[go: up one dir, main page]
More Web Proxy on the site http://driver.im/

「10月7日」がもたらした最大のものは、中東政治とグローバルな国際政治に、パレスチナ問題が「帰って来た」ことだろう。

 パレスチナ問題はかつて、中東問題の中心であり、最大の問題とされていた。しかし2023年10月7日に至るまで、かなり長期間にわたってパレスチナ問題の中東政治と国際政治における重要性は低下していた。

 一つの原因は、パレスチナ側の民族主義勢力の弱体化である。これはパレスチナの主要勢力が武装闘争の主体であることを止め、和平の当事者となり国際的に公認されたことによる反作用でもある。1993年のオスロ合意によってパレスチナ解放機構(PLO)がファタハ主導で和平・協調路線に転じ、イスラエル国家を認め、イスラエルの占領下で限定的な自治を行う主体であることを受け入れた。それによってパレスチナを代表する交渉相手としてイスラエルや米国から認められたものの、武装闘争という牙を抜かれた形である。

 それに対してハマースが武装闘争路線を捨てず、イスラーム主義の立場からパレスチナ民族主義の残存する勢力となったが、掛け声はともかくイスラエルを「殲滅」することが可能となる武力は持ち得なかった。ガザ地区からのトンネルによる密輸や侵入、ロケット弾による攻撃でたびたびイスラエルの平穏を脅かすことはできても、イスラエルの開発する軍事技術や諜報技術によって有効に封じ込められ、イスラエルに軍事的に対峙できる存在とは見られていなかった。イスラエルはガザ地区を封鎖し監視してハマースを封じ込めたものとみなし、治安対策の関心は、多くのユダヤ人入植地が拡大するヨルダン川西岸にシフトしていた。イスラエルの国防・安全保障のより重要は課題は、イランとその影響下にあるヒズブッラーなどにどう対抗するかに移っていた。

記事全文を印刷するには、会員登録が必要になります。