ハーバード・マーク1(ASCC)
ハーバード・マーク1、またの名を IBM ASCC は、アメリカで最初に作られた「プログラム可能な計算機」です。
もっとも、すぐ後に ENIAC が作られることになるので、「最後の歯車計算機」でもあります。
ENIAC が水爆の設計に利用されたのは有名な話ですが、マーク1は原爆の設計に利用されています。
水爆も原爆も、原理は単純なのですが、実際に作るとなると非常に緻密な設計が必要です。
その設計は、非常に複雑な計算を延々と続けられる「自動計算機」に支えられていたのです。
目次
マーク1の詳細(次記事)
バベジの夢を継いで
1939年、ハワード・エイケンは、ハーバード大学で物理学の博士号を取得します。
この時、彼は非常に退屈な計算を…延々とやりつづけなくてはなりませんでした。
そのような計算は機械で出来ないものか。エイケンは、そう考えます。
そのような機械を作りたいと大学に申請しますが、許可はおりません。
この時点では、夢想していただけで具体案は何一つなかったため、当然のことでした。
しかし、「そんな機械が欲しいならすでにある」という情報が彼の元に届きます。
たしかに、そのような機械が、ハーバード大学内にありました。
誰も使っていない、動かない、資料性以上の価値のない計算機でしたが…
それは、バベジの階差機関の、ほんの一部でした。
バベジの死後、後を継いだ彼の息子が、父の階差機関の「部品」を、バラバラにして世界中に寄贈していました。
そのうち一つが、ハーバード大学に置かれていたのです。
手前で機械を触っているのが、ハワード・エイケン。機械はバベジの階差機関の一部。
奥の人は、グレース・ホッパー。ASCC のプログラマの一人で、後にCOBOL言語を作った。
エイケンは、バベジのことを知りませんでしたが、図書館で彼の自伝を見つけて読みます。
バベジの自伝の中には、「自分の後を継いで機械を完成させるものがいれば、すべての名声は彼に譲ろう」という一説がありました。
エイケンはこの言葉に強い影響を受け、バベジの夢見た「解析機関」を自分の手で作り出そうとするのです。
後に、マーク1が設置された「計算研究所」がマーク1の使い方マニュアルをまとめている。
この中の参考文献にバベジの伝記は入っているが、解析機関の文献などは入っていない。
ASCC
しかし、彼はこのとき、博士号を取ったばかりの駆け出しの物理学者です。
計算機を作る方法はわかっていませんでした。
また、計算機を作るとなると、かなりの予算が必要でしたが、そんな予算は大学にはありませんでした。
エイケンは、事務機械の大手であった IBM に協力を仰ぎます。
IBM はこれを快諾。IBM の資金と技術力の元、エイケンは計算機の作成を開始します。
自動手順制御計算機(Automatic Sequence Controlled Calculator)…ASCC と呼ばれたその計算機は、基本的にはタイガー計算機などと同じ、歯車式の計算機です。
ただし、歯車同士が隣り合っている必要はなく、歯車の歯を「送る」には、電気的なパルスを与えればよいようになっていました。
バベジは、解析機関を作るのに、あまりに複雑になってしまう物理構造に悩まされました。
しかし、自由に曲げられる電線を使い、歯車の動きをパルスとして伝え合うのであれば、物理的な制約は無くなります。
いくつもある歯車同士を、接続を自在に切り替えられるように電線で結ぶために、電話交換機でも使用されていた「リレー」が活用されています。
符号付 23桁の歯車計算機(カウンタと呼ばれました)が72本ありました。
これらの歯車を回すのには、巨大な電動モーターが使われています。
カウンタ同士の結びつきを切り替えるのには、3500個の多極リレーが使われます。
カウンタに数値を送り込むために、24桁60組のダイヤルスイッチも備え付けられました。
プログラムは、紙テープと物理的な配線の両方を使って作られました。
このため、紙テープを読み取る装置が4台と、装置間の接続を変更するためのプラグボード、各装置を設定するプラグボードが用意されます。
これらの、切り替え可能な「接点」は、35000か所、最終的に組み上げられた部品の接続個所は300万に及んだそうです。
電線の総延長距離は 800Km にも達しました。
ASCC は高さ2.4m、奥行き60cm …壁一面を覆う、美しいキャビネットに納められます。
全長は 16m、重量 4.5t という巨大なものでした。
この写真、後でもう一度出します。