西国観音霊場、新西国霊場、薬師霊場、近畿不動尊、神仏霊場など関西の巡礼地及び洛陽観音霊場、京都十二薬師、都七福神などの京都市内の霊場を紹介します。
瀬田の唐橋から東へバイクで5分弱の距離に建部大社があります。社伝では、第12代・景行天皇46年(116)に日本武尊(やまとたけるのみこと:82~111)の妃・布多遅比売命(ふたじひめのみこと:生没年不詳)が神勅により、日本武尊を祀ったのが始まりとされています。当初は御子
水のめぐみ館アクア琵琶から瀬田川左岸をバイクで約5分北上すると右側に「瀬田城跡」の碑と「勢多古城地碑」が建っています。瀬田城(勢多城)は、「山岡城」とも呼ばれ、永享元年(1429)に山岡資広(すけひろ)が南の大日山に城を築き居城としました。第9代城主・山岡景隆(15
立木観音の駐車場から瀬田川沿いに、バイクで5分弱北上した左側に南郷公園の駐車場があります。駐車場から道路を横断すると「皇后陛下行啓記念碑」が建立されています。第123代・大正天皇(在位:1912~1926)の貞明皇后(ていめいこうごう:1884~1951)が大正11年(1922)11月1
佐久奈度神社から鹿跳橋まで戻り、瀬田川右岸を北上した直ぐ先の右側に安養寺の駐車場があり、駐車場から道路を横断すると「立木観音参道」の碑が建ち、810段の石段が連続して続きます。かっては南郷から2kmの登山道が参道となっていましたが、約150年前に京都の町衆により、
東笠取から南へ下り、瀬田川沿いに東へ進み、鹿跳橋を渡って進んだ先に佐久奈度神社があります。東笠取からはバイクで20分弱の距離です。佐久奈度神社は第38代・天智天皇(在位:668~672)が大津京へ遷都したのを機に、天智天皇8年(669)に勅願により中臣金(なかとみ の かね
奥宮神社から南へ進み、山道へ入って正法寺へ向かいます。奥宮神社の標高は400m、正法寺は標高443mの岩間山の南麓、標高390m辺りに立地し、標高差は僅かで、所要時間は約10分です。正法寺の手前に動物の防護柵があり、それを入ると正法寺の境内と思われます。防護柵から入り
東笠取清瀧宮から下ると電柱に「宇治市 東笠取」と表記されています。その先に奥宮神社・岩間寺(正法寺)への道標が立っています。電柱に張られてた岩間寺徒歩参拝道路図。バイクを路肩に置き、集落の最上部まで登ると、奥宮神社と岩間寺への登山道が左右に分かれ、奥宮神
瀬田川を宇治から上流へ向かって進むと、道路が左岸から曽束大橋(そつかおおはし)を渡って右岸を走ることになりますが、直進して府道242号線へ入り、その先で京滋バイパスの笠取インターの方へ進み、その先を右折して西笠取川沿いに北上して西笠取清瀧宮へ向かいました。曽
宝巌寺から舟廊下を渡った所に都久夫須麻神社の本殿が鎮座しています。永禄元年(1558)の大火で焼失し、永禄10年(1567)に再建されました。これが現存する庇(ひさし)と向拝の部分にあたります。庇の部分は素木仕上げで彫刻が施されています。撮影は禁止されていましたが、こ
近江今津港発9:30発の船に乗り竹生島へ向かいました。現在では竹生島往復の料金が3,000円となっています。今津と長浜からは琵琶湖汽船が運行し、今津港からは約25分で往復の料金は3,000円、長浜港からは乗船時間が約35分で、往復の料金は3,400円です。彦根港からはオーミマリ
明通寺は鵜の瀬の東の山中に立地していますが、県道を戻って「コ」の字形に進むため、バイクで10分を要します。明通寺は山号を「棡山(ゆずりさん)」と号する真言宗御室派の寺院で、若狭観音霊場・第14番及び小浜八ヶ寺巡りの札所で、「海と都をつなぐ若狭の往来文化遺産群
神宮寺から県道35号線を南へバイクで5分弱進んだ所に鵜の瀬があります。少し下ると小さな祠が鎮座し、巨巌を御神体とする社殿のようにも見えますが、詳細は不明です。その社殿の対岸側の巨巌に注連縄が張られ、先ず若狭彦神、次いで若狭姫神が降臨されたと伝わり、若狭彦神社
若狭彦神社から南へ、バイクで2~3分の距離に神宮寺の仁王門があります。鎌倉時代(1185~1333)末期に再建された間口6.37m、奥行3.64m、棟高5.5m、単層屋根、切妻造り、柿葺の八脚門で、国の重要文化財に指定されています。神宮寺は山号を「霊応山」と号する天台宗の寺院で、
若狭姫神社から県道35号線を、バイクで5分弱進んだ先を左折した先に若狭彦神社があります。若狭彦神社と若狭姫神社は、「海と都をつなぐ若狭の往来文化遺産群」の構成文化財として日本遺産に認定されています。参道を進むと、参道を挟んで二本の大杉がそそり立ち、二の鳥居と
若狭国分寺から国道27号線へ戻り、右折して舞鶴方向へ進み、その先を県道35号線へ左折した先、若狭国分寺からバイクで5分弱の距離に若狭姫神社があり、東側に石の鳥居と、「若狭姫神社」と「若狭彦神社」の社号標が建っています。この通りは鳥居手前で県道から分岐し、先で県
多田神社から東へ、バイクで5分の距離に若狭国分寺跡があり、国の史跡に指定されています。天平13年(741)に第45代・聖武天皇(在位:724~749)が仏教による国家鎮護のため、当時の日本の60余州に建立を命じた寺院で、国分僧寺と国分尼寺があり、若狭国分寺は国分僧寺でしたが
羽賀寺から南へ、バイクで約10分の距離に多田寺があります。山号を「石照山(せきしょうざん)」と号する高野山真言宗の寺院で若狭観音霊場・第17番、及び小浜八ヶ寺巡りの札所です。また、「海と都をつなぐ若狭の往来文化遺産群」の構成文化財として日本遺産に認定されてい
小浜城跡の北東方向、バイクで10分足らずの距離に羽賀姫神社があります。天暦3年(949)に羽賀寺の鎮守として時の院主によって勧請され、「羽賀姫明神」と称されていましたが、明治の神仏分離令により独立し、村社に列せられました。現在では下照姫命(したてるひめのみこと)
海岸の人魚像から海岸沿いを北へ、バイクで5分余りの距離に小浜城跡があります。慶長5年(1600)9月の関ヶ原の戦いで功績を高く評価された京極高次(1563~1609)は、若狭一国を与えられ、翌年築城が開始されました。西側は海で、両側を河川と湿地に囲まれた地で着工され、京極家
八幡神社の大鳥居前を西へ進んだ直ぐ近くに空印寺があります。山号を「建康山(けんこうさん)」と号する曹洞宗の寺院で、大永2年(1522)に若狭国守護・武田元光(1494~1551)が後瀬山城(のちせやまじょう)を築いた際に、当時長源寺があったこの地に守護館を置き、その跡地が
妙楽寺の北、バイクで10分足らずの距離に八幡神社があります。創建年代は不詳としながらも、『続日本紀』に神護景雲4年(770)に勅使が参向し、鹿毛の馬を奉納されたとの記述があり、この年か前年に創建されたと考えられています。だとすると貞観元年(859)に創建された石清水八
馬居寺から若狭西街道を東へ進んだ先、馬居寺からバイクで約30分の距離に妙楽寺があります。山号を「岩屋山」と号する高野山真言宗の寺院で、若狭観音霊場・第18番札所、北陸三十三ヵ所観音霊場・第3番札所、及び小浜八ヶ寺巡りの札所です。現在の仁王門は安永6年(1777)に再
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