳ないと心の中で謝りつつも、『少し体がだるいだけだから、そんなに心配しなくても大丈夫だよ』『学園祭の準備の邪魔になってもいけないから、わざわざうちに…
三十分ほどして返信が来た。 菜摘はスマホを手に持って返信が来るのをじっと待っていたので、そのスマホが小さく震えたのにすぐ気付いた。急いでメッセージアプリを開く。そこには友達から来た次のようなメッセージが表示されていた。 『覚えているけど、どうしたの?』 菜摘はその会話ページに文字を打ち込む。 『真衣って、高一の秋に東京から福井に引っ越してきて、私たちのクラスに転入してきたんだよね?』 『そうだよ』 『今も福井にいるのかな?』 『何言ってるの? 真衣は高二の冬に亡くなってるよ』 菜摘はスマホのディスプレイに表示された『亡くなってるよ』という文字を黙って見つめる。講義室では老齢の講師が英米文学につ…
3 菜摘は自分の手元にあるノートの表紙をしばらく見つめていた。 佐々木……真衣……。 完全に忘れていた高校の時の記憶が次々に蘇ってくる。そして菜摘の胸の中に一つの疑問が頭をもたげ、それがみるみる大きくなっていくのにはそれほど時間はかからなかった。 「なぜ……真衣の数学のノートがここに……」 早朝の公園は静寂に包まれていて、犬の散歩をしていた老人はいつの間にか公園からいなくなっていた。公園の中は菜摘一人しかいない。もしかしたら、この世界には気づかないうちに自分一人しかいなくなってしまったのではないだろうか。そんな想像すらしてしまう心細い思いをかかえた自分が、そこにはいた。 もしかしたら……。 菜…
それのきっかけが何だったのか、今となっては思い出せない。 おそらくほんの些細なことだったのだろう。 クラスの中で浮いた存在になっていた真衣に最初にちょっかいを出し始めたのは武井有加里だった。有加里は菜摘とは別の中学出身だったので菜摘が所属するグループとは別のグループに所属していたのだけど、そのグループの中では中心的な生徒だった。そのグループは派手好きで交友関係も広い生徒ばかりで、クラスの中でも目立つようなグループだった。 例えば、移動教室の際に教室を出ていき自分が授業を受ける教室に一人向かう真衣を、有加里は早足で追い越し、その追い越す際にわざと自分の肩を真衣の肩にぶつけたりした。 突然後ろから…
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