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現代アートなら何でも許されると思うなよ! - 純丘 曜彰 

アゴラ編集部

イラスト投稿サイトがもめている。「現代アート」をカタる連中が、投稿者たちの作品をここから拾い、かってにそれらの切り刻んで、もしくは、ただ水に濡らしただけで、自分の作品だ、と言い出し、それをサイト事務局も黙認していたからだ。そのうえ、新しい表現は世間の反発を買うものだ、理論武装すれば法律なんかいずれ変わる、などと、擁護するバカまで出てきた。昨年の首都大のドブス騒ぎではないが、「現代アート」を名乗れば、何でも許されると思うなよ!

これは、著作権の問題以前に、創造性の問題だ。事情のわからない方々のために、話を簡単に整理しておこう。

もともと芸術や文化の領域では、かつてはそのままの保存や複製の方法が多くはなかったのだから、伝承は、再現や再話、模写によって成り立っている。たとえば『風神雷神図』なんて俵屋宗達の原画(1467、国宝)に続いて、尾形光琳(1710、重要文化財)、酒井抱一(1821)など、いっぱい「模写」がある。ただし、「模写」は、物理的な「複製」(トレース(物理的ななぞり)や剥ぎ取り(和紙を表裏二枚に剥ぐ))ではないことを示すために、サイズを変えるのがルールだ。


そして、原作が明らかで、物理的な「複製」ではないなら、写真を含め、再現や再話、模写は「二次的著作物」の一種として、一応はその芸術的な地位が許容されている。(ただし、法的には、原作の著作権が生きている場合、公表には原作者の承諾承認が必要だ。)

ややこしいのは、「コラージュ(切り貼り)」の領域。単純なところでは、デュシャンの『LHOOQ』(1919)がある。これは、有名なダヴィンチの『モナリザ』にヒゲを書き足したもの。DJのスクラッチ(レコードの一部をリズムに合わせて繰り返す)なども、そうだ。これらも原作が明らかだからこそ成り立つもので、「フューチャリング」と呼ぶべきものだろう。

複数原作の「ニコイチ」もある。たとえば、『ササエボン』とか、『ドングリ黄門』とか。さらには、それこそデュシャンの『泉』(1917)のような「レディメイド」(既存品を持ってきただけ)もある。しかし、場違いなところに持ってきた、というアクションは、そこに彼のテーマ性があり、むしろ充分にアートだ。もちろん、これらは、法的には著作権上の同一性保持などに抵触する。それでも、「編集著作物」としての芸術的な創造性を認めないわけにはいくまい。

さて、近年、世界的に問題となっているのは、狭義の「コラージュ」、すなわち「マッシュアップ」。「デコンストラクション(脱構築)」や「優美な死骸」などと呼ばれることもある。これはもともとは既存の印刷物や他人の作品などを切り刻んで貼り付けて、新しいイメージを作り出す手法だが、山下清などの色紙の「ちぎり絵」と決定的に違うのは、「マッシュアップ」は、個々の断片に元のイメージが残っていないと成り立たない、という点。そうでなければ、わざわざその断片を使う理由も無い。

したがってその断片のひとつにでも著作権が生きていれば、法的にはアウト。ところがここには「編集著作物」としての芸術的な独創性が例外的に成り立つこともある。それは、時代全体へ郷愁や批判のような、個々の断片のイメージの意味をずらすほどの、強烈な別のテーマを打ち立て、そこにまとめ上げることができた場合だ。

とはいえ、芸術作品の断片の力は、なかなかあなどれない。俗に「4小節までなら、パクっても著作権上、問題ない」などと言われているが、法的にも、芸術的にも、まったくのウソだ。ビートルズの『ハードデイズナイト』など、最初のギターのジャンだけで曲の最後まで思い浮かべることができるほどの、完全な独創性がある。「秋の日ヰ゛オロンのためいきの」とか、「山路を登りながら、こう考えた」とか、詩の一節、小説の一文だけで、その全部がイメージされる。芸術において、部分は全体を表す、のだ。

近年、「マッシュアップ」は、パソコンの発達で、自動的にできるようになってしまった。音楽の場合、曲の速度を指定するだけで、1拍単位でばらばらにして、他の曲の断片と合わせて1曲をでっち上げるなど、ボタン操作ひとつ。最近は、あまりにも簡単に「作れる」ために、演奏のできない連中、絵や文の書けない連中が、この領域に大量に流入してきている。彼らは、能なしのワナビ(なりたがり)で、こんな順列組み合わせの自動処理でできたジグソーパズルのようなものを、自分の作品だ、と言い張る。(学者の論文なんかも、ちかごろそんなのばっかだ。)

だが、死骸や廃屋の再利用ならともかく、作ったばかりのイキのいい自分の作品をかってに切り刻まれ、他人の作品と混ぜ合わせられ、その盗人野郎に、オレが作った、などと言われる方は、たまったものではない。シロウトの「マッシュアップ」は、結局、断片の魅力を、そのままてんこ盛りに使っているだけ。そのうえ、その鮮度まで盗むなんて、卑怯千万。くやしかったら、 pixivに溢れているあのキラキラした色合いを、すこしは自分で作ってみせろよ。たとえアニメキャラだって、相当の思い入れがなかったら、あそこまで繊細には画けんよ。

「現代アート」をカタって世間を騙そうとする連中のやっていることは、どこかで買ってきたありものを詰め合わせて、高級おせち、と言い張ったインチキ焼き鳥屋と同じ。そのうえ、それが盗品だらけだなんて、許せるわけがない。ヘボい理屈でごまかそうったって、お天道様は許さないぜ! 何が魅力か、見りゃわかる。それがアートだ。

(純丘曜彰 大阪芸術大学芸術計画学科教授(哲学・美学)美術博士(東京藝術大学))