令和6年10月31日
国立研究開発法人日本原子力研究開発機構
J-PARCセンター
本研究では、超軽量でコンパクト、かつ電源不要の真空トランスファーケースを開発しました。この開発には、J-PARCが発明した真空容器自体が無電力の超高真空ゲッターポンプとなる技術[1][2]を応用しています。また、試作した真空トランスファーケースで、半導体材料のシリコン基板表面に形成した数原子層の酸化膜等を、大気の悪影響を受けることなく形成したそのままの状態で真空輸送ができることを、SPring-8[3]の放射光[4]を用いた表面分析により実証しました。
ナノ材料や半導体材料の開発において、超高真空技術は欠かせません。超高真空環境下で製造することで、不純物の混入を防ぎ、高純度で高品質な材料の製造が可能となります。またナノ材料や半導体の性能は、表面特性が重要な役割を果たします。酸化や汚染物の付着は、材料の電気的、化学的特性を損ないます。超高真空環境では、酸素や水蒸気などの気体が極めて少なく、ナノ材料や半導体材料の表面が酸化や汚染が生じず、その特性を維持できます。
このような環境で作られたナノ材料や半導体材料の研究には、高精度な分析が不可欠です。電子顕微鏡や、SPring-8 等の放射光を用いる分析装置などは、超高真空環境で動作し、材料の詳細な構造や特性を高解像度で観察できます。では、超高真空環境下で製造した材料をそのままの状態で超高真空環境下の分析装置に運ぶにはどうしたらいいでしょう?
それには真空を維持したまま材料を輸送でき、分析装置との受渡しも可能である、真空トランスファーケースを用います。しかし、従来のトランスファーケースは、真空を維持するための真空ポンプと電源、バッテリーが必要なため大変重く(約30kg)、サイズも大きいことが課題でした。
J-PARC[5]では近年、チタンで作られた真空容器内部の表面を改質することで真空容器自体を超高真空ポンプであるゲッターポンプとする技術を発明しました。今回この技術を活用して、超軽量(約6㎏)でコンパクトな真空トランスファーケースを開発しました。さらに、試作したトランスファーケースに模擬サンプルを入れ、真空を維持したまま、J-PARCとSPring-8間、およびSPring-8内のビームライン間で輸送し、サンプル表面の状態を確認しました。その結果、半導体材料のシリコン単結晶基板表面に形成した極薄酸化膜の品質を維持したままで、実運用時の真空維持機能を実証しました。
開発した真空トランスファーケースは、ポンプや電源が不要であることから、バッテリーの持ち込みが規制されている飛行機での輸送も可能となります。将来、高真空輸送が求められる電子顕微鏡の電子源を海外へ容易に輸送することが可能となり、ナノ材料や半導体などの新材料開発分野での利用が期待できます。
なお、本研究は国立研究開発法人日本原子力研究開発機構(理事長:小口正範、以下「原子力機構」という。)の原子力科学研究所神谷超高真空技術開発ラボとJ-PARCセンター、物質科学研究センターが共同で行ったものです。
J-PARCでは、ビームパイプなどの真空容器の内壁をゲッターポンプとして機能させる先進的なNEGコーティング[6]技術の高度化と社会実装を進めています。従来のNEGコーティングは繰り返しの大気開放と再活性化により性能が低下するという問題がありました。しかし、近年J-PARCが発明した新しい表面改質技術により、この問題を解決しました。
通常、チタンの表面は酸化チタン膜(以下、「酸化膜」という。)に覆われているためゲッター性能はありません。J-PARCでは、チタン製の真空容器の表面を覆う酸化膜をスパッタリングと呼ばれる表面加工方法で除去し、さらにその上にNEGコーティングをして保護するという一連の表面改質手法を発明しました。この手法では、真空容器を大気に暴露しても、真空下で1日程度、約200℃で加熱してから常温に戻すという簡単な処理(以下、「活性化」という。)で、再度ゲッター性能を持つことが可能です。また、大気開放と活性化を繰り返しても真空性能が劣化しません。
今回、この技術を応用し、超軽量でコンパクトな真空トランスファーケースの実証に成功しました。このケースを使えば、ナノ材料や半導体材料のサンプルを真空環境下で、表面が酸化や汚染を生ずることなく輸送できます。
このトランスファーケースでは、真空容器をチタン製とし、内面の酸化膜を除去した後、NEGコーティングをして、トランスファーケース自体をゲッターポンプとして機能させました。これにより、従来のトランスファーケースは、約30kgと重かったのに対し、今回試作したトランスファーケースは約6 kgと大幅な軽量化に成功しました。試作機は、真空ポンプを接続することなく高真空を維持する性能を持っており、電源やバッテリーも不要であるため、持ち運びが簡単です。今回の超軽量化・コンパクト化の結果、トランスファーケースは、手で持てるカバンや、機内持ち込みができるスーツケースに入れて運ぶことが可能になりました(図2)。
試作したトランスファーケースの試験のため、J-PARC(茨城県東海村)からSPring-8(兵庫県佐用町)まで輸送しました。輸送試験は、飛行機と鉄道の両方を実施しました(図3)。
ゲッター材サンプルを、試作したトランスファーケースに入れ、活性化処理を行いました。この活性化により、トランスファーケースはゲッターポンプの機能をもつようになり、10-7 Pa台の超高真空を達成しました。この時トランスファーケース内のゲッター材サンプルの表面も、酸化物から酸素が無くなり金属へ変化しています。また対照実験のため、トランスファーケースに入れずに大気中で輸送したゲッター材サンプルも用意しました。
トランスファーケースは、輸送後も高真空(10-5Pa台)を維持していることを確認しました。SPring-8では、原子力機構専用ビームライン(BL22XU)の「硬X線光電子分光装置」を使用し、ゲッター材サンプルの表面状態を詳細に分析しました。
図4にはゲッター材サンプルの1つであるチタンの分析結果を示しています。大気中で輸送したサンプルの表面は酸化してチタン酸化物となりましたが、トランスファーケースで真空を維持して輸送したサンプルは、酸化することなく金属チタンの状態を維持できたことを確認しました。
さらに、半導体材料のシリコン単結晶基板をSPring-8の原子力機構専用ビームライン(BL23SU)の「表面化学実験ステーション」内の真空中で清浄化して、その表面に原子数層の極薄酸化膜[7] を形成しました。そのサンプルを、原子力機構専用ビームライン(BL22XU)の「硬X線光電子分光装置」までトランスファーケースに入れて輸送した後、表面化学実験ステーションに戻し、X線光電子分光分析を行いました。その結果、シリコン基板の酸化膜は、大気に曝すと酸化が起きてしまい元と異なる酸化物(状態)になってしまうのに対して、トランスファーケースでの装置間輸送前後で全く変化しておらず、原子レベルの酸化膜が保たれることを実証できました(図5)。
今回の結果は、J-PARCが開発した超高真空ゲッターポンプの技術が、社会実装へ向けて大きく前進したことを意味します。これまで観ることができなかった“ありのまま”の表面界面科学の知見は、次世代の材料開発を支え新たなイノベーションを創出すると期待できます。
今回の飛行機や鉄道での輸送試験において、高真空は維持でき、大気暴露によって影響を受けてしまう極薄酸化膜のような材料の表面の酸化も防ぐことは実証できましたが、トランスファーケースの圧力は10-7 Paから10-5 Paまで上昇しました。これは、真空を封止する仕切弁(バルブ)のシール材にフッ素樹脂のゴムを用いているため大気側から空気の透過が発生したからです。今後は、金属系シール材を用いるなどの工夫により、より低い圧力を維持して輸送可能となるような改良を進め、例えばシリコン清浄表面と維持といったより活性な影響を受けやすい材料の真の姿を捉えた研究に応用できるように開発を進めていく予定です。
今回、開発した真空トランスファーケースにより、従来の真空ポンプやその電源およびバッテリーがなくても、高真空状態を維持しながらサンプルを輸送できることを実証しました。バッテリーの持ち込みが規制される空輸が可能となることで、将来、ナノ材料や半導体材料、さらには電子顕微鏡の電子源など高真空環境での輸送が求められる装置を、海外へ容易に輸送することができるようになります。それにより、すべての真空装置・分析装置がつながったグローバルな研究環境を実現し、物質材料分野の研究方法にパラダイムシフトをもたらすと期待できます(図6)。
また、電力不要で高真空を維持できる超高真空ゲッターポンプ技術のさらなる応用は、カーボンニュートラルな持続可能社会に大きく貢献するものと考えられます。今後は、J-PARC加速器真空システムの省電力化や既存ポンプの台数削減のために、ビームラインへ適用する開発や、既存の分析装置の真空高度化を可能とする、板形状のゲッターポンプといった汎用製品の開発を進めていきます。
特許名:真空部品、これを用いた真空排気方法
登録番号:特許第7195504号
特許権者:国立研究開発法人日本原子力研究開発機構
特許名:真空排気方法
登録番号:特許第7446640号
特許権者:国立研究開発法人日本原子力研究開発機構
Junichiro Kamiya等, SRPES and XPS Analysis of Activation and Deterioration Processes for Ti-Zr-V NEG Coating, e-Journal of Surface Science and Nanotechnology 22, (2024)
https://doi.org/10.1380/ejssnt.2024-030
Junichiro Kamiya等, Evaluation of Titanium Vacuum Chamber as Getter Pump, e-Journal of Surface Science and Nanotechnology 20, 107-118 (2022)
https://doi.org/10.1380/ejssnt.2022-017
本研究の一部は日本学術振興会(JSPS)科学研究費補助金基盤研究(B) (23K28351)、JAEA理事長裁量経費、JAEA萌芽研究制度、JAEA原科研ACCEL研究費によって行われました。
チタンが持つ気体を吸着・吸収する性質(ゲッター性能)に着目し、チタンで作られた真空容器内部の表面を改質することで、真空容器自体を超高真空ポンプであるゲッターポンプとして活用する技術です。
プレスリリース https://www.jaea.go.jp/02/press2022/p22090601/
気体を材料表面に吸着もしくは材料内部に吸収する能力をゲッター性能と呼びます。ゲッター性能を持つ材料をゲッター材料と呼び、チタン、ジルコニウム、バナジウムなどの金属やそれらの合金が有名です。また、ゲッター材料を利用して、気体を吸着することで真空容器の圧力を下げる真空ポンプをゲッターポンプと呼びます。
兵庫県の播磨科学公園都市にある世界最高性能の放射光を生み出す理化学研究所の施設で、SPring-8の名前はSuper Photon ring-8 GeV(ギガ電子ボルト)に由来します。SPring-8では、放射光を用いて、ナノテクノロジーやバイオテクノロジー、産業利用まで幅広い研究が行われています。
放射光とは、電子を光とほぼ等しい速度まで加速し、電磁石によって進行方向を曲げた時に発生するX線です。実験室レベルのX線に比べて12桁以上の強度を持つため微量成分も検出できます。
高エネルギー加速器研究機構(KEK)と日本原子力研究開発機構(JAEA)が茨城県東海村で共同運営している大型研究施設で、素粒子物理学・原子核物理学・物性物理学・化学・材料科学・生物学などの学術的な研究から産業分野への応用研究まで、広範囲の分野での世界最先端の研究が行われています。J-PARC内の物質・生命科学実験施設MLFでは、世界最高強度のミュオンおよび中性子ビームを用いた研究が行われており、世界中から研究者が集まっています。
非蒸発型ゲッター(non-evaporable getter,NEG)材料を用いたコーティング技術です。NEGは、チタン、ジルコニウム、バナジウムなどの合金で、真空環境下での気体吸着能力が非常に高い性能を持っています。これをコーティングとして真空容器の内壁に施すことで、真空容器自体をゲッターポンプとして機能させることができます。
コンピュータなどの演算を司る集積回路の基本要素である「トランジスタ」はシリコンを酸化して作成されます。集積回路の性能はトランジスタの数で決まるため、トランジスタの高密度集積化、すなわち、より小さなトランジスタ(≒薄い酸化膜)を作製することがデバイスの高性能化のために必須です。近年のデバイスにおいて、作製する酸化膜は原子数層レベルの薄さが要求されており、より良質な酸化膜の作成のために、その形成メカニズムの理解が重要となります。