世界遺産、ノートルダム大聖堂 ICT技術で復活! 雑誌『ふらんす』(白水社)12月号より
記事:白水社
記事:白水社
【Réouverture de Notre-Dame de Paris : Pharrell Williams et ses 70 choristes chantent un medley inédit】
ノートルダム大聖堂はパリの中心シテ島に位置し、中世ゴシック建築の始まりを告げる繊細な装飾に溢れた姿をまとい、世界中の人々を惹きつけてきた歴史をもつ。火焔の中に崩れて落ちていくその衝撃的なシーンはSNS投稿を通してまたたくまに全世界に広がり、心を痛めた人間の数ははかりしれない。日本でいえば同じ年の10月に沖縄の首里城が焼失し、文字通り対岸の火事ではすまない事態となる。専門家や行政関係者の間では、世界遺産クラスの文化財をいかにして火災から守るかという重い課題が日欧をまたいで共有されることになった。火災の直後、マクロン大統領はパリ・オリンピックまでの5年で復興するという目標をかかげ、実際には半年ほど遅れたが、それでも最大級の資金を投入して何とか公約を守ることができたようだ。元のノートルダムに戻ったのだろうか。それともフランス人が好む新機軸の何かを加えて21世紀のノートルダムに生まれ変わったのだろうか。[中略]
【A Cathedral on Fire (Full Episode) | Saving Notre Dame | Nat Geo】
発火してまもなく、大聖堂の中央、交差部に高く建てられた尖塔が火焔に包まれ崩れ落ちたシーンが生々しく伝えられた。この火災のシンボリックな情景として人々の眼に強く焼き付けられ、SNS上で繰り返し再生されている。盛期ゴシックのデザインでつくられたこの尖塔は石を彫刻のように細かく切り刻んで制作したように見えるが、実際はヴィオレ゠ル゠デュク[Eugène Emmanuel Viollet-le-Duc、1814-1879。フランスの建築家、建築修復家、建築理論家]による創作で、しかも木でできている。これも樫材で、中世の小屋組に巧みに接合され地上93メートルまで組み上げた。表面が鉛で被覆されているので全体が黒く錆び、遠くからでも目立っていた。火災の際は、下から吹き上げた火焔が竃状になったこの塔の内部で渦巻き、鉛も溶け、最後は構造体ごとバーストして跡形もなく焼け落ちた。塔の先端についていたコック(鶏)も失われたと考えられていたが、翌日に瓦礫の中から発見されたのが救いである。尖塔を囲む十二使徒の像は火災の4日前に修理のため外されて修復工房に送られており、焼失を免れた。そのひとつがヴィオレ゠ル゠デュク自身の姿を模したということで19世紀の修復当初は非難の的になった代物であるが、今となっては当時の面影を残す貴重な彫像と認識されている。
【Qui était l'architecte Viollet-le-Duc ?】
実は19世紀以来、ゴシック信奉者の中にはゴシックを勝手に解釈して新たなデザインを付け加えるヴィオレ゠ル゠デュクに真っ向から異を唱える人たちがおり、今でもそれは変わらない。そうした人々の間では、この火災を天罰と捉え、修復にあたっては元のオーソドックスな初期ゴシックの形式に戻すことを唱える向きもあった。ただ、ヴィオレ゠ル゠デュクは歴史的にも国際的にも有名になりすぎ、最終的には彼が手がけたノートルダムの意匠を最優先とする意見が趨勢を占め、この尖塔の復旧が一連の工事において大きな意味をもつことになった。当時の設計図はきちんと残っており、昔通り工程を進めることは問題がない。
この尖塔が倒壊した際、交差部や身廊のヴォールトの一部も崩落しており、その部分の修復も大きな課題となった。つまり、木に加えて石造の部分も精緻な修復作業が要求されたということである。工程としては、瓦礫の中から石材を拾い出し、そのひとつひとつを計測してデータ化し、原寸で元の位置と状態を確認する。三次元ソフトが活用され、相当のスピードで同定作業が進んだが、最後は職人的な眼力が必要だ。800度に及ぶ高温で石が劣化し、欠損しているものも少なくない。さらに重要なのが、石と石との間に詰められたモルタルをどう復原するかという点であった。考古学や建築学に加えて、保存科学の研究者たちが動員され、石材の形態や成分の分析、モルタルの調合が検討された。
意外に思えるのが、鉄材についての発見である。木材に釘が用いられるのは当然として、石材部分でも多くの鉄が用いられていることが、瓦礫の調査からわかった。大量の鎹、太枘といった接手材、さらにはテンション(引張力)を加える引張材(シェナージュ)がその中から見つかり、その位置を特定することで、石材の力学的な特性が新たに検討されたのであった。建設当初、石材を積み上げる過程で石と石との間に埋め込まれ、竣工後はその姿を認めることができないが、今回のような事態を通して、中世建築の構造原理の研究が一段と進んだことは間違いない。
大聖堂クラスの建造物の保存修復には大変な時間がかかる。そもそもこのように大規模な建造物の修復を一気に行うためには、予算面でも、行うべきタスク面でもそれなりの手当をした上で、ビッグ・プロジェクト対応の大がかりな組織をつくって運営しなければならない。修復というと簡単な作業に聞こえるかもしれないが、災害で倒壊した建物をその破壊メカニズムに即して分析し、個々の部材を同定して元に戻すという作業は、設計図通りに建築をつくる新築の工程よりもはるかに手間暇がかかるのである。超高層一本よりも大変である。ところが今回のノートルダム大聖堂はそれを5年でなし遂げた。かつてヴィオレ゠ル゠デュクの修復事業は20年ほどの歳月を必要とし、七月王政末期に始まり、第二共和政、第二帝政を経て、第三共和政の時代に完成した。現在でも修復事業といえば、これが普通の時間感覚である。
【ノートルダム大聖堂、5年の工事を経て再建 数字で振り返る復活の軌跡】
作業の迅速化に貢献したのは、今日のICT技術である。もっとも基礎となるのは部位や部材毎のデータベースの作成で、倒壊した部分、欠損した部分などを同定し、復原の手がかりとする。大聖堂全体では石材の数だけで数十万個はあり、その数パーセントが倒壊している。また火災による熱風等によって変位を生じた個所が多々あり、その計測も不可欠である。幸い、火災前に行われたレーザー機器(フォトグラメトリー)による計測データがあり、それと照合することで変位の状態が明らかになった。ドローンによって高い位置からの撮影も可能となり、これも大きな進歩である。高熱にさらされたことで生じる石材の劣化についてもひとつひとつ調査をしなければならず、問題があるものは全面的に取り換えるか、継石として劣化部分のみを削って新しい材料に替えることが検討される。最後の部分は手作業に頼らざるをえない。
この20年ほど前までは、中世石造建築の構造解析は経験に頼るものと認識されていたが、近年はコンピュータによる解析技術が進み、地震力や風力によるたわみなども三次元モデルの中で得られるようになってきた。この分野は目覚ましい進歩があり、その成果も当然ながら応用された。逆に木構造についてはまだ開発途上で、日本の古建築に対する解析技術の方が圧倒的に優位に立っている。こちらは大工職人の経験にもとづいてひたすら手作業で復原を進めた。他方、考古学者と共同して地面下の埋設物や考古資料の発掘も行われ、地下構造の強度や基礎の状態まで調べることができた。そのおかげで13世紀の合唱壇や高位聖職者のための人型鉛棺など大変珍しい発見があったことも見逃せない。
もう一点、人々に愛されてきたノートルダムであればこそ、情報公開が大きな意味をもった。修復のプロセスを公開し、人々との間で技術データだけでなく、建築遺産に対する芸術的な感情を共有することに多大のエネルギーを割いている点を挙げなければならない。そのため、シテ島の現場は特に工夫され、定期的に復原プロセスの公開や模型による新旧の比較などが行われた。大聖堂を取り巻く仮囲いの扱いは圧巻で、これを大きなスクリーンに見立ててアニメ作家によってノートルダムへの想いをそれぞれ描き入れたのは、近年のアニメ文化の影響だろうか。大変楽しい現場であった。ノートルダムに関する書籍や映像が多々制作されたことも特筆すべきであろう。
ヴァーチャルな体験も重視された。今回、東京の日本科学未来館で展示されたノートルダム大聖堂展もタブレットを介して画面の中にパリとノートルダムの歴史が生起するかたちとなっており、今回の修復事業の市民への還元というかたちで制作されたものである。学習ツールとしても大きな意味をもち、今回の事例だけでなく、これからのビッグ・プロジェクトの中で大いに活用されるべきツールであろう。
このようにノートルダムの修復事業は、伝統的な文化財修復の手法に21世紀的なコンテンツを加えつつ、人々に開かれた文化の現場として先進的な意味をもつことになった。パリ・オリンピックの演出を見た人なら、フランスがこの方面で世界をリードする芸術的なマインドをもっていることに気がつかされたに違いない。ノートルダムの事例も一見地味な文化財の領域を大きく世界に向けて開いたということで、文化政策の面からも大いに評価したい。
三宅理一
【雑誌『ふらんす』2024年12月号(白水社)特集「世界遺産、ノートルダム大聖堂」所収「よみがえるノートルダム大聖堂」より抜粋】
【パリ・ノートルダム大聖堂展|楽しみ方】
*関連ページ:特集「ノートルダムとエッフェル塔」[特別対談]鹿島茂×三宅理一(『ふらんす』2019年8月号から)