“笑い”が封じられた時代 落語家たちは名作を葬った
「禁演落語」ということば、聞いたことがあるでしょうか?
戦時中に封印されていた53にのぼる落語の演目のことをこう呼びます。
戦争が終わり、封印が解かれて78年。
いまもこれらの演目を語り継ぐ落語家たちの思いを取材しました。
(映像センター 阿部徹)
戦時中に封印されていた53にのぼる落語の演目のことをこう呼びます。
戦争が終わり、封印が解かれて78年。
いまもこれらの演目を語り継ぐ落語家たちの思いを取材しました。
(映像センター 阿部徹)
“不謹慎”として封印された演目
ことし8月、東京・浅草演芸ホールで開かれた落語会。
「半ちゃんの股ぐらで、アオダイショウが狙ってます」
主人公の男が風呂屋で自慢のふんどしを締めることを忘れ、そのまま舞台に出て格好をつけてしまう『蛙茶番』。
「自分の女房を取られちまうような、そんな間抜けな野郎にそこまでは気が付かないだろ」
目の前の男が自分の妻の不倫相手とは気付かず、男の恋の相談にのってしまう『紙入れ』。
披露されたのは、いずれもいわゆる“下ネタ”や“色恋沙汰”などが含まれ、戦時中は「禁演落語」として封印されていた演目です。
太平洋戦争に向かっていたころの日本では、カレーライスを「辛味入り汁かけ飯」、サイダーは「噴出水」、楽器のサックスは「金属製曲がり尺八」と無理やり言いかえて、敵国のことばを使わないようにするなど、日常生活への締めつけが厳しくなっていました。
芸能の分野でも、映画界では「恋」や「愛」の文字がついたタイトルは不謹慎だと変更を余儀なくされ、喜劇にも検閲が入り、上演を中止させられていました。
こうした中、落語存続の危機を感じた当時の落語家たち。
大きな寄席の経営者、評論家らと集まり、演目を「甲」「乙」「丙」「丁」の4つに分類しました。
そして、一番下の「丁」のランクに分類された、廓噺(くるわばなし)や色恋を扱ったもの、それに残酷なはなしなどを、時局にそぐわない不謹慎なものとして、国から規制が入る前に「禁演落語」と定め、自主規制したのです。
その数53演目。
中には、江戸文芸の名作『明烏』・『五人廻し』・『木乃伊取り』なども含まれていました。
芸能の分野でも、映画界では「恋」や「愛」の文字がついたタイトルは不謹慎だと変更を余儀なくされ、喜劇にも検閲が入り、上演を中止させられていました。
こうした中、落語存続の危機を感じた当時の落語家たち。
大きな寄席の経営者、評論家らと集まり、演目を「甲」「乙」「丙」「丁」の4つに分類しました。
そして、一番下の「丁」のランクに分類された、廓噺(くるわばなし)や色恋を扱ったもの、それに残酷なはなしなどを、時局にそぐわない不謹慎なものとして、国から規制が入る前に「禁演落語」と定め、自主規制したのです。
その数53演目。
中には、江戸文芸の名作『明烏』・『五人廻し』・『木乃伊取り』なども含まれていました。
自主規制した落語家たち 切実な事情
浅草演芸ホールから歩いて10分ほどのところにある本法寺。
ここに「はなし塚」という石碑があります。
昭和16年、当時の落語家たちは「禁演落語」の台本をこの塚に納め、法要をあげて封印しました。
ここに「はなし塚」という石碑があります。
昭和16年、当時の落語家たちは「禁演落語」の台本をこの塚に納め、法要をあげて封印しました。
演芸評論家の長井好弘さん。
落語家たちが、みずから先手を打って53の演目を自主規制したことは、国による落語全体への規制を避け、食いぶちをなくさないための知恵だったと話します。
落語家たちが、みずから先手を打って53の演目を自主規制したことは、国による落語全体への規制を避け、食いぶちをなくさないための知恵だったと話します。
演芸評論家 長井好弘さん
「落語の三大テーマは飲む・打つ・買うですから、戦争にとても協力なんてできない。時節柄、こんな落語をやったらやばいんじゃないのというようなネタを『もうやりません』と指定した。当局とか軍部とかが『やるな』と言ったわけじゃなく、落語家さんたちのほうから『これだけやらないから他の落語は許してね』と、そういう自主規制だったわけです」
「落語の三大テーマは飲む・打つ・買うですから、戦争にとても協力なんてできない。時節柄、こんな落語をやったらやばいんじゃないのというようなネタを『もうやりません』と指定した。当局とか軍部とかが『やるな』と言ったわけじゃなく、落語家さんたちのほうから『これだけやらないから他の落語は許してね』と、そういう自主規制だったわけです」
「禁演落語」を語り継ぐ
終戦後の昭和21年、「禁演落語」は封印を解かれました。
そして、戦争と落語をめぐる歴史を語り継ぎ、忘れてはならないという思いから、2003年以降、毎年8月に開かれているのが冒頭で紹介した「禁演落語の会」です。
ことしは、戦時中を知るベテランから平成生まれの若手まで12人の落語家が参加しました。
そして、戦争と落語をめぐる歴史を語り継ぎ、忘れてはならないという思いから、2003年以降、毎年8月に開かれているのが冒頭で紹介した「禁演落語の会」です。
ことしは、戦時中を知るベテランから平成生まれの若手まで12人の落語家が参加しました。
三遊亭遊三さん。
「禁演落語の会」が始まった当初から参加しています。
御年86歳。
ことしの参加者の中で唯一、戦争真っただ中で幼少期を過ごした世代です。
高座に上がった遊三さんは、開口一番、お客さんを前に平和に対する思いを語りました。
「禁演落語の会」が始まった当初から参加しています。
御年86歳。
ことしの参加者の中で唯一、戦争真っただ中で幼少期を過ごした世代です。
高座に上がった遊三さんは、開口一番、お客さんを前に平和に対する思いを語りました。
三遊亭遊三さん
「人間が人間じゃなくなっちゃう。戦争ってのはねそういうむごいもんでね。こういう演目が禁演だったと、そういう意味で味わっていただければ幸いでございます。そういう時代が二度と来ないように念じながら毎年やらせていただいております」
「人間が人間じゃなくなっちゃう。戦争ってのはねそういうむごいもんでね。こういう演目が禁演だったと、そういう意味で味わっていただければ幸いでございます。そういう時代が二度と来ないように念じながら毎年やらせていただいております」
遊三さんは昭和13年に浅草で生まれました。
太平洋戦争で空襲が激しくなると、親元を離れ、群馬の寺で学童疎開の生活を送りました。
当時は食べ物が無く、食事はおわんにうどん粉を丸めたすいとんが1、2個だけ。
育ちざかりの遊三さんは、近くの畑で桑の実を食べたり、時には雑草も食べたりして飢えをしのいだと話します。
太平洋戦争で空襲が激しくなると、親元を離れ、群馬の寺で学童疎開の生活を送りました。
当時は食べ物が無く、食事はおわんにうどん粉を丸めたすいとんが1、2個だけ。
育ちざかりの遊三さんは、近くの畑で桑の実を食べたり、時には雑草も食べたりして飢えをしのいだと話します。
三遊亭遊三さん
「ガリガリにやせ細って。ときどき父兄が自分の子どもに面会に来るんですよ。大豆を炒ったものを袋に入れて持ってくる。それを先生がみんなに分けてくれたけどね、スプーンに1杯ずつぐらいかな。その豆をね、2つに割るんですよ。どういうことかって言うと、2つに割ることによって口へ運ぶ回数が増える。子どもの知恵ですかね。そんなことをしてました」
「ガリガリにやせ細って。ときどき父兄が自分の子どもに面会に来るんですよ。大豆を炒ったものを袋に入れて持ってくる。それを先生がみんなに分けてくれたけどね、スプーンに1杯ずつぐらいかな。その豆をね、2つに割るんですよ。どういうことかって言うと、2つに割ることによって口へ運ぶ回数が増える。子どもの知恵ですかね。そんなことをしてました」
戦時中は生きることに必死で、笑うことなどなかったと話す遊三さん。
終戦を迎え、8歳の頃に浅草で喜劇映画を見たとき、はじめて腹を抱えて大笑いすることができたと言います。
終戦を迎え、8歳の頃に浅草で喜劇映画を見たとき、はじめて腹を抱えて大笑いすることができたと言います。
三遊亭遊三さん
「戦後、浅草でチャップリンの『黄金狂時代』を見て、まあ腹から笑ったですね。笑いっていいもんだなとその時、思いました。心配事がないのがいちばんでしょう。心配なことがあったら笑えないからね」
「戦後、浅草でチャップリンの『黄金狂時代』を見て、まあ腹から笑ったですね。笑いっていいもんだなとその時、思いました。心配事がないのがいちばんでしょう。心配なことがあったら笑えないからね」
平和だからこそ笑いがある
笑いの尊さ、大切さを感じたことがきっかけで、遊三さんは落語家を目指しました。
そして昭和30年、17歳で四代目三遊亭圓馬に入門。
入門後は、戦争を知る多くの師匠のもとへ出向き、落語の稽古をつけてもらいました。
なかでも、「昭和の大名人」と呼ばれた六代目三遊亭圓生は遊三さんにとって大きな存在でした。
そして昭和30年、17歳で四代目三遊亭圓馬に入門。
入門後は、戦争を知る多くの師匠のもとへ出向き、落語の稽古をつけてもらいました。
なかでも、「昭和の大名人」と呼ばれた六代目三遊亭圓生は遊三さんにとって大きな存在でした。
遊三さんが入門からわずか9年で真打ち昇進を果たした裏には、当時、別の落語団体の会長だった圓生の異例の後押しがあったと話します。
その真打ち昇進の際に、みずから襲名したいと決めていたのが「三遊亭遊三」という名前でした。
先代の二代目三遊亭遊三は、戦前から、旧満州で活躍した落語家でした。
体に豆電球をつけて踊る「電気踊り」で人気を集め、潰れかかっていた寄席を立て直したと聞いていました。
困難な状況の中、人々を笑わせ、かけがえのない寄席の場を守った魅力に感銘を受け、その名を継ぎたいと決意しました。
「はなし塚」の碑文にもその名を連ね、戦前から戦後にかけて落語の灯をともしつづけた大名人・圓生や「笑い」の場所を守った二代目の遊三。
落語の伝統を守った多くの師匠たちへの思いが、遊三さんを突き動かしてきたのです。
その真打ち昇進の際に、みずから襲名したいと決めていたのが「三遊亭遊三」という名前でした。
先代の二代目三遊亭遊三は、戦前から、旧満州で活躍した落語家でした。
体に豆電球をつけて踊る「電気踊り」で人気を集め、潰れかかっていた寄席を立て直したと聞いていました。
困難な状況の中、人々を笑わせ、かけがえのない寄席の場を守った魅力に感銘を受け、その名を継ぎたいと決意しました。
「はなし塚」の碑文にもその名を連ね、戦前から戦後にかけて落語の灯をともしつづけた大名人・圓生や「笑い」の場所を守った二代目の遊三。
落語の伝統を守った多くの師匠たちへの思いが、遊三さんを突き動かしてきたのです。
遊三さんは、ことしの「禁演落語の会」の10日間の日程すべてで、トリを務めました。
初日に演じたのは、30年ほど前に十代目桂文治から稽古をつけてもらった『蛙茶番』。
初日に演じたのは、30年ほど前に十代目桂文治から稽古をつけてもらった『蛙茶番』。
画像をクリックすると、三遊亭遊三さんの『蛙茶番』の動画をご覧いただけます。
素人芝居のドタバタが題材の『蛙茶番』は、いわば“下ネタ”です。
自慢のふんどしを締めることを忘れて舞台に立ってしまう男のはなしを、86歳の遊三さんが全力で演じきり、会場は爆笑の渦に包まれました。
三遊亭遊三さん
「笑いは人間だけが持っている特権。だから、これは大事なもんです。当時の地獄といいますか、戦争の犠牲になった多くの皆さんの悲しい思い、その上に今の繁栄があるわけですからね。その悲しい無念な思いを忘れてはいけない。戦争が風化しないように『禁演落語』を続けていきたいなと」
「笑いは人間だけが持っている特権。だから、これは大事なもんです。当時の地獄といいますか、戦争の犠牲になった多くの皆さんの悲しい思い、その上に今の繁栄があるわけですからね。その悲しい無念な思いを忘れてはいけない。戦争が風化しないように『禁演落語』を続けていきたいなと」
世代を継いで
二つ目の落語家・三遊亭吉馬さん(35)は、4年前から「禁演落語の会」に参加しています。
当初は、特に強い思い入れがあったわけではありませんでした。
当初は、特に強い思い入れがあったわけではありませんでした。
三遊亭吉馬さん
「こちらの会に入れていただいたのは、事務局の方が、『ことしから吉馬さんどうかな?』っていうふうに声をかけてもらって。出番もらえるんだったらと思って」
「こちらの会に入れていただいたのは、事務局の方が、『ことしから吉馬さんどうかな?』っていうふうに声をかけてもらって。出番もらえるんだったらと思って」
当時、吉馬さんが持っていた「禁演落語」の演目は『悋気の独楽』1つだけでした。
三遊亭吉馬さん
「最初はとにかく、1つしか持ってなかったんで、どうやってこれでやりくりしようっていう…」
「最初はとにかく、1つしか持ってなかったんで、どうやってこれでやりくりしようっていう…」
しかし、吉馬さんは、会に参加し、客の前で披露する中で、「禁演落語」により真剣に向き合おうと思うようになりました。
三遊亭吉馬さん
「これが本当になくなっちゃってたっていうことに思いをはせると、それはすごくもったいないことだなと思うし、この程度の落語もできなかったのか、楽しみを奪われちゃったのかっていうことを考えると、戦争の恐ろしさを感じました」
「これが本当になくなっちゃってたっていうことに思いをはせると、それはすごくもったいないことだなと思うし、この程度の落語もできなかったのか、楽しみを奪われちゃったのかっていうことを考えると、戦争の恐ろしさを感じました」
以来、本やインターネットなどで戦争について調べたり、禁演落語に関する文献を読んだりするようになりました。
そして、毎年1つずつ新たな禁演落語の演目を覚え、会で披露することを決めました。
そして、毎年1つずつ新たな禁演落語の演目を覚え、会で披露することを決めました。
毎年、会の前には「はなし塚」を1人で訪ねるという吉馬さん。
三遊亭吉馬さん
「われわれにつながっていると考えると、とても意味のある大事な場所だと思います。当たり前のことが当たり前にできなくなってしまった時がいちばん恐ろしい。当たり前がどういった人の頑張り、あるいは自分たちの関わり方で成り立っているのかを自分の中で考えてみようというのが大事なんだなと思います」
「われわれにつながっていると考えると、とても意味のある大事な場所だと思います。当たり前のことが当たり前にできなくなってしまった時がいちばん恐ろしい。当たり前がどういった人の頑張り、あるいは自分たちの関わり方で成り立っているのかを自分の中で考えてみようというのが大事なんだなと思います」
吉馬さんが、ことし披露しようと、新たに覚えた演目が『後生うなぎ』です。
『後生うなぎ』は、残酷な演目だとして「禁演落語」に指定されていました。
『後生うなぎ』は、残酷な演目だとして「禁演落語」に指定されていました。
画像をクリックすると、三遊亭吉馬さんの『後生うなぎ』の動画をご覧いただけます。
『後生うなぎ』
ある信心深い隠居が、うなぎ屋の前を通りがかったところ、今にもさばかれそうになっているうなぎを見て、「殺生を見逃すわけにはいかない」と、そのうなぎを買い取り、川へ逃がします。
店を通りがかるたび、買い取っては川へ逃がしを繰り返し、うなぎ屋も仕事をせずにお金をもらえることに味をしめていきます。
そんなある日、隠居が店に来ましたが、ちょうど、うなぎをきらしていたうなぎ屋。
生きているものなら何でもいいと、赤ん坊をまな板の上へ載せて包丁を振りかざし、さばくふりをします。
いつものように、うなぎを買い取る要領で赤ん坊を手にした隠居。
「次に生まれてくるときは、あんな両親のもとへ生まれてくるんじゃないぞ」と、赤ん坊を川へ放り込んでしまいます。
ある信心深い隠居が、うなぎ屋の前を通りがかったところ、今にもさばかれそうになっているうなぎを見て、「殺生を見逃すわけにはいかない」と、そのうなぎを買い取り、川へ逃がします。
店を通りがかるたび、買い取っては川へ逃がしを繰り返し、うなぎ屋も仕事をせずにお金をもらえることに味をしめていきます。
そんなある日、隠居が店に来ましたが、ちょうど、うなぎをきらしていたうなぎ屋。
生きているものなら何でもいいと、赤ん坊をまな板の上へ載せて包丁を振りかざし、さばくふりをします。
いつものように、うなぎを買い取る要領で赤ん坊を手にした隠居。
「次に生まれてくるときは、あんな両親のもとへ生まれてくるんじゃないぞ」と、赤ん坊を川へ放り込んでしまいます。
三遊亭吉馬さん
「お客さんからすると、ちょっとギョッとするような感じがするんですが、信心をしているご隠居さんが最後の最後、まわりが見えなくなっているというか、凝りすぎるというのか、どんどん自分の中の思考が偏っていくところがこの話の良いところ、私が好きなところですね」
「お客さんからすると、ちょっとギョッとするような感じがするんですが、信心をしているご隠居さんが最後の最後、まわりが見えなくなっているというか、凝りすぎるというのか、どんどん自分の中の思考が偏っていくところがこの話の良いところ、私が好きなところですね」
憧れの遊三さんの前で、新たに覚えた『後生うなぎ』を披露した吉馬さん。
この演目は、うなぎ屋と隠居の切り替えの「間」(ま)が難しいと言います。
公園などを歩きながら、習った師匠の音源をイヤホンで聞き、師匠の「間」に近づけようと、繰り返し稽古してきました。
師匠たちが守り伝えてきた落語を、受け継ぎ、演じ続けたい。
吉馬さんの思いです。
この演目は、うなぎ屋と隠居の切り替えの「間」(ま)が難しいと言います。
公園などを歩きながら、習った師匠の音源をイヤホンで聞き、師匠の「間」に近づけようと、繰り返し稽古してきました。
師匠たちが守り伝えてきた落語を、受け継ぎ、演じ続けたい。
吉馬さんの思いです。
三遊亭吉馬さん
「ふだんでしたら、こんなブラックジョークを発表するような場所ってなかなかないと思いますが、こういったものも表現の1つとして大事にしていきたい。戦争が終わって復活させたものを、われわれの世代が受け継いで、これからもやり続けることによって、古典落語のリレーというものを継承していきたいと思います」
「ふだんでしたら、こんなブラックジョークを発表するような場所ってなかなかないと思いますが、こういったものも表現の1つとして大事にしていきたい。戦争が終わって復活させたものを、われわれの世代が受け継いで、これからもやり続けることによって、古典落語のリレーというものを継承していきたいと思います」
「国策落語」祖父が作った“面白くない”落語を演じる
戦時中、封印された落語がある一方で、戦意高揚のためにさかんに作られ、寄席やラジオを通して演じられた落語があります。
「国策落語」です。
「国策落語」です。
「何とも美しい国じゃないか」「若旦那の出征祝いだ」
「この倅(せがれ)はお国のために役に立つんだ、私の心は日本晴れだ」
「一升瓶を2本買った、2本買った、日本勝った」
「この倅(せがれ)はお国のために役に立つんだ、私の心は日本晴れだ」
「一升瓶を2本買った、2本買った、日本勝った」
この演目『出征祝』は大商店の若旦那に召集令状が届き、大旦那や番頭たちが盛大に送り出そうとするはなしで、作者は七代目林家正蔵。
「国がやれと言ったはなし、大本営がやれと言ったはなしをやり始めたんです。それが『国策落語』ですからね。ですから、まるっきり面白くないです。まったく面白くない」
そう語るのは、正蔵の孫の林家三平さんです。
三平さんは祖父が作った「国策落語」を披露し続けています。
戦時中はこのような落語しか聞くことができず、とても笑える内容ではなかったということを体験してほしいと、当時の演目をそのままに再現しています。
三平さんは祖父が作った「国策落語」を披露し続けています。
戦時中はこのような落語しか聞くことができず、とても笑える内容ではなかったということを体験してほしいと、当時の演目をそのままに再現しています。
林家三平さん
「当時のことを分かっていただくためにリアルに再現させていただきました。ですから、通じない面がすごくたくさんあります。人間が『業』と『欲』で失敗するさまを描くのが落語の面白いところですが、そういうものが一切なくなってしまって、『お国のために』とすべてを美化させるっていう、そっちにベクトルを向けるって作業は納得しないでやっていたと思います。うちのおじいさんは8月15日以降、このはなしは一切やっていません」
「当時のことを分かっていただくためにリアルに再現させていただきました。ですから、通じない面がすごくたくさんあります。人間が『業』と『欲』で失敗するさまを描くのが落語の面白いところですが、そういうものが一切なくなってしまって、『お国のために』とすべてを美化させるっていう、そっちにベクトルを向けるって作業は納得しないでやっていたと思います。うちのおじいさんは8月15日以降、このはなしは一切やっていません」
画像をクリックすると、林家三平さんの『出征祝』 のノーカット動画をご覧いただけます。
三平さんは「国策落語」を語り継ぐことで、平和な時代が長く続くことを願っています。
林家三平さん
「今、逆にこのはなしを全国の方に聞いていただいて、こういう時代になっちゃうかもしれないよっていうことを改めて考えていただいたらありがたいかなと思いますね。吉原のはなしや泥棒さんのはなしで笑えたり、ほんわかしたはなしで笑えたりする時代がずっと永久に続くことが幸せだよねっていうことを分かっていただけたらいいかなって思います」
「今、逆にこのはなしを全国の方に聞いていただいて、こういう時代になっちゃうかもしれないよっていうことを改めて考えていただいたらありがたいかなと思いますね。吉原のはなしや泥棒さんのはなしで笑えたり、ほんわかしたはなしで笑えたりする時代がずっと永久に続くことが幸せだよねっていうことを分かっていただけたらいいかなって思います」
終戦を迎え、空襲で壊滅状態にあった寄席が次々と復活し、戦争に行っていた落語家たちが戻ってきた昭和21年。
「はなし塚」の前で禁演落語復活祭を行い、53演目は掘り起こされ、再び日の目を見ました。
その時、かわりに「はなし塚」に納められたのが、戦時中に演じられた「国策落語」の台本だったと伝えられています。
「はなし塚」の前で禁演落語復活祭を行い、53演目は掘り起こされ、再び日の目を見ました。
その時、かわりに「はなし塚」に納められたのが、戦時中に演じられた「国策落語」の台本だったと伝えられています。
取材を振り返って
今回の取材を始めるにあたり、私は本法寺の「はなし塚」を訪れました。
一歩足を踏み入れて感じたのは静寂かつ荘厳な雰囲気でした。
「禁演落語」の歴史で重要な場所である「はなし塚」。
セミの声と風に揺れる木々のざわめきだけが聞こえるその場所は、都会の片隅にあって、まるで当時から時間が止まっているかのような空間でした。
寺の方から「空襲で焼け野原になっても『はなし塚』は焼け残ったのよ」と当時の写真を見せていただき「禁演落語」の歴史を全身で感じました。
当時の落語家の方々が落語の存続のために必死に知恵を絞って考え抜き、先手を打って53演目を自主規制した、その物語に私は心を揺さぶられました。
一歩足を踏み入れて感じたのは静寂かつ荘厳な雰囲気でした。
「禁演落語」の歴史で重要な場所である「はなし塚」。
セミの声と風に揺れる木々のざわめきだけが聞こえるその場所は、都会の片隅にあって、まるで当時から時間が止まっているかのような空間でした。
寺の方から「空襲で焼け野原になっても『はなし塚』は焼け残ったのよ」と当時の写真を見せていただき「禁演落語」の歴史を全身で感じました。
当時の落語家の方々が落語の存続のために必死に知恵を絞って考え抜き、先手を打って53演目を自主規制した、その物語に私は心を揺さぶられました。
毎年、新しい「禁演落語」を覚えて披露している吉馬さん。
テレビやネット、本を通して戦争についての知識を深めていますが、みずからの家族が経験した戦争の歴史についても「知りたい」と思う気持ちが強くなったと言います。
テレビやネット、本を通して戦争についての知識を深めていますが、みずからの家族が経験した戦争の歴史についても「知りたい」と思う気持ちが強くなったと言います。
三遊亭吉馬さん
「私が生まれる前に亡くなってしまった祖父に正直聞いてみたいことは山ほどあるんですけど、やっぱり戦時中のことだったりとか、なかなかね、口に出したくないようなこともたぶん多いでしょうけど。あとは戦後、頑張って復興していった日本の中でどういった生活をしていたのかを聞いてみたかったですね。戦争に対しても決してひと事ではなく当事者意識を常に持つことが大事だと思っています」
「私が生まれる前に亡くなってしまった祖父に正直聞いてみたいことは山ほどあるんですけど、やっぱり戦時中のことだったりとか、なかなかね、口に出したくないようなこともたぶん多いでしょうけど。あとは戦後、頑張って復興していった日本の中でどういった生活をしていたのかを聞いてみたかったですね。戦争に対しても決してひと事ではなく当事者意識を常に持つことが大事だと思っています」
そして、戦争の真っただ中で幼少期を過ごした遊三さん。
インタビュー撮影のため、隅田川へと向かう道中の何気ない会話の中で、新型コロナの影響でそれまで寄席に来ていた80代以上のお客さんが、めっきり少なくなってしまったこと、そうした中でも、落語家を目指す若い人たちが、師匠たちを出待ちして弟子入りをお願いする風景は昔と変わらないことなど、70年ちかい芸歴の中で見てきた落語界の移り変わりを話してくれました。
そんな遊三さんからいちばん教えていただいたのは、当たり前に笑えることの尊さ、大切さです。
現代の私たちは、自由に落語を聞き、自由に笑うことができますが、戦時中は生きることに必死で笑いあえる雰囲気ではなかった。
インタビュー撮影のため、隅田川へと向かう道中の何気ない会話の中で、新型コロナの影響でそれまで寄席に来ていた80代以上のお客さんが、めっきり少なくなってしまったこと、そうした中でも、落語家を目指す若い人たちが、師匠たちを出待ちして弟子入りをお願いする風景は昔と変わらないことなど、70年ちかい芸歴の中で見てきた落語界の移り変わりを話してくれました。
そんな遊三さんからいちばん教えていただいたのは、当たり前に笑えることの尊さ、大切さです。
現代の私たちは、自由に落語を聞き、自由に笑うことができますが、戦時中は生きることに必死で笑いあえる雰囲気ではなかった。
「心配事がないのがいちばん。心配事があったら笑えないからね」
穏やかな笑顔から発せられる遊三さんのそのことばの重みは、人生において大切なことは何かを語りかけているようでした。
「平和だからこそ笑いがある」
画像をクリックすると、2024年10月30日放送「午後LIVE ニュースーン」の動画をご覧いただけます。
映像センター
阿部 徹
おもに全国ニュースの映像編集を担当。2016年入局。鳥取局・長野局を経て現所属。生で味わう落語の世界にはまり、休日は寄席に通い続ける。
阿部 徹
おもに全国ニュースの映像編集を担当。2016年入局。鳥取局・長野局を経て現所属。生で味わう落語の世界にはまり、休日は寄席に通い続ける。