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【谷原店長のオススメ】竹村公太郎『日本史の謎は「地形」で解ける』 地形学生かした豊かな想像力が生む「なるほど!」

谷原章介さん=松嶋愛撮影

 西暦1600年、「関ケ原の戦い」で勝った徳川家康は、なぜすぐに江戸に戻ったのか。織田信長は、比叡山延暦寺をなぜ焼き討ちにしたのか。源頼朝は、山と海に囲まれた鎌倉になぜ幕府を開いたのか――。日本の歴史のナゾを、地形の観点から読み解いていく。そんなユニークな視点を持った本に出あいました。

 著者の竹村公太郎さんは、1970年に建設省(現在の国土交通省)に入省し、日本全国のダム現場を周ることから仕事をスタートさせたという、治水行政のスペシャリストです。全国を転勤しながら竹村さんが痛感したのは、「各地の地形と気象が、こんなに多種多彩なのか」ということだったそうです。大阪での勤務時代、竹村さんは大阪城内で「本願寺跡」という看板を見つけました。「本願寺は京都にあるのでは?」。調べてみると、京都の東西の本願寺はのちに建造されたもので、本拠地はこの大阪城跡だったことがわかったのだそうです。

 戦国時代最大の宗教的武装勢力といわれた、石山本願寺は、あの大胆不敵、残虐な織田信長と11年間戦いましたが、負けることはありませんでした。竹村さんによると、戦国時代、上町台地にある大阪城跡の周辺は湿地帯だったそうです。ここを攻めようとする兵隊たちは、おそらく足を泥に取られ、身動きできなくなったでしょう。「台地の上から矢で射(い)られ放題となる」。竹村さんはそう予想します。本願寺が10年以上も持ちこたえたのは、信者たちの強い宗教心があったためだと思っていましたが、それだけではなく、「彼らが難攻不落の地形に陣取ったから」と竹村さんは見立てます。以来、地形と日本史の関係を探る旅に竹村さんは出かけます。

 ここ最近、僕は「機動戦士ガンダム」などでおなじみのレジェンド、安彦良和さんによる漫画『ナムジ』を読みふけっていました。日本神話に登場する「ナムジ=大国主」を、2世紀後半の日本に実在した人物として、その半生を描いた作品です。安彦さんは、いわゆる歴史家ではありません。けれども、その土地に残る伝承を調べ、ゆかりの寺社仏閣を訪ね、物語を練っていく。そんなフィールドワーク的な視点が面白いと感じました。今までとは異なる視点から歴史に触れる。そのスタンスに興味を抱いた矢先、竹村さんの本に出合ったのです。

 まず、第1章から抜群に面白いです。徳川家康が1600年、「天下分け目」の関ケ原の戦いで勝ち、その3年後に征夷大将軍になった途端、どうして江戸に帰り、幕府を開いたのか。この江戸開幕、もちろん学校で教わる歴史ではありますが、僕の漠然としたイメージでは、旧弊で凝り固まった京都を離れ、肥沃で米のいっぱい育てられる関東平野で、新しく政権をつくりやすいと考えたから江戸を選んだのだろう、と思っていました。家康は、「関ケ原の戦い」の10年前、甲府城から江戸への「転封」を豊臣秀吉から命じられます。その時、家康の家臣たちは怒りまくったそうです。理由としては、「関東は北条氏による支配が長く続き、統治するのに骨が折れるから」という解釈がなされています。いっぽう、治水・建設のプロフェッショナルである竹村さんは、異なった見解を持ちます。家臣たちが激怒したのは、「江戸が手に負えないほど劣悪で、希望のない土地だったから」……。

 当時、関東は2つの河川流域で構成されていました。太平洋に流れ出る鬼怒川・霞ケ浦の流域と、東京湾に流れ込む利根川・荒川流域です。「あれっ? 利根川は太平洋では?」と思った方、そうです。実は家康が江戸に入った当時、利根川は江戸湾に向かって流れ込んでおり、その利根川が運ぶ土砂が堆積し、関東平野が成り立っていました。今のような平野ではなく、雨が降れば何日も何カ月も浸水したままになるような、いわば関東「湿地」だったのです。

 家康は、転封から「関ケ原の戦い」までの10年間、「鷹狩り」と称し、この関東「湿地」一帯を徹底的に歩き回っていたそうです。利根川や荒川が流れ込み、雨のたびに浸水する劣悪な土地を、肥沃な水田地帯へと替えるため、家康は、利根川の「東遷」、つまり利根川を東京湾でなく、今の千葉・茨城県境にシフトさせる事業を手がけます。

 利根川の暴れ水を銚子に向ければ、広大な新田が手に入る。沼地、湿地帯を、くまなく歩き回って、算段をつける。だからすぐに江戸に移ってきたのか。そう考えると、彼の先見の明には唸(うな)ってしまいます。家康が克服すべき、戦うべき新たな敵、それは利根川だったのですね。彼の深謀遠慮が、のちの東京や首都圏をつくり上げていった。そのことを地形学の専門家から聞くと、「なるほど!」って膝を打たずにはいられません。考察の想像力が豊かで、家康の人物像もまた違って見えてくるのです。

 江戸にまつわる謎といえば、もう1つ。東京都江東区の「小名木(おなぎ)川」をめぐるミステリーも面白いです。地図を見ると一目瞭然なのですが、他の河川とは異なり、小名木川は東西を一直線で結ぶ人工河川です。これも、家康が江戸入りした直後に建造した水路です。歴史学者の見立てでは、「千葉の行徳から江戸へ塩を結ぶ運河」とされているのですが(現地の看板でもそう書いてあるのですが)、竹村さんは、建造当時の江戸の地形の状況から、まったく異なる考察を綴っています。現在の地図を見ているだけでは到底たどり着けない考察に、感銘を受けます。

 「両国橋」「向島」「吉原」「日本堤」……隅田川沿いの地名の由来について綴る筆致は、それこそ江戸っ子のように切れ味鋭い文章であるのも読みどころ。当時は下総国だった隅田川の対岸を江戸に取り込み、日本堤と墨田・荒川・熊谷堤で江戸を守る遊水地システムをつくっていく。その堤を維持するために、江戸幕府が立てた作戦とは――。江戸にあった、ある有名な施設の移転をめぐる、この章を読み進めると、都市づくりの根幹とは、すなわち治水だということが改めて強く伝わります。上下水道の整備、河川の治水の重要性について、彼の視点を通じて痛感するのです。

 この本では、京都、大阪、奈良、福岡といった都市についても言及していきます。千年の都・奈良に、なぜ新幹線も太い高速道路も通っていないのか、ずっと不思議に思っていましたが、竹村さんなりの考察は腑に落ちます。ヒト・モノの交流軸から外れてしまった奈良は、歴史遺産を抱えたまま、千年の眠りに入っていったのですね。

 江戸城の半蔵門は本当に裏門か。赤穂浪士の討ち入りはなぜ成功したか。「脆弱な土地」の福岡はなぜ巨大都市になったか。ほかにも、日本の歴史を地形と絡めて読み解く考察は続きます。もちろん、すべてが腑に落ちるというわけではなく、「竹村さん、それはちょっと話が飛躍していませんか?」と思ってしまうものもあるのですが、ともあれ、興味深いトピックばかりです。究極の考察は「邪馬台国」がどこにあったのか。ぜひ本を手に取って探ってほしいと思います。

あわせて読みたい

 安彦良和さんの『ナムジ』(徳間書店/中公文庫)を含む古代史シリーズもぜひ。僕の中で根本的な疑問としてあるのが、「日本人ってどこから来て、今に至るのか」。縄文人、弥生人、南から海流に乗ってやってきた人々……。古事記、日本書紀、魏志倭人伝などにも触れながら、古代日本の原型がどうつくられていったのか、思いを馳せられる大作です。(構成・加賀直樹)