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東畑開人さん「雨の日の心理学」インタビュー 弱音を吐きづらい? まず一歩踏み出してみよう

東畑開人さん=松嶋愛撮影

「雨の日」に正しさは届かない

――『雨の日の心理学』は東畑さんが開講したオンライン講義がベースになっていますが、「雨の日」というコンセプトはどこから生まれたのでしょうか。

 今、困っている人に役立つ授業をしよう、それを本にもしてみよう。最初からそう考えて動き出したのが2023年の通年オンライン講義「心のケア入門」でした。

 僕は臨床心理士ですが、「話を聞くなんて誰でもできることだろう」「心理学の専門家ってどういう意味で専門家なんだろう」という問いについてずっと考えてきました。

 でもあるときから、「病について理解していること」が専門家と普通の人の違いなのでは、と思うようになったんですね。つまり、心の調子が悪いときに人はどう傷ついてしまうのか、世界がどう見えて、そんなとき周囲の人はどんな風な距離で関わればいいのかを専門家はよく知っている。そしてこれこそが、一般市民が戸惑うところなんですね。

 ある日突然、身近な誰かの心の調子が悪くなる。人生には結構そういうことが起きます。子どもが学校に行きたがらなくなるとか、「頑張ってね」と伝えても言葉が全然届かなくなっているとか、そういう「雨の日」の心をどうすればケアできるのかを考えたのが『雨の日の心理学』です。

 もうひとつ、伝えたかったのは「ケアは特別なことじゃない」ということ。

 雨の日の心にケアが必要ならば、晴れの日にはケアは不要なのだろうと思われるかもしれません。でもそうではなく、まるで酸素のようにケアが行き交っているのが「晴れの日」なんです。

 挨拶をする、「今日は寒いね」と雑談する、朝食の準備をする、部下の話を聞く。そういうふつうのことをふつうにしているとき、僕らは心のケア「も」している。

――日常の営みの中に、無意識のうちにケアが織り交ぜられている?

 そうです。みんながケアを特別なものだと思い込んでいるけれども、「ふつうのことがふつうにある」のが晴れの日です。

 子どものことで悩みを抱える親御さんや、上司としてうまく振る舞えないと悩む会社員の方の話を聞くと、「あなたはふつうにケアをしていたし、こんなことでいいのだろうかと不安に思っていることも相手にとっては案外役に立っているはずですよ」と伝えたくなることが本当に多いんです。

 日常そのものがちゃんと心のケアになっている。自分はダメだと落ち込む前に、そのことにも気づいてほしいという思いもありました。

心はぷるぷるのゼリー 

――「ケアすることになった人」は、何をするといいのか、逆に何をしないといいのか、具体的な行動が本書ではたくさん紹介されています。「心はぷるぷるのゼリーのようなもの。話をきいているときは言葉だけでなくゼリーが相手から注ぎ込まれる」(コンテイニング理論)のように、専門知が一般の人にもイメージしやすい例えで紹介されていますね。

 誰かと話していて「あ、伝わっていないな」と気づくときがあるじゃないですか。僕はそういうとき、なんとかして伝えたくなる人なんですよ。

 過去に女子大で講師をしていたのですが、授業中に少しでも理論的な話をすると学生が次々と眠りに落ちて、夜の海のように教室が静かになったことがありました。その時間があまりに孤独だったので、以来、心を入れ替えてなんとか伝えようと頭を捻るようになったことが大きい気がします。比喩って、人に喋って伝わらないときに初めて生まれてくるんですよ。

 精神分析家の友人も読んでくれて、「そう、ゼリーなんだよ!」とすごく喜んでもらえたので、本質さえ外さなければ比喩にすることで理解が深まるのはいいことなんじゃないかなと思っています。

――聞く技術のバリエーション、ほどよいおせっかいの効能など、ページをめくって具体例を知るほどに、誰もがケアしケアされて生きていることに気づかされますね。

 コロナ禍が残した影響もあると思いますが、今は他者が怖くなりすぎている人が増えている印象を受けます。他者に踏み込むこと、おせっかいをしたりされたりすることを怖がって遠ざけている人がすごく多い。

 でも、本当はそんなに怖がらなくていいんですよ。

 確かにおせっかいは行き過ぎると相手を損なってしまうこともあるけれども、多くの場合は助けになります。これって言葉にするとすごく凡庸ですが、専門家が「おせっかいは助けになる」と言い切って背中を押すことに意味があると僕は思っています。

 僕はカウンセリングを続けていく中で、クライアント(患者)さんが「先日、こんなことをしたんです」と自分からおせっかいをした話を聞くと感激するんです。ああ、この人はちょっとずつ他者を信じ始めたんだ、と感じられるので。誰かに踏み込むことは、相手をそんなに怖くないと信じ始めた合図でもあるんです。とはいえ、もちろん、そのことで相手を傷つけちゃうこともあるんで、そういうときにちゃんとやり直せるのも大事なことです。この本ではそういうことも書いていますね。

――心理士としてこれまで大勢の人たちとカウンセリングで対峙してきた東畑さんから見て、「強い人」と「弱い人」の違いはどこにあるのでしょうか。

 「強い/弱い」は、結局のところ「つながりがあるか/孤独であるか」ととらえたほうがいいと考えています。「孤独でも強い人」は僕の仕事の範疇で見る限りはいません。誰しもつながりがあるから強くいられているし、つながりが消えると脆くなっていく。

 20代くらいのときは誰でも「自分は一人でも生きていける」と思うんですよ。なぜなら、実は人に囲まれている時期だから。発展途上のときは友達もできやすいんです。お互いが未熟であることを理解しているし、何かとチャンスも多い。学校のように所属する場所もある。

 でも30代、40代と年齢を重ねていくほどに、弱音を吐きづらくなる人が増えていくのは確かです。理想と実像のギャップに不安を感じるミドルエイジ・クライシス(中年の危機)も、それとは無関係ではない気がします。

弱さとは「牙をむく虎」

――表紙のイラストにもその思いが現れているように感じました。強いはずの虎が不安げな表情をしていて、カバが傘を差し出している。

 最初の案は虎とカバではなく、犬のペアだったんですよ。可愛い犬がもう1匹の犬に傘を差し出していたのですが、それは僕が考えるケアの形とは違う気がしたんですね。

 腹を立て、牙をむき、周りを怖がらせてしまう。そんな風に自分の中の「虎」的な部分が現れてくるときこそ、本当はケアが最も必要なときだと僕は思っています。か弱い小さき者を保護するのではなく、可愛くない「虎」に傘を差し出すこと。それが弱さとは何かを考えることではないでしょうか。

――では、弱音を吐くのが上手い人と下手な人の違いは? ケアの本質がつながりであるならば、「つながることが難しい人」にとってはハードルが高いかもしれません。

 これもおせっかいと一緒ですが、他者への信頼感です。弱音を吐くことの難しさをどう克服するかについては本書のあとがきでも触れていますが、まずはとにかく「相談のサーブを打ってみよう」に尽きます。誰かに勇気を出して、心を打ち明けてみてほしい。どうしてもそう思います。

 ボールが返ってこなかったら、別の人に投げてみてもいいし、もう一度同じ人に投げてみてもいい。少しだけ勇気を出してサーブを打ってみる。それがいい偶然が起きるための準備になるかもしれない。

 カウンセリングを続けていると、サーブを打ったことが積み重なって「そんなところからつながりができたんですね!」と感激することが結構あるんですよ。久々に会った親戚とちょっとこんな話ができたとかみたいに、面白い偶然が起きるときがある。そういうのは決して劇的な出会いとかではないんですよね。小さなところから少しずつ変わっていく。これが本当のところだと思っています。

僕らの世代なりのスタンダードを示していく

――心のケアの本質について理論と実践を余すところなく詰め込んだ本書は、現時点での東畑さんの集大成的作品に感じられました。手応えはありましたか。

 最近になってようやく、自分なりの大枠というかスタンスが固まってきた気がしています。20代の頃からずっと臨床心理学を勉強してきて、でも当時は意味がわからなくて専門用語でしか話せなかったことを、ようやく僕なりの言葉でいろいろ語れるようになってきました。

 カウンセリングやメンタルヘルスケアの僕らの世代なりのある種のスタンダード、その前の世代とは異なるアップデートされたものを、自分なりにいくつか示し、広めて行く。今はそんな段階に来ているのだと思います。ここからはそうやって見つけたことを、専門職の人たちとだけではなく一般の人たちとも分かち合っていけたらと思っています。