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finalventに関するitottoのブックマーク (107)

  • みじめさ - finalventの日記

    みじめさみたいなものが50歳になってもつきまとうとは思ってもいなかったな。ただ、それを言うなら、20歳過ぎても生きていると思っていなかったし、40歳の自分とか想像もつかなかった。でも、50歳になった。漱石の年齢も超えてしまった。そして、率直に思うのだけど、漱石は越えがたいとは当然思うけど、同時に漱石先生、幼いなとは思うようになった。 ネットにいると、どうしても罵倒というのは受ける。バカだとか、その他いろいろ修辞。でも、ようするに、お前バカだろ恥ずかしいなということなんだが、俺は自分はバカだと思っているし、恥ずかしい人間だなと思っている。 そこを克服しようとはあまり思っていないのが、また、別の人をいらだたせてしまうのかもしれない。 僕は、中学生・高校生のころ、亀井勝一郎もよく読んだ。今にして思うと亀井は浅薄な人だなという思いと、それはそれで立派な人としていいんじゃないかの二面があるにはある。

    みじめさ - finalventの日記
    itotto
    itotto 2008/05/05
    50超えた時にまた読む
  • 日経社説 国民の感覚を映した死刑判決 - finalventの日記

    また殺人事件の判決を一般国民はどうみているかを調べると「重い」は3%「妥当」は17%しかなく、「軽い」が80%に達した。 光市事件のような未成年者が犯した殺人では裁判官と一般国民の考える「適正な処罰」に相当大きな差がある、と推測できる調査結果だ。 死刑は憲法が禁止する「残虐な刑罰」にはあたらない、との判断を初めて下した48年の最高裁大法廷判決には「ある刑罰が残虐であるかどうかの判断は国民感情によって定まる」との補足意見がついている。 これを敷衍(ふえん)すれば、死刑適用を判断するには、裁判官は専門家の「量刑の適正感」でなく、国民の「何が適正な刑罰か」の感覚をくむべき、といえよう。さらに刑罰全般についても専門家の「適正感」が妥当か一般国民の感覚と常に照らし合わせる必要がある。裁判員制度を始める理由の1つがそこにある。 読み応えのある指摘だが、私の判断は保留なのでクリップ。

    日経社説 国民の感覚を映した死刑判決 - finalventの日記
  • 物騒な話題の雑感 - finalventの日記

    えっと、特にどうたらいう文脈でもないけど。 「動物化」というのはわからないといえばわからない。勉強が足りませんなこりゃというのは率直に認めるけど、対立する概念が「人間」であるなら、そういう人間は、フーコーじゃないけど終焉したのではないか。 近代が「人間」を作り出し、それが終焉して、管理化された動物的な存在が現れるということなのか、私としては、人間の終焉の後に出てきたのは、断片だと思う。知性や技術によって断片化した存在。あるいは経済によって断片化した存在。 かつては、というかルネサンス的な人間では、そうした断片を恋愛とかまさに人文みたいなもの、あるいはドイツ教養小説(ビルドゥングスロマン)みたいなもので統合された人間を描こうとした。でも、それはかなりもうダメなんじゃないか。 では、人間は断片化されっぱなしなのか。そこはよくわからない。というのはこれは技術=ゲシュテルという存在の開示と関係し

    物騒な話題の雑感 - finalventの日記
  • 行き先のないレス - finalventの日記

    メモ書きが残っていた。なんとなく。 甘えた言い方になってしまうのだけど、私たちはどう見てもいい大人なんですよね。そしてその大人枠でそれなりの役をこなしたり、あるいは若い人の各層からそれなりに役のようなものを受け入れる、ネットですら、そして私は爺とか。しかし、そうではないんですよね。自分も若いんだとか言うのじゃなくて、もっとそれなりに若い時と同じように世間や人にむかってヒリヒリと生きている。そういう部分が役みたいなもので相殺されてしまう。しかも、団塊世代のように、率直にいえば視野狭窄的に自己肯定もできないし。そのもどかしさみたいなものはありますよ。静かなダイアリではないけど、私たちの年になればそれなりに社会を見るけどそれでも、自分を見つめて考えなおすし、そういう部分で社会に妥協しない希望みたいなものも見るし。ちょっとうまく言えてないですが、そういう思いにどんと背中を押されることはありますね。

    行き先のないレス - finalventの日記
  • ちょっと違うけど - finalventの日記

    ⇒どこまでも続く道 - jkondoの日記 僕は見知らぬバスが来るとふと乗りたくなる。とくに、ある夕暮れの時間は堪えがたく、ほいっと乗ってしまって見知らぬ夜の街を眺める。

    ちょっと違うけど - finalventの日記
    itotto
    itotto 2008/02/13
    田舎でこれやると帰って来れなくなったりします(経験談)
  • そうでもないよ増田 - finalventの日記

    まあ、人生の失敗者である私が言うと逆効果もあるのだろうけど。 これね⇒若い頃に知っておけばよかった7(-1)つの当り前のこと うそをつかない。 これは意外と難しい。というのは、ぼんくらに生きている人間は自分が自分に嘘をついているという嘘が知覚できなくて、対人的な嘘に気が向いている。この場合、真理は自分がグリップしていると思う前提があるから、自我が肥大かするというか、微妙に発狂していく。 そうではなくて、自分が自分に嘘をついている部分を自分の弱さ小ささとしてこっそり認めていくほうがいい。 あと対人的な嘘については、これはできるだけつかないほうがいいのだけど、それはむしろ弱者の戦略として強いから。ネットだと耕作員とか頑張る。私はネットの耕作員にかなわない。彼らのほうが耕作技術上だし組織的。となると防衛の戦略は、私が自分を自分の敵にしないこと。心がやましいと動揺してしまうしそこが耕作の狙い目。嘘

    そうでもないよ増田 - finalventの日記
  • なんだろと思ったら - finalventの日記

    ⇒1ヶ月間だけ、思い切りがんばれば。 - Attribute=51 ⇒はてなブックマーク - 1ヶ月間だけ、思い切りがんばれば。 - Attribute=51 お若い人かな。 DISるわけではないが、ざっと読んで、なぜこんなぶくま人気なのかよくわからない。が、ぶくまについてはそういう傾向はあるので、そんなものかな。 こういうふうな心意気でうまく人のいるのだろうし、そういう人も多いのかもしれない。ただ、人生というのは個性化というある意味で難題があって、こういうディレクティブな一般解はうまくいかないことが多いと思う。 実際には、人生は無意識の大海を小舟にのってたゆとうようなもので、ちょっとトンデモな言い方になるが、向う側の自分の声を聴きながらどう生きるかということだろう。(意志というのは、また少し違った必要性はあるが、がんばるものではない。) あと、無意識というか身体的な臨界では、ゆったりとし

    なんだろと思ったら - finalventの日記