漫画家 いがらしみきお 「ぼのぼの」で向き合う東日本大震災

漫画家 いがらしみきお 「ぼのぼの」で向き合う東日本大震災
漫画「ぼのぼの」。

動物のキャラクターたちがギャグを交えながら日常の疑問などに向き合うこの作品に、東日本大震災を題材にした物語があることをご存じでしょうか。

作者のいがらしみきおさんは13年前、仙台市で東日本大震災を経験。その後、震災をテーマにした作品も描いてきました。

「生きていることより、価値のあることはない」と話す、いがらしさんが作品に込める思いとは。
(仙台放送局記者 岩田宗太郎)

挫折した?ラッコが主人公の作品「ぼのぼの」

漫画家のいがらしみきおさん。今の宮城県加美町出身で、1979年に漫画家としてデビュー。その後、仙台市の仕事場から多くの名作を生み出してきました。

代表作は、ラッコが主人公の「ぼのぼの」です。
かわいらしい動物のキャラクターが、日常の疑問や哲学的な問いに向き合う様子を皮肉やギャグを織り交ぜながら表現したこの作品。

アニメ化や映画化もされるなど、世代を越えた人気を集めています。
「もともとはラッコが好きだった。当時、宮城県にあった松島水族館に見に行くと、ラッコは水に浮いてるくらいで何もしていない。それを見てもかわいいなと。手元の図鑑で生態を調べてみると、もとはイタチと同じ仲間で海から陸に上がったのに、その後、海に帰ったとありました。これはおもしろいなと。みんな海から陸に上がって生きてるのに、ラッコは海に帰った。挫折したような感じがあって、心に残っていた」
いがらしさんの好きなキャラクターは、主人公の「ぼのぼの」。物語のアイデアを生み出す原動力は、いがらしさんの幼い頃の経験がもとになっていると明かしてくれました。
「小学校3、4年生のころ、自分の心臓が止まるのではないかと思った。心臓は、自分で動かしているわけではないので、死ぬのではないかと眠れなくなった。そこから、自分が生きていることに対して答えが出ないようなことを考えて生きてきた。不思議でしょうがないのは、この世界がどうしてあるのかわからないということ。見えているからよいのだろうというけれど、なぜこの世界があるのか、不安感がずっとあった。その不安感が『ぼのぼの』の世界に出ている」

震災は「ぼのぼの」の世界にも

13年前の東日本大震災。いがらしさんの創作活動にも強い影響を与えました。

震災からおよそ2年後。「ぼのぼの」でも、地震と津波が起きるストーリーを描きました。
単行本の41巻で主人公「ぼのぼの」の母親「ラコ」が初登場する回です。実は、それまで「ぼのぼの」の母親は登場しませんでした。

この回では、母親は大切な友人を津波で亡くします。母親は妊娠し、父親と楽しく暮らしていきますが、幸せになればなるほど、思い悩むようになりました。

「私だけが幸せに暮らしていていいのか」

生きる意味を問い続け、悲しみに暮れ、痩せ細ってしまいます。いがらしさんは、この状況を「悲しみの病」と表現しました。
母親は「ぼのぼの」を産んでそのまま亡くなり、父親も「悲しみの病」にかかってしまいます。

ただ、父親は「ぼのぼの」を育てる中でその病が治っていったと話します。

「生きてることが治してくれる」

悲しみの病と向き合ってきた父親が行き着いた答えでした。
「ぼのぼののお母さんが死んでしまう。死んでしまうという不幸、悲劇は否応なく襲ってくる。その象徴として震災と津波を出しました。悲しみというのは病気であるので、病気は治るかもしれない。悲しみとは共に生きるしかない。その悲しみをどこかに置いて忘れたことにできるような人はいない。時間がすべて解決してくれるかというと、時間も重要だが、時間も解決しない。生きていると、さまざまなことが起こる。たった一つの何事かじゃなくても、いろんなことが何回となく自分の目の前で起きていくので、そういうものが少しずつ自分の悲しみみたいなものを風化していく。そういうことがあると思う」

みずからの被災経験とかけ離れた沿岸の被災地

東日本大震災が起きたとき、いがらしさんは仙台市内の仕事場にいました。

けがはありませんでしたが、自宅はものが散乱し、一晩、避難所で過ごしました。
「地震が起きたときは、いつもどおりアシスタント2人と一緒に仕事をしていた。揺れも全然おさまらないし、棚も倒れて仕事場もヒビだらけ。妻にメールをすると『家はめちゃくちゃ』と返事がありました。そんなメールをもらって心配になりましたが、家に着くと、妻が向かいの奥さんと笑って話をしていた。これが日常だといえば日常なんですが、それを見てホッとしたのを覚えています。震災の後、電気もつかないし、水道も、ガスも通ってなかった。コンビニで食料を確保しようと亀裂だらけの道を自転車をこいでいた。当時は、食べ物を見つけるために生きていた。たとえ売れ残ったクッキーや菓子パンであっても、それがあればあったで喜びはあった。生きるということに対してものすごくシンプルだった」
震災からおよそ2週間後。自分の被災経験とはかけ離れた状況にショックを受けたできごとがあったといいます。

新聞社から震災をテーマにした寄稿の依頼を受け、七ヶ浜の被災地を訪れたことでした。
「変な話ですけども、沿岸部に行って、これが被災地かと思った。まだ木の上に畳が挟まってたり、車もそのまま、放っておかれたりしていた。はたしてこれを、漫画としてどう描けばよいのかという暗たんたる気分はありました。もっと言えば、はたしてこれを描いてよいものかどうかというのも当然出てきますし」
葛藤を抱えながらも、数か月後、あの時見た被災地をイラストとして描きました。

津波が押し寄せた沿岸部に、人がたたずんでいる情景です。
「漫画雑誌の編集者から、被災地を描いてくれと言われて、それまで被災地を描いた漫画家はいなかったと思うので、編集長に描いてよいか確認してくれと伝えると、問題ないと。自分たちが撮った写真を資料にして描きましたが、色も付けて、イラストができあがって机の中に入れる。アシスタントが帰った後、時々引き出しを開けて、完成したイラストを何度も見返しました。いったいなんなんだろう、この気持ちはと、もう一回、自分が描いたイラストを見たいという気持ちはいったいなんなのかと」
いがらしさんは、完成したイラストを見るたびに、被災後の心のざわめきやストレスが少しずつ治まっていったと感じていたといいます。
「完成した被災地のイラストを見るということは、まるで自分の傷口を見るような感じでした。頭をけがして、血が出た。なおりかけているところをどうしても触ったり見たりしてしまう。自分の傷口を何度も見てしまうことがありますよね。見れば見るほど少しずつ自分の傷口がなおっていくような、そういう感覚もあった。漫画という言語で外に出すことができた。その分救われたことは間違いなくあったと思う」

一人一人に“それぞれの震災”がある

その後も震災をテーマにした作品の発信も続けた、いがらしさん。

描くために、震災と向き合い続けていましたが、今もどのように描くべきなのか、その答えは見つかっていないといいます。
「漫画は一つの見方でしかない。私の漫画を読んで震災はこういうものだったのかと理解する人がいたら間違ってると思います。じゃあ、ほんとに震災を理解している人がいるかというとたぶんいないと思う。震災というものを記憶したその人の数だけ震災がある。それを思い出すだろうし、だんだん弱くなるかもしれない。だけどもそれが向き合い方だと思う。いつも同じような強度で物事と向き合える人はまずいないので。忘れそう、忘れてしまいそうだというのを責める必要はないと思います。絶対忘れないですから」
最後に、いがらしさんにメッセージを書いていただくと、森を歩く「ぼのぼの」とともに「生きて行くために 生きて行くよ」ということばが記されていました。
「このメッセージには『生きていけば良い』『普通にご飯を食べて、誰かと会って、疲れて、家に帰って、またご飯食べて、疲れて寝る。そしてまた次の日が来て、ごはんたべて』と。それをやっていればいいと思うんです。震災とは別に、生きていけばいい。震災がそんなに人の一生にとって重要かというと、あらゆるところを縛ってしまうくらい重要なものだとは思えない。それでもやっぱり生きていくということ、それより価値のあるものというのは私は見つからない」
「生きていること」について問い続ける。

いがらしさんからのメッセージでした。

(5月13日 宮城県域「てれまさ」で放送)
仙台放送局記者
岩田宗太郎
2011年入局
宇都宮放送局を経て、2016年から科学文化部。現在は仙台放送局で、文化をはじめ幅広い分野の取材を担当しています。