“戦争”と言えない人たち クルスク越境攻撃の現実

“戦争”と言えない人たち クルスク越境攻撃の現実
ウクライナ軍によるロシア西部クルスク州への越境攻撃。3か月あまりが経過し、今ではロシアと北朝鮮の部隊による本格的な作戦開始への警戒が強まっている。

越境攻撃で不意を突かれたロシア側では、これまでに13万人以上の民間人が避難を強いられた。

第2次世界大戦以来、初めてとも言われる外国軍による領土の掌握を、ロシアの人たちはどう受けとめているのか。

私は、ことし7月にモスクワに赴任するまで、ロシアの軍事侵攻で住む場所を追われたウクライナの人々を取材してきた。侵攻した国と侵攻された国では、当然、立場は異なる。

しかし、越境攻撃で避難を強いられたロシアの人々は、ウクライナの人々に共感できるようになるのではないか。この問題意識をきっかけに取材を開始した。

(モスクワ支局記者 渡辺信)

それは突然始まった

ウクライナ軍の越境攻撃。それは、私たちモスクワ支局の取材班にとっても突然の出来事だった。

ことし8月6日の夕方、支局のロシア人スタッフたちが驚いた様子で、口々に叫んだ。

「この発表はいつもと違うぞ!」

「大変なことが起きているかもしれない!」

ロシア国防省の発表文に記されていたのは、衝撃的な事実だった。
「モスクワ時間、本日午前8時、およそ300人のウクライナ軍兵士が、戦車11台、装甲車20台以上の後方支援を受けて、ウクライナとの国境に位置するクルスク州で国境警備隊の陣地を攻撃した」
ロシア領内にウクライナ軍が侵入し、攻撃を開始したというのだ。

スタッフたちが驚くのは、当然だった。これまでロシア国防省の発表といえば、基本的には、ロシア軍の進軍が順調であると強調するものばかりだったからだ。

見たことのある光景

翌7日。

事態を受けて開いた会合で、プーチン大統領は政権幹部たちにこう言い放った。

「ウクライナのゼレンスキー政権が、新たに大規模な挑発に乗りだした」

そして、クルスク州から避難する住民への支援に全力で取り組むよう指示した。これに呼応するかのように、ロシアのメディアは、越境攻撃から逃げる人々の姿を報じ始めた。

両手に持てるだけの荷物を抱えて避難用のバスに乗り込む男性。

子どもたちの手を引いて涙をこらえているような表情の女性。
避難所からの映像を見ると、非常事態省の制服を着た人たちが、炊き出しを行い、食料品や、歯ブラシなどの日用品が入った袋を配っていた。

やがて、ロシア各地から届いた支援物資を分類するボランティアの人たちの姿も報じられるようになった。

「これは、いつか見た光景ではないか」

私には、ウクライナや隣国のポーランドで、ロシアの軍事侵攻によって住む場所を追われた人々を取材していた時に見た光景が再現されているように感じられた。

配られていた袋の中身も、肉の缶詰や乾燥したマカロニなど、ほとんどウクライナで配られたものと同じだった。
もちろん、侵攻した国と侵攻された国では、立場は正反対だ。他国に一方的に侵攻した国を擁護することはできない。

しかし、越境攻撃を経験したロシアの人々は、ウクライナの人々に共感できるようになるのではないか。

やはり、これは、直接、話を聴くしかない。

クルスク州から避難した家族

ことし9月初旬になって、クルスク州から避難した家族に会えることになった。
彼らは首都モスクワから東におよそ50キロ離れたノギンスクという町のアパートで避難生活を送っていた。

アパートのドアをノックすると、母親のオリガ・テルティシニコワさん(42歳)が迎えてくれた。
客間と寝室、それに台所だけの質素なアパートに、家族4人が身を寄せていた。

息子で9歳のウラジスラフさんと、娘で8歳のソフィアさん。

アパートは、知り合いのつてで借りたもので、クルスク州を離れ、単身でモスクワ近郊で働いている夫のイーゴリさんも一緒だった。

家賃は月3万ルーブル。日本円にすると、およそ4万6000円。

オリガさんはクルスク州で教師として働いていたが、いまは、オンラインで時々授業を行うだけ。

避難したことで、安定した収入が見込めなくなったため、共働きとはいえ、いつまで家賃を払い続けられるかわからないと語った。

突然の越境攻撃

越境攻撃が始まるまで、オリガさんたち家族はクルスク州のノボイワノフカ村にある一軒家に住んでいた。

庭では野菜や果物を育て、ニワトリやアヒル、それに豚なども飼っていたという。ウクライナとの国境から8キロほどしか離れていなかった。

ウクライナ軍の越境攻撃が集落に迫ったのは、8月6日の夜だった。親類の女性が「ウクライナ軍が国境を突破したようだ」と電話で伝えてきたのだ。

ただ、避難しなければならないような事態になるとは考えもしなかったという。

ウクライナとの国境に近いこともあり、これまでもロシア軍とウクライナ軍の交戦による銃撃や砲撃の音は聞こえていたので、今回も聞こえてきたそうした音に危機感は覚えなかったのだ。
オリガさん
「夜だったので、とりあえず家にいることにしました。すると午前0時頃、突然、停電して、携帯電話も通じなくなりました」
その後、朝になっても、激しい銃撃の音や爆発音はやむことはなかった。空が明るくなった頃、爆発の衝撃で家の窓ガラスがあちこちで割れているのに気づいたという。

「これはただごとではない」と感じたオリガさんは、逃げる決断をした。

妹が運転する車に子どもたち2人を押し込むようにして乗せ、村を離れた。ほとんど着の身着のまま。持ち出せたのは、大事な書類や薬など、最低限のものだけだった。

ウクライナ軍に捕まる

車で避難を始めたオリガさんたち家族。しかし、すぐに戦闘に巻き込まれてしまった。

乗っていた車が銃撃を受け、飛び散った破片で、娘のソフィアさんが足にけがをしたのだ。車の窓ガラスも割れ、エンジンもかからなくなった。

オリガさんは、足首から血を流す娘をかばいながら車から脱出した。
オリガさん
「(車の中を見ると)血の海が広がっていました。
『撃たないでください。ここには民間人がいます。けがをした子どももいます』と叫びました」
車から脱出すると、ウクライナ軍の兵士たちが現れ拘束された。そして、ウクライナ軍とロシア軍の激しい戦闘が続く中、道路脇の街路樹の陰に連行された。

オリガさんは、ウクライナ兵に「子どもが足にけがをしているので、見逃してほしい」と懇願したが、拘束を免れることはできなかった。

それでも、なんとか娘の足に包帯を巻いてもらうことができたという。

拘束されている間も戦闘は続き、上空を戦闘機や無人機が飛んでいた。このとき、携帯電話や大事な書類などはウクライナ軍に没収されてしまった。

ただ、ウクライナ軍の兵士たちは、子どもたちに食べ物や水を分け与えてくれたという。
オリガさん
「アメリカ軍のものだという携行食をくれました。次にいつ食べられるかわからなかったので、私は、子どもたちに『食べなさい』と言いました」
その後、ウクライナ軍の兵士たちは、オリガさんたち以外にも拘束していたロシアの民間人をウクライナ領内に連行しようとした。

ウクライナ軍の兵士は「あなたたちをロシア軍に引き渡そうとしたが、無理だった」と言った。

このとき、オリガさんは「ウクライナ側に連行されれば、終わりだ」と思ったという。

「大事なのは生きていること」

絶望感に包まれていたとき、ウクライナ軍とロシア軍の兵士たちの無線のやり取りが聞こえ、やっと解放されることがわかった。

拘束されていた人たちの中には、けがをしていた人も多かったので、ウクライナ軍にはこれ以上、拘束する意味はなく、むしろ、戦闘を続けるためには邪魔な存在になったのではないか。オリガさんはそう感じたという。

そして、オリガさんたちは車に乗せられ、ウクライナ軍が掌握している地域からロシア軍の部隊がいる地域へと向けて移送が始まった。
しかし、途中で再び銃撃戦が始まり、立往生。

このとき、至近距離で爆発があったせいか、子どもたちは「耳が聞こえない、何も聞こえない」と何度も訴えた。そんな子どもたちに、オリガさんは「怖くないわよ。大事なのは生きていることだから」と言い聞かせたという。

子どもたちをかばいながら車から降りて道路脇に身を隠し、頻繁に飛来する無人機の音におびえ、生きた心地がしないまま、一夜を過ごした。

そして、翌日、モスクワ近郊で働いていた夫と連絡が取れ、迎えに来た夫の車で無事に避難することができたという。
オリガさん
「不思議ですが、奇跡的にうまくいきました」
足にけがをしていた娘のソフィアさんは、その後、病院で治療を受け、11日間入院することになった。

「“特別軍事作戦”をどう思いますか?」

まさに九死に一生を得たオリガさんたち家族。

避難生活が続く中、ロシアによるウクライナへの軍事侵攻について、いま何を思うのか。われわれはオリガさんに、最も聴きたかった質問を投げかけた。

「あなたはロシアが開始した“特別軍事作戦”についてどう思いますか?」
オリガさん
「ロシアがウクライナ東部のドネツクなどを支援し始めたことは、私は正しいと思っています。
しかし、ウクライナ軍の自国民への行動といったら…。ドネツクを攻撃しているではないですか。どうすれば、そんなことができるのでしょうか」
オリガさんは、ロシアの軍事侵攻を肯定した。

ウクライナ東部のドネツク州やルハンシク州などをロシアが一方的に併合したことは間違っていないという認識をカメラの前で語った。

ロシアがウクライナを侵攻し、その結果としてウクライナ軍の越境攻撃を招き、自分たちが避難を強いられてもなお、プーチン大統領の“特別軍事作戦”を支持したのだった。

取材を受けるかたわら、息子のウラジスラフさんは熱心に絵を描いていた。それは、ロシアの国旗をつけた戦車がウクライナの国旗をつけた戦車に砲弾を発射する場面だった。
オリガさん「上手に描けたわね。何を描いたの?」
ウラジスラフさん「ぼくたちの戦車がやっつけている」
オリガさん「ウクライナの戦車をやっつけているのね。よく描けているわ」
オリガさんたち家族も、軍事侵攻が始まる前はすぐ隣のウクライナと行き来していたし、首都キーウには親戚もいたという。

しかし、いまのオリガさんたち家族の姿は、私たち取材班に、ウクライナとロシアの人々の間に、克服しがたい心の壁が築かれてしまったという厳しい現実を突きつけていた。

取材を通じて

ウクライナ軍による越境攻撃で、住み慣れた土地を追われたロシアの人々はウクライナの人々に共感できるのではないか。そう考えて取材を開始したが、目の前の現実は、私が「そうあってほしい」と願っていただけだったという事実を浮き彫りにしたに過ぎなかった。

今回、取材に応じてくれたオリガさんは、「戦争」、「軍事侵攻」、「軍」といった単語を、意図的かどうかはわからないが、注意深く避けるように話し、「それ」とか「あれ」といった言葉を多く使った。

そこには、プーチン政権がウクライナへの軍事侵攻は「戦争」ではなく、あくまで「特別軍事作戦」だとしていることがあるからではないか。

教師でもあるオリガさんだけに、その慎重さが、今のロシア社会で生きる難しさを暗に語っているようにも思えた。
ここにことし8月から10月までの世論調査の結果がある。

ロシアの独立系世論調査機関「レバダセンター」が行ったものだ。「レバダセンター」は、プーチン政権から「外国のスパイ」を意味する「外国の代理人」に指定され、圧力を受けながらも独自の世論調査活動や分析を続けている。

越境攻撃が始まった直後の、ことし8月の調査結果では「プーチン大統領を支持する」と答えた人の割合は85%と、それまでと比べてもほぼ横ばいだった。

そして、9月、10月の調査結果。

「プーチン大統領を支持する」と答えた人の割合はそれぞれ84%、87%で、これもまた、ほぼ横ばい。越境攻撃があった以降も、プーチン大統領への高い評価が揺らいでいないことを示している。
ただ、モスクワに住む人々の中には「今後は、ウクライナによる無人機などでの攻撃も増えるかもしれない」などと話し、ウクライナ国境周辺で起きていることを「自分ごと」だと捉え始めている人もいることは確かだ。

クルスク州の人々からも「越境攻撃が始まったとき、行政からの避難の指示が行き渡らず、多くの住民は自分たちで判断して避難した」とか、「越境攻撃でけがをした人に支払われるはずの見舞金などが支払われないままだ」といった不満が聞こえてきた。

モスクワで生活していると、軍事侵攻に対して疑問を抱いている人ほど、注意深く言葉を選んで話す傾向があるように感じられる。

驚いたことがあった。

それは、私と話す時に、私の胸ポケットに入った携帯電話を指さし「別の部屋に置いてきてほしい」と言う人がいたことだ。

最初は冗談かと思ったが、その人は真剣で、携帯電話が遠隔操作され会話が盗聴されるのを警戒していたのだ。

日々の取材や日常生活の中で人々が語ってくれる不安や不満は、世論調査からは読み取れない。だからこそ、調査には現れにくいロシアの人々の“声”に耳を傾けていきたい。
(9月17日 BS国際報道で放送)
モスクワ支局
記者 渡辺 信
2004年入局 釧路局 サハリン 福島局 政治部 ヨーロッパ総局などをへて現所属
ロシアの軍事侵攻直後からウクライナ情勢を取材
9歳から12歳までモスクワで過ごし、大学時代は交換留学生としてウズベキスタンで学んだ