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先日、最後の元老・西園寺公望のひ孫が日本人最初?の紅衛兵ではないか?と記事をかいた。 愚記事: 「みんなありがとう」 ぼくは..。日本人最初?の紅衛兵、最後は孔子さまに到る、あるいは公望の成果 違うかもしれない。 1966-1967年、北京には150人の日本人紅衛兵がいた、というのだ。 びっくり。 日本人が外国で同じ日本人に集団暴行をはたらく ―こんなことがあってもいいのだろうか。北京のいまの異常なふんいきがこういった”国籍不明”の人間をつくりだしてしまうのかもしれないが、わたしはつくづく考え込んでしまった。 北京の”日本人紅衛兵”というのは、日共と中共の蜜月時代に留学した学生たちで、元日共幹部子弟も多いという。短くて二、三年、長いのになると十年近くいるものもある。日本とほとんど縁がきれてしまったような連中が、北京で生活しようとすれば、中国人とおなじようにしなければ生きていけない。百五十
1950年代から1970年代初頭にかけて行われた学生運動に関し、世間一般ではどのような認識を示していたのかとの疑問が複数寄せられた。当時の映像資料は主に学生・運動家視点でとらえたもので、当時の状況をビジュアル的に認識するには十分なものではあるが、一般の人々の心境を知るには資料足りえないものがある。そこで今回は、以前【ネットで確認できる戦後からの内閣府の世論調査が面白い】でも取り上げた、内閣府の公式サイトから容易に検証が可能な、戦後の各種世論調査のうち、1968年(昭和43年)に実施された【学生運動に関する世論調査】から、その実情に探りを入れてみることにする。なお1968年といえばいわゆる東大紛争、日大闘争などが発生し、機動隊側でも多数の死傷者が生じている。また10月には新宿騒乱が起き、新宿駅などの機能がマヒし、騒乱罪が適用され多数の逮捕者も出ている。 今調査は1968年11月29日から12
「この施設(トルコ風呂=Turkish Bath)は、韓国軍による、韓国兵専用の慰安所(Welfare Center)である」。ベトナム戦争当時、韓国軍がサイゴン(現、ホーチミン市)などベトナム現地で旧日本軍慰安所と同様の性売買施設を運営していたのではないか? このような情況を示す記録を米国立文書保管所(NARA)で捜し出したというニュースが日本のマスコミを通じて報道され、世間の注目を集めている。 日本政府に慰安婦問題の解決をしつこく要求する韓国の努力に“焦点ボカシ”を図る疑いが濃厚な報道ではあるが、政府次元で関連内容を調査し関連内容が事実であることが確認されれば問題解決のための真剣な努力を始めなければならない。 関連報道を出したのは日本国内の嫌韓世論を主導する週刊誌、週刊文春4月2日付の春の特大号だ。記事を書いたのは東京放送(TBS)のワシントン支局長である山口敬之氏で、彼はこの記事を
中條氏は、陸軍士官学校(60期)時代に終戦を迎え、その後、旧制松本高校(現信州大学)、学習院大学で学んだ後、朝日麦酒(現アサヒビール)に入社され、常務取締役営業本部長として「アサヒスーパードライ」作戦による会社再生計画で大成功を収めた方である。その後、アサヒビール副社長、アサヒビール飲料代表取締役会長などを歴任された。私が出会ったのは3年前で、日本戦略研究フォーラムの会長としてであった。 陸士入学、共産党入党の共通点とは 中條氏とはいろいろな話をしたが、いちばん嬉しかったのは、「君が共産党に入党したのも、私が陸軍士官学校に入ったのも、思いは同じだ」という趣旨の話をしていただいたことだった。 私は1966年に18歳で共産党に入党したのだが、当時、「自分は何のために生まれてきたのか。自分など社会にとって不要な人間ではないのか」などと自分の存在意義を見つけることができず悶々としていた。そんな時に
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