人とはわからないもので、わたしは自分が孤独に弱いと思っていたけれど、いざ、一人になってみたら、滅法、強かったです。
さびしくないのではなく、さびしさをつらいとは思わない。…そんな感じです。
でも、それは、わたしがパソコンだとするなら、夫が生きていたころに動かしていた「常駐ソフト」を「停止」して、その残りのソフトだけでやっているから。
心の状態そのものが、そもそも違うのです。
だから、時々、「ああ、あんな心持ちで、この景色を見ていたなあ」と、その違いに驚くことがあります。
本にも書きましたが、夫といっしょに葬った「私」がいくつもあります。夫とはわたしが19歳のときからいっしょでしたから、「10代からの私」がずっと残っていましたが、もう、それを自然に表現できる相手はいません。だから、いくつかの「私」は死んでしまいました。
表立って、さびしくはないんですけれど、ときどき、記憶が改変されそうになります。
たとえば、昨夏、娘と那智勝浦に旅行したんですが、そのホテルの居酒屋に夫もいっしょにいた気がするのです。ホテルの浴衣を着て、どんな顔で、どんなふうに、あの椅子に座って上機嫌でいたか、どんなことを、どんな声で言ったか、はっきりと思い出すことができます。
同じように、うちの近所で見つけたおいしい居酒屋も、少し離れたところにある新しくオープンしたイタリアンレストランも。
夫の好きなお酒や料理のあるところに「夫といっしょにいた」と、はっきりと目に浮かべることができるんです。
きっと年とともに頭のなかで、この記憶が定着し、「現実にあったこと」になるのでしょう。
そして娘に「もう、何言うてんの。そのとき、パパはもう死んでたやろ!しっかりして」なんて言われるのでしょう。
ちっ、わかってないね。
そうやって心のなかで一緒に生きてきたってことさ。だから、一緒に行ってたんだよ、その場所に。
死者と生きるって、そういうことなんだなあと思います。それを、内省的な暮らしのなかでもっと膨らまして、味わい尽くして、わたしなりに「ともに生きて」いきたいというのが、今の願いです。
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