こうだと思っていたら、実はこうだった。
相手の狙いがこちらの予想と違っていると、それだけで見え方が違っておもしろい。
夕木春央さんの『時計泥棒と悪人たち』です!
夕木春央さんは、『方舟』や『十戒』で人気が出た作家さんですね。
本書は、2023年4月に書下ろしで出版された連作短編集です。
なかなか分厚くて、単行本で524ページもあります。
舞台が大正時代なので、昔の雰囲気が好きな人はハマるかも。『絞首商會』『サーカスから来た執達吏』にも繋がる連作短編集。
ここでは、『時計泥棒と悪人たち』のあらすじや感想を紹介していきます。
Contents
『時計泥棒と悪人たち』のあらすじ
「加右衛門氏の美術館」
「悪人一家の密室」
「誘拐と大雪 誘拐の章」
「誘拐と大雪 大雪の章」
「晴海氏の外国手紙」
「光川丸の妖しい晩餐(ばんさん)」
「宝石泥棒と置時計」
画家の井口と元泥棒の蓮野。
蓮野は、帝大法科卒のエリートだったが、わずか5カ月で勤めていた銀行を辞めてしまう。
独りでこなせる職業はなにかと考えた末に泥棒になり、逮捕されたあと、井口に世話になりながら、人里離れたところで生活をしていた。
ある日、井口は蓮野に相談を持ちかける。
井口の父が美術蒐集家に売ってしまった贋物の置時計を、本物と取り換えることはできないかというものだった。
置時計を購入した加右衛門氏に正直に事情を話すのが一番良い。
そう思って二人で会いに行くが、話をする前に怒らせてしまい追い出されてしまう。
加右衛門氏は、高齢で、自分が死ぬ前に個人の美術館を建てようとしており、その中に、置時計も置かれていることがわかる。
建設中の美術館に井口と蓮野は忍び込むことにした。
不道徳な一家の中で唯一まともな人間が、密室で殺されてしまう「悪人一家の密室」。
井口の姪が誘拐されたことから、誘拐したと思われる強盗団と偽札の謎に迫る「誘拐と大雪」。
1通の手紙から実業家の2度の結婚の真相が浮かび上がる「晴海氏の外国手紙」。
怪しげな集まりが催される客船で殺人事件が起きる「光川丸の妖しい晩餐」。
そして、各地で盗まれるルビーの謎を描いた「宝石泥棒と置時計」。
全6編からなる大正ミステリー。
とりあえず、長い!
えー、とりあえず、『時計泥棒と悪人たち』を見た瞬間に思うこと。
「長い!」
いやね、分厚いんですよ。
単行本で524ページあります。
定規で計ると4cmはあります。
片手で持って読むことが難しいんです。
短編の形を取っているので、一つの話を読む分には、そこまで長いって感じはしませんが、これを一気に読もうと思うとなかなか辛い。
そもそも、この厚みを見て読む気力が萎えるという。
まあそれでも、読み始めたら割とさくさく読めるのは読めるんですね。
井口と蓮野のかけあいも好きだし、やたらと理屈っぽい捻くれた蓮野もいいキャラですし。
恩返しというもの
『時計泥棒と悪人たち』の中で、蓮野が恩返しというものに対してあまりいい印象を持っていないことが描かれています。
ふつうに恩返しっていったらいいイメージがありますよね。
逆に、恩知らずなんていうと、してもらったことを忘れて!みたいなすごい嫌な人のイメージになります。
でも蓮野は言います。
「恩というのは一種の隷従関係だ。受けた方は、不覚にも助けられたばっかりに、恩人に始終頭を下げて暮らさないとならなくなる。」
(夕木春央『時計泥棒と悪人たち』より)
これは、井口の姪が、蓮野に助けられたことにお礼を言いたいというのを、そんなことは必要ないと断るときに出てきた言葉です。
また、
「恩義なんていうのは絶対釣り合わなくて、最初から破綻している。その癖美徳と思われているから迷惑だ。それは実のところ恨みと大して変わらないね。人を気安く恩人呼ばわりするものじゃないよ」
(夕木春央『時計泥棒と悪人たち』より)
とも言います。
確かに、こう言われてみると、恩にはそうした側面もあるのかなという気にさせられます。
一般的に、何かしてもらったら礼を言うものですし、過去にお世話になった人には、恩返しをするものです。
ちょっと面倒な頼まれごとがあったとしても、
「まあ、あの人には世話になったしなぁ」
なんて言いながら請け負ってしまいますよね。
でも、そもそも、恩なんてものがあるから、行動が縛られてしまうというわけですね。
心の底から、相手に何かしたいというのならともかく、恩を受けた時点で、恩を返さなくてはと思ってしまう。
それをしないのは、人としてどうなんだろうという気持ちにさせられてしまう。
隷従関係とはうまくいったものだなと感じました。
自由でいたいなら、恩とか報いるとか、そんなことは抜きにして、その場で全部清算してしまうのがいいのかなと。
どうして起こったのか。Whyに重点が置かれた物語
ミステリーだと、それがどの点に主軸が置かれているのかって話になります。
犯罪の手法を問うなら、「どうやって?」になりますし、理由や動機の部分だと、「どうして?」ですね。
『時計泥棒と悪人たち』では、この「どうして?」(Why)という動機に主軸が置かれています。
この先、若干のネタバレも含みます。
例えば、「加右衛門氏の美術館」では、加右衛門氏がこれまでに収集した美術品を展示する美術館を建てようとしています。
自分の功績や名声を死後も残すためだと考えられていました。
蓮野は、彼が大量に集めた美術品の配置に注目します。
ふつうだと、美術館ってある一定の規則があるもの。
でも、加右衛門氏の美術館だと時代だとか、ジャンルがデタラメなんですね。
一見すると、どういう考えに基づいて並べられているのかがわからない。
並べる順番を決めたのは加右衛門氏で、一度、展示された後も、ちょこちょこ場所が変わっているという。
その後、美術館は、火を放たれて燃えてしまいます。
そこで蓮野は、美術品が並べられていた法則は、その信頼度順だったのだと明かします。
高齢になって、疑い深くなってしまった加右衛門氏。
それは人だけでなく、自分が収集した美術品にも及んだようです。
つまり、偽物の美術品が自分が収集したものに紛れてしまっているのではないかと疑い出したのです。
蓮野は、美術館が建てられた理由を、加右衛門氏がこれまで集めた美術品を後世に残すためではなく、自身の汚名を後世に残さないためだと考えます。
建てられた美術館ごとすべてを燃やしてしまおうと。
そこで、火元に近い美術品ほど、本物か偽物か確信がないもの。
奥に行けば行くほど、火が回らない可能性もあるため、奥には信頼の高いものを配置していたというわけです。
こんな風に、どの短編でも、こうだろうと思われていたものをひっくり返す場面が出てきます。
だからこその、「どうして」こんな事件を起こしたのかに重点が置かれているんですね。
小説についての奇論
『時計泥棒と悪人たち』の中で、小説というものに言及した場面があります。
ちょっとおもしろかったので、そこも紹介します。
恋愛小説と探偵小説についてです。
「恋愛というのは、相手を他人と区別することだ。自分のみが愛し愛されるという錯覚を肥大化させる過程が恋愛だ。それは他人の理解を拒むものだ」
「小説というのは、人に理解されるように書かなければならんものだろうが。だから、恋愛小説には、本当は恋愛など全く書いていないのだ。書いてあるのは恋愛の周辺に転がっている誰にでも理解出来る事象だけだ。」
(夕木春央『時計泥棒と悪人たち』より)
確かに、恋愛というものは理解できるものではないんですよね。
完全にわかっているのは本人だけ。
そうであるならば、恋愛小説というのは、恋愛に似ているものを並べているということも言えなくはないのかも。
続いて探偵小説について。
「探偵小説はそもそも小説ではない。現実から乖離して、しかし非現実に徹するのでもない、奇術まがいで偏執的で、作者の脳内の歪みが読み取れるだけのものだ。」
(夕木春央『時計泥棒と悪人たち』より)
うん、なかなか言いますよね。
現実から乖離しているからこそおもしろいのではあるんですけどね。
ミステリーで出てくるような内容が、世の中にごろごろしていたら怖くて仕方ありませんもん。
とまあ、ほかの小説のことはどんな風に言うのかもちょっと気になるなって思いました。
おわりに
夕木春央さんの『時計泥棒と悪人たち』でした。
『方舟』が大ヒットしたのでこちらも気になる人は多いのでは?
厚みに圧倒されるかもしれませんが、これもやっぱりおもしろい。
読み始めてしまえばあっという間に最後までいけますので、ぜひぜひ手に取ってお楽しみあれ。