コラム
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豊かさの前線――馬路村の経験と課題
- 2017年03月14日2017:03:14:06:06:20
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- 林憲吾
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- 東京大学生産技術研究所 准教授
◆20世紀的成長の限界
環境史の大家 J. R. マクニールは『20世紀環境史』のなかで、20世紀が人類史上いかに稀な時代だったかを振り返っている。
1950年以降の人口は1500年以前の10倍以上のペースで増加し、20世紀のわずか1世紀で使ったエネルギーは、1900年までに人類が使用してきた総量の1.5倍以上にもなる。人類は飛躍的な経済成長を遂げた。
だが、それは、岩石から土壌、大気、水、生物に至る地球上のあらゆるものへの甚大な負荷と引き替えだった。都市人口は増加し、都市と農村の格差も深刻化した。
このような20世紀的成長が限界にきていることはすでによく知られている。トランプのような事例はあるものの、環境負荷や都市と農村の格差を深刻化させない成長を模索することは基本姿勢になりつつある。
加えて、こうした新しい成長のかたちの模索はすでに20世紀後半に始まっており、さまざまな経験が蓄積されてきた。
◆馬路村の挑戦
先日、高知県安芸郡馬路村を訪れた。人口900人あまりの小さな村だが、その村の歩みは20世紀的な成長とは異なる成長のあり方を示す好例として知られている。
無農薬栽培した柚子を地元で加工し、都市に直販するスタイルで経済成長した村である。ぽん酢醤油「ゆずの村」や柚子ドリンク「ごっくん馬路村」が有名である。
馬路村はもともと林業で栄えた。山の75%が国有林で、かつては営林署が二つもあった。
銘木・魚梁瀬杉を有し、魚梁瀬杉を一本切り出せば村の赤字が即座に解消できたともいわれる。だが、外材の輸入で国産材の価格が低下し、1965年頃より林業は衰退していく。
そこで村が目を付けたのが柚子である。ただし、1963年に柚子栽培を始めるも、村の主力になるまでの道のりは遠かった。
林業主体の村だったから、病害虫防除の作業に手間暇をかけてまで農業をやるモチベーションはなく、無農薬栽培だから見栄えの悪い柚子しか作れなかった。青果での販売は厳しく、加工に活路を見いだすしかなかった。
80年代に入ってようやくヒット商品が登場する。それ以降、売り上げを伸ばし、現在では年商30億円を超えるに至る。
農協自ら商品開発から加工、販売までおこない、6次産業化という言葉ができる前にそれを成し遂げたのである。無農薬であることからも、環境保全と地域経済の発展の両方をもたらしたといえる。
馬路村の風景。石垣が積まれて段々畑で柚子が栽培されている。
◆村から都市へ、都市から村へ
馬路村の成長の秘訣は、馬路村自体の魅力を、明るく丁寧に都市へ届けたことにあるだろう。農協のつくるチラシやDM、ポスターには、版画や写真とともに村からの朗らかな呼びかけが添えられていて、馬路村の味わいのようなもので満ちている。
現地に行ってもそれは同じで、農協の加工場を見学すれば、工場に関することだけではなく村民の生活まで垣間見える。商品の購入は、いわば馬路村とのつながりを買うようなものなのだ。
驚いたのは、現在でも電話やFAXでの注文がネット注文に勝っていることである。そのつながりが、いかに消費者に持続的な心地よさを与えてきたかを物語っている。
では、なぜそれほど村の発信にこだわったのか。農協組合長の東谷望史さんから聞かれたそのきっかけが印象的だった。
1988年、池袋の西武百貨店が開催した「日本の101村展」でぽん酢醤油「ゆずの村」は最優秀賞を受賞した。これを機に「ゆずの村」は大幅に売り上げを伸ばし、その意味で「日本の101村展」は村の成長のきっかけになった。
だが、この101村展は村を発信することのきっかけにもなったという。
1985年から開かれていた「日本の101村展」に馬路村はそれまで何度か参加していた。ある年、ポスターで東谷さんが目にしたもの。それは「東京に村が欠乏している」というコピーだった。
村は村なんて売りたくない、かつてはそう思っていたのにこれを見て発想が変わった。次の商品には村を付けたい、そう思ったという。都市のポスターから村の価値を再発見したのである。
農協の加工場に展示されていたポスター。村の紹介文がお便り風に書かれている。
◆西武百貨店と80年代
80年代といえば、高度経済成長期を駆け抜けた先で、都市生活者たちの消費に対する価値観が揺らいでいた時代である。そうした価値観を大きく揺さぶり、新しい消費文化を都市に投げかけていたのが、西武百貨店を中核としたセゾングループだった。
西友のプライベートブランドとして無印良品が立ち上がったのが80年、「おいしい生活。」のコピーが82年のことだ。
「日本の101村展」も単なる物産展ではなかった。入念なマーケットリサーチをもとに西武百貨店が導き出した85年のテーマのひとつが「ふるさと」。そのキャンペーンの一環で、全国各地で起こっていた村おこしを都市に紹介するイベントとして101村展が実施されたのである。
リサーチが導き出した85年の生活者に向けてのメッセージには「ホーミングとファーミング」、「自然を耕し、都市を耕す両棲生活を」などの言葉が含まれいる。農村と都市とのつながり、農の感覚といったものが新たな価値として広がっていく予感があったのだろう。現にその予感は馬路村の事例のような動きにもつながっていった。
さらに言えば、この感覚は現在にも通底する。ここ数年、6次産業化や2地域居住への関心は高まっている。
こうした80年代半ばの予感は、30年間でどんな社会へとカタチを変えてきたのだろうか。それを振り返ることは、都市と農村のこれからを考えるヒントになるのかもしれない。
◆馬路村の先端的課題
近年、馬路村は柚子の加工販売で成長するとともに、木材の加工販売でも力をつけてきている。しかしそれ以外での課題は多いと村長はいう。
なかでも通勤者の増加は先端的課題と呼べるものだ。通勤という意味は、「馬路村から」ではなく、「馬路村へ」である。
村では、ある程度十分な雇用を生むまでに地域経済は豊かになった。Iターンの若者も増えている。だが、海岸部のまちに住んで、馬路村に通勤するというケースも増えており、昼間人口が夜間人口を上回っているという。
なんだか都心のような状況で不思議な感覚である。これには空き家を有効活用できていないことや配偶者の職場確保など、さまざまな要因があるようだ。こうした事態は、経済的な豊かさとともに、暮らしの場としての魅力が、いかに生活にとって欠かせないものであるかを教えてくれる。
そうであるがゆえに、長い年月をかけた村おこしの経験から生まれるこのような先端的課題を解いていくことから、生活の豊かさが新たに見えてくるのではないだろうか。まさに馬路村は豊かさの前線に立っている。
【参考文献】
J. R. マクニール『20世紀環境史』(海津正倫・溝口常俊 監訳)名古屋大学出版会、2011
大歳昌彦『「ごっくん馬路村」の村おこし』日本経済新聞社、1998
西武百貨店『日本の101村展:報告書』西武百貨店、1985
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林 憲吾(東京大学生産技術研究所 講師)