書評
『長江文明の発見―中国古代の謎に迫る』(角川書店)
覆い隠された最初の文明に新しい光
麦と米とどっちが生産性が高いかというと、答は米。麦とちがい連作ができるし、二毛作だって可能。味もいい。地球上で麦から米に変わった地域はあってもその逆はない、とも聞いたことがある。にもかかわらず、世界の文明は麦作地帯から生まれてきた、というようなイメージがなんとなく私たちにはある。本来、文明は、生産性の高いところ(米作地帯)に花開くはずなのに、どうしたことか。文明の母は米作じゃなくて麦作というイメージをアジアにおいて決定的にしてきたのは、古代中国についての歴史理解にちがいない。中国最初の殷(いん)・周の文明は、北の黄河流域の麦作地帯に生まれ、南の長江流域の米作地帯にはそれらしいものは芽吹かず、以後、ずっと中国の歴史は黄河流域にリードされる。
と、長らく思われてきたのだが、ここ十数年の長江流域の考古学の発掘が、こうした黄河・麦作優位のイメージを引っくり返してしまった。日中のさまざまな研究者によってこの覆水盆に返らぬ事態は語られはじめているが、このたびようやく良い入門書が刊行された。一読、気分爽快、気宇壮大。著者はまず、最新の発掘成果に基づいて、米作の起源を確認する。一時、雲南説もあったが、現在は、長江の中流と下流の境の辺で、一万二、三千年前に野生種が栽培されはじめ、下流へ上流へと広がった。麦の栽培とほとんど同時期に米作は開始されているのである。
ドラマはこの先。米作による富の蓄積が文明というかたちではじめて開花したのは紀元前三三〇〇~二三〇〇年の長江下流で、良渚(りょうしょ)文化が出現する。良渚のことはあれこれ紹介されてきているから耳にした読者も多いと思うが、備蓄された炭化米が地層をなすほど大量に発掘されたばかりか、東西六七〇メートル、南北四五〇メートル、高さ五~八メートルという広大な基壇の上に立つ木造の巨大な祭祀建築群があったことも明らかになってきた。
米だけでなく、絹織物、漆器、竹製品も高度に発達していた。青銅器はまだない新石器時代だから、石を磨いて加工することに精力が注がれ、玉器が発達し、世界の新石器時代最高の表現レベルに到達する。この段階ではまだ黄河流域に文明は生まれていない。
しかし、米作文明の最初の火は大洪水によって消える。それときびすを接して、黄河に最初の文明の火(夏)が灯り、殷、周へとつづくことになるが、ここで著者は大胆な仮説を出す。洪水を逃れた渚の連中が黄河流域に北上し、その刺激で夏が出現したのではないかと。著者は長江上流の四川の人である。
黄河に殷・周の文明が栄えていた時、長江はどうかというと、上流の四川で三星堆文明が栄えていた。と書いてしまったが、この文明の発掘が行われたのはつい十四年前にすぎない。考古学の醍醐味はバクチ性で、発掘が一つ当たると、世界四大文明の殷・周の王座だってうかうかしていられなくなる。近年の発掘によって、この地には殷の首都に優るとも劣らない城壁に囲まれた大きな都市が成立していたことが判明した。大量の青銅器と金製品、玉器、象牙、貝類(貨幣)が発見された。
驚くべきは青銅器で、台座を含め全長二六四センチの人物立像とか、高さ四メートルの神聖樹とか、殷・周の青銅器よりずっと大きい。表現力にも富んでいて、殷・周のものが器をデフォルメしたものであるのに対し、三星堆は人物とか動物とか樹とか神をテーマとしたブロンズ彫刻の域に達している。
こうした長江流域の米作に立脚する文明は、やがて蜀や呉や越の国につながってゆくのだが、しかし、結局、秦の始皇帝によって黄河の文明に併呑されてしまう。そして存在すら忘れられる。
なぜ、長江文明は黄河文明に負けたのか。考古本を読む楽しさは私説を自由にふくらませられることだから書くが、文字の力だと思う。長江文明は、経済力もあり芸術性に優れていたが、文字を生み出さなかった。正確に言うと初歩的な記号以上に出なかった。文字を発達させなかった文明としてはインカやマヤが知られているが、その墓と芸術的表現力にもかかわらず、結局、文字を持った連中にやられている。
文字を生む力は文明のどこにあるのか、文字を持つことで文明はどう変わるのか。思考はどんどんふくらむ。
著者は言う。
漢帝国の御用史家である司馬遷によって総括された『史記』こそが、黄河流域の中原支配を軸として展開した中国文明のイメージを作り、それを固定してしまった。
やはり文字の力に負けたのである。
負けたけれども、日本の人々は、今も、黄河の中国文明にはキツイものを感じ、長江流域の米と絹と漆と竹製品の文化の方に親しみを覚えるのである。
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