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上田啓太さん「人は2000連休を与えられるとどうなるのか?」インタビュー いつでもビール飲めるぜ、からの 

1000日からが衝撃的

――今年上半期で最も衝撃を受けた1冊です。正直に申し上げて、メンタルを抉(えぐ)られました。最初に本のタイトルを見た時に感じた印象から、読後感が180度変わりました。上田さんは当初、「この本を書き終えたら死ぬ」と思っていたそうですね。でも、今は「(新たに)始めるための本」だとブログに書いておられ、「ああ、ご本人は正気を保っている」と、ひとまず安堵しました。反響を呼んでいますが、読者の声は届いていますか。

 いろいろと届いてはおります。本の前半・後半、どっちに反応するかで、パキッと分かれているな、という印象です。本の中でいうと「1000日目」の前後ですね。前半が「面白かった」「よくわかる」。ところが後半は「ちょっとついていけない」「すごく衝撃的」「不安になった」などなど。「なんか読んでいて良いのか、ちょっとよく分かんなくなってきた」みたいな(笑)。

――私は、そのどちらも感じました。もしも、2000日休んで閉じこもったら、自分も見たかも知れない精神の深淵を追体験させられたような気分です。前半は哲学的な側面を帯びていると思って読んでいたのですが、後半・終盤はちょっと……、何でしょう、精神科医の専門領域、カウンセリングを必要とする領域というか、そういう展開になっていって。

 哲学にもなれてないんですよね、この本って。哲学史の文脈を踏まえて語る、みたいなこともできていない。自分が「連休」の中で直面した、特に後半・終盤に直面したことは、いわゆる精神の病と何が違うのか。この上田の最後の状態は、もう少し社会的な言葉、あるいは既に学問として蓄積されている言葉に、今後位置づけていくべきなのかなと今、悩んでいます。

上田啓太さんが「連休」を過ごしていた物置

――でも、体系に基づいてない筆の運び方だからこそ、直接、読者の心を抉ってくるような、じかに突き刺さる印象を覚えます。

 ものすごくありがたいですね、そう言っていただけるのは。それこそ「連休」中、かなりいろいろ本を読みました。読書習慣が「連休」中にできたんですよ。例えば哲学者や精神科医が書いた本とか、面白いので読んでいたんですが、結局「著者が他人を観察する」っていう大前提があるんだなと思ったんです。でも、自分としてはもう完全に「自分の問題」だったので、そこの距離を取っちゃうと、ちょっと嘘っぽくなっちゃう。おっしゃる通り、そこはひじょうに意識した部分ですね。

世界の意味がバラバラに

――この本の文章は、ウェブメディア「ジモコロ」に連載されたコラムを元に、大幅に書き直したそうですね。

 そうなんですよ。裏話的なことを言いますと、第1稿、いわゆる書籍にするための第1稿はもっとムチャクチャだったんです。特に最後のほう、本の中の「1500日」から「2000日」あたりが、もっともっとムチャクチャで意味不明。担当編集から「さすがに難し過ぎる、わかりにく過ぎる」と指摘されつつ、何とか頑張って工夫して。

――「難し過ぎる」というのは、詳しく言うと、どのような感じだったんですか。

 今も残っちゃっているんですけど、「知覚点」みたいなことを言っている。今、口にしてみて思うんですけど、日常的な言葉じゃない。そういう日常的な表現じゃないものが、説明なしに使われていた。あと、もっと断片的でしたね。精神的にどんどん追い詰められていって、変なところに入っていくと、思考も断片的になっていく。うまく文章として意味の通る形にできなくなっていくんです。世界の意味がバラバラになっちゃっている、みたいなことがあって。

 それで実感したんですけど、「世界の意味」っていうのは、言葉を使う能力と関係していて、そのへんが最後の方は崩れてきていたんです。「現実感がない」っていうのは、実は「言葉のリアリティがない」みたいなことでもあるのかも知れない。そういう状態だと文章は書けないわけですよ。言葉のリアリティがない状態で、意味の通る言葉を書くことは、そもそも矛盾していますよね。

――最初は、仕事を辞めた解放感から始まります。「好きな時間にビールだって飲めちゃうぜ」。とは言っても、お金は有限だし、将来の不安がしだいに生まれてきて、そこから昔、自分の身に起こった出来事を、洗いざらい思い起こす作業が始まって、図書館に通い始めて本を読みあさる日々。その次に、「あれっ?」と違和感を覚え始めたのが、「行動を分単位で刻み続けて記録する」という作業に取り掛かり、しかもそれを、転がり込んだ借家の同居人「杉松さん」に報告し始める点です。それから、「文字を読むこと」をやめ、自分に関わる記憶を徹底的に「データベース」化する。……これは、「京都大学を出た人だからかな」って気もします。京大生っぽい。

 あ、その意見は結構、耳にしますね。自分ではあんまりピンときてないんですけど。工学部出身で、いわゆる理系っぽさもあるのかも知れない。ひとつ思ったのは、自分を研究対象にしている。観察対象にして、なるべく客観的にデータを取っていく、みたいな発想が、その「行動を分単位で記録する」とか、「記憶を全部データベース化していく」みたいな行動につながっているのかもしれませんね。とりあえずデータを取らなきゃ話にならない。

――それこそ「おかずランキング」(※詳細は本書を参照)とか、そんなことまでやるわけですもんね。

 あそこはね、個人的には単なる笑いどころとして(笑)。性格として、追い詰めぐせがあるのかも知れない。「徹底しなきゃ嘘だ」みたいな。これは、でも本当に危ない性格なんですよね。

1畳半の物置に暮らす

――「おかずランキング」を記録に残しているあたりは、「危ない」とは思いつつも、でもなぜか、ほのぼのして読めるんです。同居人・杉松さんの人柄・やりとり、あと、杉松さんが借りている京都の古い一軒家の借家の空気が、画像で見ているわけでもないのに伝わってくる。そのライティング能力の妙も勿論あるんだろうって。

 「京都っぽい」ってのは一つ、大きなキーワードなのかも知れないですね。大前提としての居住環境が、まず、大家さんが近所に住んでいらっしゃる老夫婦なんですけど、杉松が毎月、家賃6万円を手渡しに行って、ちょっと雑談して帰ってくる、みたいなことをやっている。意外と、このへんも大事だったのかも知れない。ふつう、「男が転がり込んできた」っていうのが、まず、賃貸の常識としてはダメなことなんですよ。もともと杉松が1人で借りていた家に、途中から男(自分)が入ってきて、のちに猫も入ってくるんですけど。常識的にはダメなこと。だけど、杉松と大家さんの関係性で、なんかフワッとOKになっちゃっている。そのへんの緩さが、ちょっと京都っぽいなとは思います。その独特な空気感が、結果的に上田のムチャクチャな生活を支えているとは思いますね。

――その約6年、2000日っていう時間の遠大さもそうですが、同時に驚くのが、部屋の空間がたった1畳半。1畳半に人間が住めるのか、と。

 いわゆる平屋で、そこに杉松が住んでいて、縁側があって、そのちょっと向こうに1畳半の物置がくっついている。大家さんによると、後から増築した物置らしいんです。天井がトタン屋根なので、雨の日がうるさくて仕方ない。

――基本的に人が暮らすようにできていないですもんね、物置だから。

 大家さんは引いていました。「あそこに住むの? 人が!」って。これは本には書いてないんですけど冬に、Macブックの充電ができなくなっちゃったんですよ。あまりにも寒すぎる環境で使っていると、バッテリーが駄目になっちゃう。冬場の朝とかは零度になっている。このへんも感覚が、6年も住んじゃって、もう壊れちゃっている気がするんですけど、そういうところに住んでいました。

――同居人・杉松さんは、上田さんのブログを読んで、メールのやり取りをしたことから関係ができたそうですね。杉松さんに対して、例えば、何でしょう、……こういうストイックな生活を送っていて、「ただの人間関係以上の思い」を抱くなど、そういう瞬間って生まれなかったのかな、って。

 ああ、でも、何だろう、「恋人ではない」みたいに書いているんですけど、ある意味、人生で一番、心を開いている相手ではあるんです。たぶん杉松も、ものすごく変な人っていうのがあって。じゃないと、あの6年間の生活は成り立たない。ほったらかしてくれる人。上田の方もわりと杉松をほったらかしている。でも何となくお互いに信頼している、みたいな感じだったなとは思います。

過去と向き合う危険性

――いくつか、本を読み気になった言葉について。上田さんは、わりと早い段階で「自動思考」という言葉に出会いました。認知療法の本を読んで知った言葉で、「人間の思考は自分の意思と関係なく自動的に生じている」と指摘しています。「気がつくとネガティブなことばかり思い出し、じつは自分自身で苦しみを増幅させている」と。上田さんは、自分自身のデータベースを作り、そして「封印していた感情を書き出す」という作業をしました。そこで出てきた言葉が、「記憶の墓を暴くな」。じつは凄く危険なことだそうですね。

 「忘れる」ということが、まず、生きていくための能力。「忘れる」といっても、完全に忘れているわけじゃないけれど、普段は思い出さないようになっている。でも、これって、ややネガティブに言われがちなんです。「ちゃんと過去と向き合わなきゃいけない」みたいに。ただ、この「ちゃんと過去と向き合おう」とするプロセスは、それこそ、この先6年間ぐらい何にもできなくなる危険も秘めているんじゃないかな、と思う。幼少期からの家族とか友達、先生との関係から全部思い出していき、過去と向き合うと、とりあえず、(憎悪や後悔で)仕事は数年できなくなる。それは自分でやってみて思いました。

――「記憶の墓」に入れておけば良かったものを。

 そうですね。しかも今回の上田の場合は、そこで他人がいないので、もう、全部自分のこととして見ていくしかない、ごまかしようがない。そこに、わりと入っていっちゃったってのもあって。「1000日目」のちょい前のあたりが一番、精神的にはもうぐちゃぐちゃの時期。

「卒業アルバム」が「生き物図鑑」に

――1000日目を過ぎた後は、鏡に向かって「お前は誰だ?」って言い続けていますね。

 あのへんは、記憶の問題は多少落ち着いてるんですけど、今度は別の意味でおかしくなっていますね(笑)

――さっき、このインタビューの前、自分もやってみたんですよ。3分間ぐらいやり続けていると、ものすごく怖くなってきた。で、本に書いてある通り、ちょっと笑ってみたんです。そうしたら、その恐怖が最大級になった。手鏡を落としそうになりました。何て恐ろしいことかと思いました。

 あれね、やっぱりあの実験をやっちゃう時点で、ややヤバくなっているんですよね。

――ここに「気づく」って凄いって思ったんですよ、鏡。「究極の自己との対話」というか。

 いや、そうなんですよ。このへんは、それこそまだ本で書き切れていない。脳科学の話にもたぶん繋がる話だろうし。じつは鏡の中の自分を覚えることで、自分の外見というのは成立している。たとえば、ひとりでボヤッとしている時、どこにも自分の顔は映っていないわけですよね。自分の外見って、じつは常に記憶でしかない。特に鏡の実験なんかやるとよく分かる。

――ちょっと戻ってこられなくなる感覚というか、何でしょうね。しかも、他者からこれほど注目をされている部分は、顔より他にない。他人のことは顔で認識するわけですしね。

 「連休」中の変な精神状態になっている時は、もう卒業アルバムとかが面白くて仕方ないわけですよ、「卒業アルバム」というフォーマットが。顔写真と名前がズラーッと並んでいること自体が。それこそ「生き物図鑑」みたいに見えてくる(笑)。そう見えちゃって、そう感じちゃう。どこを注目してもいいはずなのに、当たり前のように顔、肉体の顔の部位を自然と見る。しかも、ものすごく、そこにいろんな感情が出てくるわけじゃないですか。「可愛い」「カッコイイ」もそうですし。鏡の実験をやっていると、いわゆる美醜もゲシュタルト崩壊していく。ちっちゃい子どもが人間の顔を不思議そうに見ているみたいな感覚になってくる。

 普通の人の日常的な時って、人の顔を見ているようで実は見ていない。人の顔を見た時に起きる自分の感情の方に、実は意識が向いているんじゃないかと。自分の顔を鏡で見る時もそうですけど、見た瞬間に何か感情が動いていて、その感情と、見えている顔がごちゃごちゃになる。そのへんが、鏡の実験をやっていると徐々に分離されてくるんです。造形物を見ている感じで人の顔を見るようになってくる。もしかしたら、画家の視線ってこんなかなと。いったん、その感情の部分を置いておいて、どういう形になっているのかを虚心坦懐に見るというか。

「2000連休」後の生き方

――すごい話ですよね。これだけの年月をかけて物置にいなければ、たどり着かなかった。あと、驚いたのが、小学生の時の文集で、将来なりたいものに「正直者」って。もしかしたら、夢を叶えられたのではないですか。「正直者」という言葉についてご自身はどう捉えていますか。

 一番難しい質問かも知れない。

――僕などはとっても、正直だと思います。だって普通、「おかずランキング」って出さないでしょう。

 あははは(笑)。嘘とか正直というと、どうしても否定的な話になってくると思うんです。だから、すごく面白い気がしますね、人間の感覚として。じつは嘘をつきやすいジャンルみたいなのが結構決まっているのかな、と。自分は正直になれた、とは思ってはいないんです。

 「2000連休」の本っていうのは、人間関係をまず切ってしまっているわけです。最初に。人間関係を切っているからこそ、すごく噓のない、純粋なところにも行けているんですけど、「ああいうことを体験した後にどうするんだ」っていうのが、わりと自分の中でかなり切実になっているんです。結局、人間の世界にまた戻っていくしかない気はするし。……そのへんのバランス、すごく純粋な世界と、いわゆる人間の世界のバランスが崩れちゃうと、あんまり長く生きていけないんじゃないかな、っていう。

――その折り合いのつけ方を間違えると、本当に自分で命を縮めてしまいかねない。そういう意味で、カウンセリングのプログラムを受けるとか、そういうことも必要なのかな、と僕だったら思います。もし僕だったら、たぶん、「向こう側」に行ってしまう。上田さん、「かろうじてとどまっています」と言っておられるけれど、でも、「本当にとどまっているか」って、じつは誰にも分からない。

 はははは(笑)。そうです、そうです。「言い張っているだけ」っていう。

――確実に僕も連れていかれる、っていう緊張も、インタビュー前に実はあったんです。今回、26歳からの、ひとりの成人男性の貴重な6年間を、ご自身との対話、俯瞰、研究に費やしました。もう1回、こもってみる気はありますか。それとも、こんな生活はこりごりですか。

 うう……(しばし無言)、「もっとやらなきゃいけないのかな」とはちょっと思っています。「もっと」というのは、結局、杉松がいたり猫がいたりするっていうことが、ギリギリで心の支えになってしまっていた。文字を読むことを禁止する実験はしましたが、まだ徹底していない気がする。

――猫の毛玉と杉松さん、遠巻きの大家さんの存在が、ギリギリを踏みとどめてくれる。そこが絶妙だから、ページをめくれずにはいられない。

 杉松と猫、大家さんを消しちゃって、生活の部分を端折ってあの本を書くと、「私は目覚めました」「私は神様になりました」みたいな本になっちゃう(笑)。とはいえ「飯食って、排泄して」っていう日常は普通にあるだろう、みたいな部分を強調したい気持ちは常にあります。

――こんなカラフルで、かわいい猫ちゃんの装丁からは想像もつかない世界に誘われます。

 編集の方々の努力の賜物です。入口を「なるべくポップな感じにしよう」って。

――こんな、怒涛の展開にメンタルを抉られるとは。もう、一体どうしてくれるんですか(笑)。

 いやあ(笑)、面白いことを聞いていただいて。考えるきっかけになりました。