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自分を内部に「閉じ込める」 外部に向かうために:私の謎 柄谷行人回想録⑯

記事:じんぶん堂企画室

1980年代の柄谷さん(本人提供)
1980年代の柄谷さん(本人提供)

――柄谷さんは、『マルクスその可能性の中心』『日本近代文学の起源』など大きな仕事をされた後、数学や建築など文学以外の領域に興味を移していきますね。そこで壁にぶつかったと聞いています。

柄谷 この頃のことは本当によく覚えてないんですよ。思い出したくもないということかもしれないけど。

――つらい記憶を呼び覚ましてすみません。

柄谷 いや、つらい記憶、というほどにも覚えていない(笑)。過去に書いたもののことは大体きれいに忘れているけど、この頃のことは、とくにそう。
じんぶん堂でのこの連載を始めてから、継続的に過去の著作に目を通してきたけど、実のところ、本当には読めていない。まず、本音ではまったく関心を持っていない、ということがある(笑)。この無関心は、がんばってみても乗り越えられない。あなたが、「このように書いてありますが、こんな意味でしょうか」というようなことを質問してくれますよね。もっともだな、とか、面白いな、とは思うので、「そうですね。こんなことなのかもしれない」とかいうふうに答えはするけど、本当は納得していないんだ(笑)。自分が書いたという記憶も実感もない。だから、過去の著作に批判的に切り込むなんて、はなから無理だよね。まあ、もともとそれは著者の役割じゃないのかもしれないけど。
ともかく、自分はこういう人間だから、回想のようなことをやるのは無理だとずっと思ってた。それなのに、なぜか始めてしまったから、困ることも多いんだ。「知らん、忘れた」じゃすまないから。出来事なら何とか思い出せても、自分が何を思って本を書いていたかなんて、思い出せないよ。書いているときにだって、分からないんだから。本に書いてある以上のことが、いえるはずはないんだ。
質問に戻ると(笑)、「マルクスその可能性の中心」の内容に不満があった、ということはありました。

――繰り返しになりますが、少し振り返ります。柄谷さんは、74年に日本で「群像」に「マルクスその可能性の中心」を連載した後、アメリカに渡ってポール・ド・マンに出会い、彼に読ませるために英語で短縮版の原稿を書きますね。ド・マンはそれを気に入って、関わっている雑誌に載せるといってきたとき、柄谷さんは断りました。「完全なものを書きたかった」とおっしゃっていましたね(第12回参照)

はじめて真正面から「言語」に取り組む

柄谷 そうですね。まず、「マルクスその可能性の中心」以降、閉じた構造のなかで完結するような思考に疑問を感じていた。その頃に言い出した“外部”というのは、そういう背景から出た言葉です。西洋哲学に代表されるような、閉じられた体系としての思考から出ようとした。それを、言語学や数学などについて考えることから試みたんです。だけど、その度に決定的な疑問が出てきて、うちひしがれました。それを解決しようとして、新たなものを書く、ということを繰り返していった。

――柄谷さんのいう“外部”は単純な内に対する外ということでなくて、なかなか難しい概念ですよね。

柄谷 内部と外部の二項で考えることそのものが、一つのシステムの内部でなされている。だから、外に出ようとして出られるものじゃない。逆に、出ようとすればするほど、閉じ込められることになる。だから、僕のいう“外部”というのは、 “不在としての外部”です。

――なぜその外部に出ていかなくていけないんでしょうか。

柄谷 資本、国家、ネーションから出るため…じゃないかな。

――柄谷さんが後に確立した交換様式の考え方でいう、A=ネーション、B=国家、C=資本が結合した体制ですね。このままでは恐慌と戦争が不可避だと指摘されてきました(『力と交換様式』インタビュー)

柄谷 これは今ふりかえって思ったことであって、当時はそんな考えはまだ持っていなかった。でも、そのことが根本にあったと思う。しかし、それを哲学の問題として解こうとしたから、行き詰まった、そういうことだったのかもしれない。
その頃僕がよく使っていた“批評”という言葉がある。自分は、“哲学”とか“文学”じゃなくて、“批評”をやるんだ、と。それは簡単にいえば、批判的である、ということです。既存の思考を組み合わせて新しいものをつくるのではなく、既存の思考を成り立たせているメカニズムを解明しようとすべきだ、と考えた。そういう作業がないと、思想は、既存の体制を追認して、そこでできる範囲のことに甘んじることになる。既存の思考体系は、どんなにラディカルなものであっても、それを反復しているだけだと、既存の体制に吸収されて、それを支えるものになってしまう。
「マルクスその可能性の中心」の話にもどると、そこで僕がやろうとしたのは、『資本論』をソシュール言語学の視点から読むことを通じて、古典経済学やヘーゲル哲学の“外部”に出ることでした。マルクスは『ドイツ・イデオロギー』以降、西洋哲学の代名詞のようなヘーゲル哲学から脱出しようとしたけれど、僕の考えでは、それは十分には成功しなかった。『資本論』を例外として。

 《フェルディナン・ド・ソシュールは、スイスの言語学者。1857~1913年。1891年からジュネーブ大学教授。生前の著作は1冊のみだが、死後に教え子たちがまとめた『一般言語学講義』は、言語構造を理論的に分析し、「構造言語学の聖典」とされる。「シニフィアン」(意味するもの、記号表現)と「シニフィエ」(意味されるもの、記号内容)の関係は、恣意(しい)的で慣習的なものに過ぎず、記号体系の中で他の記号との「差異」を示すものでしかないとした。例えば「羊(ひつじ)」は執事(しつじ)や棺(ひつぎ)とは異なり、ヤギや牛とは違う。単語は言語全体の差異から認識される。後の記号論、構造主義に大きな影響を与えた。一方で、本人の手による著作ではないため、どの程度ソシュールの考えを反映したものかは議論がある》

柄谷 ソシュールは、言葉の意味は差異から生まれるものに過ぎない、といった。言い換えれば、言語を異なる体系の間での“交換”から考えた。その点で、商品の謎を交換から考えたマルクスとも通じます。マルクスとソシュールという異なるものを、交換という観点でつなげて考えたんですね。一般には何の共通性もないと思われているものの共通性を見つけてくるのというのは、僕の習性なんです(笑)。

――マルクスに関して言えば、ソシュールの言語学と組み合わせることで商品交換の謎が見えてきたんですね。

柄谷 そうです。しかしそのような交換はいかにして可能なのか、ということについては、考察が不十分だった。それで取り組んだのが、「内省と遡行」です。

――79年12月「現代思想」(80年1月号)で連載が始まっていますね。「あとがき」で、「はじめて真正面から言語について考えはじめた」と書いています。

柄谷 軸になっているのは、ここでもソシュールの言語学だった。そこにフッサールの現象学をあわせて考えました。フッサールによれば、人間は主観によってしか世界を把握することはできない。主体が客体を捉えるという構図です。ソシュールの言語学も、いっけん客観的で科学的だけど、やはり主観から出発する考察です。主観の観察によって、普遍的な法則を発見していく、という。
それに対して僕が目指したのは、徹底的に内側に入っていくことで、内側から突き破って外に出る、という道でした。思えばこれは、ディコンストラクション(脱構築)だったね。ド・マン、デリダからの影響があったんだろう。ただ、たとえばデリダとは違って、ディコンストラクションなどの方法にのっとって作業をすすめる、というやり方は僕はとらなかった。そういうのはいやだったんです。

――「主観が主観に関して直接問いたずねること、また精神のあらゆる自己反省は危険なことである」というニーチェの引用から始まって、「ニーチェの遡行(リトロスペクション)は外的な(物理学的・生物学的・歴史学的)な事実性においてあるのではなく、内省のなかでしかありえないのであり、しかも内省の拒絶としてしかありえないのである」。とても魅力的なのですが、かなり逆説的で、すでに危険な感じがします。

フリードリヒ・ニーチェ
フリードリヒ・ニーチェ

柄谷 いや、最初は割と順調だったよ。うまくいきそうな感じがしていた。だんだん危ういところに入っていったわけだけど。

自らに禁じたこと

――『内省と遡行』の「あとがき」で、「私は積極的に自らを《内部》に閉じ込めようとしたといってもよい」と書いています。

柄谷 “内部”があるからには、”外部“もあると思ってしまう。しかし、”外部“を実体的なものだと考えてはいけない。不在として、垣間見ることができるだけだから。

――外部を「詩的」に語ることも自らに禁じていますね。

柄谷 それは常套手段ですよね。僕は、できるかぎり厳密に形式的に突き詰めようとして、自分を追い詰めていった。最初はそんな予定ではなかったんだけど、だんだん西洋哲学史をまるごと振り返るような道に入ってしまった。それで中途で切り上げざるをえなくなりました。

ゲーデルと脱構築

――「内省と遡行」の連載が80年6月に終わって、再び渡米。イェール大学で比較文学研究科の客員研究員として翌年まで滞在しますね。

柄谷 70年代にイェールに行ったことで関係ができて、また呼ばれたんです。このときは授業をやらなくてよかったから、集中して仕事ができた。講演は何度かしたけどね。イェールで勉強したのは、批評理論じゃなくて、数学基礎論でした。『ゲーデル、エッシャー、バッハ』(ダグラス・ホフスタッター)を読んだことが、ゲーデルの不完全性定理に関心を持ったきっかけだったと記憶しています。

――刊行は、1979年ですね。アメリカでは大きな話題になっていましたか。

柄谷 そうですね。といっても、みんなが読んでいたわけじゃないよ(笑)。

クルト・ゲーデル
クルト・ゲーデル

――アメリカにいた80年12月から「群像」(81年1月号)で「隠喩としての建築」が始まりますが、ゲーデルの「不完全性定理」が重要な引用元になっていますね。

柄谷 ゲーデルは、数学の体系では最終的に決定できない問題があることを数学的に証明してしまった。僕は、それを哲学に応用しようとしたのです。

――「不完全定理」はとても難解で、正直にいうと理解できているとはとてもいえないのですが、「すべてのクレタ人はうそつきであると、一人のクレタ人は言った」という有名なパラドックスで説明されていますね。

柄谷 自己言及的な体系を突き詰めていくと、体系そのものが成立しなくなってしまうという話ですね。僕はそのような問題を、“建築”から考えようとしたのです。

――なぜ“建築”だったんでしょうか。

柄谷 西洋哲学の始祖ともされるプラトンやアリストテレスは、哲学者を建築家に喩えていました。そして、哲学を知の建築になぞらえた。これは、プラトンの“哲人王”のような考えに結びつく。要するに、政治的プランナーというような意味での建築家だと自らをみなすことに。西洋哲学は、そのような意味での建築家たることを目指した。だから、“隠喩としての建築”というのは、西洋哲学のことだといえます。僕がやろうとしたのは、そのような観点から、哲学について考えることでした。
そのころアメリカでは、ディコンストラクションというデリダの用語がはやっていました。日本で広まるのはもう少し後でしたけど。僕は、ディコンストラクションについて、欧米とは異なる文脈のなかで考えざるをえなかった。なぜなら、日本の思想においては、“建築、コンストラクションへの意志”が希薄だからです。だから、日本は、もともとディコンストラクション的であるようにみえる。しかし本当は、コンストラクションがないところには、ディコンストラクションもない。それで僕は、西洋の思想家がディコンストラクションに向かっているときに、逆にコンストラクションに向かった。つまり、あえて建築的・形式的であろうとした。それが日本人である自分にとって、批評的であることだと思ったのです。
当時、イェール大学でデリダと再会したんだけど、今何をしているのかと聞かれたんです。僕は「あなたがいうディコンストラクションの問題を、まさにアーキテクチュアル・コンストラクション=建築の観点から考えている」と答えました。ディコンストラクションは、建築の言葉だけど、みんな実際の建築とは結びつけてなかったからね。

『隠喩としての建築』単行本(1983年、講談社)。表紙には、柄谷さんが自然都市と人工都市の違いを論じた際に用いた図が配されている
『隠喩としての建築』単行本(1983年、講談社)。表紙には、柄谷さんが自然都市と人工都市の違いを論じた際に用いた図が配されている

――あえて文字どおりに受け取って考えた、と。

柄谷 まあ、そうはいっても、もちろん狭義の建築について考えたわけじゃないですけどね。都市論なんかは取り入れているけども、あくまで“隠喩”としての建築の話です。それがなぜか建築学科の学生にもよく読まれるようになって、建築のシンポジウムにまで呼ばれるようになった(笑)。
あの本の主題は、数学の基礎論でした。西洋的な知でもっとも確実だと考えられていたものは、数学でしょ。だけど、当の数学者たちは、そんなにナイーブじゃなかった。すでにゲーデルの出現で、数学というものが、完全ではありえないことを知ってしまったんだから。それで僕は、数学基礎論について考えることで、西洋的な知を根底的に考察しようとした。ディコンストラクトしようとしたんですね。ここまではそれなりに順調だった。しかし、大変なのは、ここからでした。

(この連載では、柄谷行人さんの半生をお聞きしていきます。取材では、妻の柄谷凜さんにもご協力頂きました。次回は、「言語・数・貨幣」や数学との格闘についてなど。月1回更新予定)

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