創建当時から西金堂内に安置されており、細部は天平時代のかなり早い時期の手法を用いて造られていることから、天平時代の建築技法を現在に伝え、塔の建築様式の発展をたどる上にも重要であること。建造物としての五重塔はこれ一基しか存在していないので、これらの点からこの小塔の価値が高く、昭和26年6月9日、国宝18号として指定を受けました。 小塔は屋内で安置することを目的とした為、近くから見たり拝んだりするので、近くから見た時の工芸的な性格を非常に重視しており、小塔の外部は組物などの細部にいたるまで忠実に作られています。 このことは寸法取りにも表れており、上層部にいくにしたがって塔身が細く作られていることから上層部と下層部の均整を重視した寸法取りを行っていることがうかがい知れます。 通常、寺院には高さが数十mの大きな五重塔があるのが一般的ですが、海龍王寺は飛鳥時代から建っていた寺院をもとに創建されたこと
こうおんじ もくぞうあみだにょらいりゅうぞう 種別 重要文化財(美術工芸品 彫刻) 所有者氏名 宗教法人 孝恩寺 所有者住所 貝塚市木積798 時代 平安時代後期(10世紀後半) 構造 一木造、彫眼、彩色 法量 像高 140.9センチメートル 指定年月日 昭和13年8月26日 木積(こつみ)の孝恩寺は、明暦元年(1655年)に孝恩上人によって創建された浄土宗知恩院末の寺院です。現在の本堂である観音堂(釘無堂)は、もとは深谷山観音寺という寺院の観音堂でしたが、大正3年(1914年)孝恩寺が合併し、昭和36年(1961年)より同寺の本堂となりました。観音寺は、奈良時代の神亀3年(726年)に行基(ぎょうき)によって開創されたとされる寺院ですが、天正13年(1585年)の羽柴(豊臣)秀吉による紀州攻めに際して伽藍(がらん)や持仏の大部分が焼失し、残された観音堂と持仏は木積村の人々によって守られて
今日は、高野山金剛三昧院の運慶作の愛染明王を拝んでから、根来寺に向かった。根来寺はとんでもなく大きく、往年の威容を想像させる国宝の多宝塔や大伝法堂など立派な堂宇が立ち並ぶ。根来衆は雑賀孫市率いる雑賀衆と共に鉄砲を使いこなし、織田信長や秀吉に脅威を感じさせた僧兵集団だが、根来寺の大日如来・金剛薩埵・尊勝仏頂座像はその兵火から逃れて今に伝わる、室町時代の仏像だ。金色に光輝く仏像は巨大な蓮弁の上に座っているので、あたかも蓮ごと宙に浮いているかのようである。体も腑太く、顔も大きく、とにかく力強い。背後の光背は丸でなく、金の延べ棒に似た光の線がにょきにょき飛び出す形で、なんだか宇宙からのメッセンジャーが今も浮いたままそこに存在している気がする。根来衆の心意気が伝わって、迫力に圧倒された。
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