2023年12月15日~17日の3日間、都内の東京日仏学院 Institut français de Tokyoにて開催された“Archipel Caravan”の一環として、“飯野賢治ドキュメンタリー映像上映会”が開催された。
これはゲームクリエイター飯野賢治氏の没10周年記念企画として行われたもので、当日は飯野氏のドキュメンタリー映像上映のほか、飯野氏に縁のあるクリエイターたちのトークイベント、さらに飯野氏にまつわるさまざまな展示物を見られるスペースも設置されるなど、飯野氏の追悼10年企画の集大成とも言える内容になっていた。
今回、3日目となる2023年12月17日の回にお邪魔し、トークや展示会の様子を取材してきた。トークでは、フロムイエロートゥオレンジの前身とも言える元ワープのメンバーである4人が飯野氏との思い出を語った。
ここでしか聞けない、飯野氏のファンにとっては見逃せない内容になっているので、ぜひ最後まで目を通してほしい。記事の最後には展示会の様子も掲載しているのでそちらもお見逃しなく。
Memories of Kenji Eno
仕様書は紙一枚のみ? 飯野氏の制作に対するこだわり
トークに出演したのは、元ワープの菅村弘彦氏、宮崎朋浩氏、林田浩典氏の3人に加え、途中から須藤秀希氏も参加。
開発にまつわる話題ではワープの意外とも言える顔が見えた。というのも開発の初期段階では仕様書を用意することが開発現場ではよくあるのだが、それが紙一枚だったり、そもそも仕様書すらメンバーに提示されなかったりということもあったそう。
というのも、飯野氏はメンバーに作品の内容をガチガチに固めてから伝えるのではなく、雑談ベースでユルく伝えることも多かったそうだ。口出しすることもあまりなかったとのこと。
ただ、仕様書の内容を受けてある程度形になったものを飯野氏に提示すると、必ず「もう一段階先に進んだもの」を求めてきたという。そこには、飯野氏の貪欲とも言えるファンへのサービス精神があったからではないかと、林田氏は言う。
ただ、ワープの作品を見ていると壮大なテーマがあったり明確なメッセージを含んでいたりするものが多い。
仕様書段階のユルいノリのエピソードを聞いていると、最終的にあそこまでコンセプチュアルな作品にまとめてしまうという結果に、いい意味でギャップを感じてしまうのも事実だ。ただそれについては、軽い部分がありながらも、飯野氏が最終的なゴールを見据えていたからこそ形になったのではないか、とのこと。
ここからは少しコミカルな話題に。じつはワープには他社にはない独特の文化がある。それは、ゲーム対戦をした敗者に課せられる“罰ゲーム”だ。
朝の生放送のテレビ収録に映り込んでくるというものだったり、ワープのゲームを恵比寿の街角で売ってくるというものだったり、弾き語りしながら牛丼屋に行くというものなどがあったそうだ。まるで学生時代の遊び心をそのまま持ち込んだようなノリがじつにワープらしい。
いまでこそYouTuberがやっていそうなことだが、ワープのメンバーからすればそういった類のことは「20年以上前にほぼすべてやっている」と語り、これには会場からも笑いが漏れていた。
飯野氏というとメディアでの尖った発言からか、「怖い人」というイメージを持つ人もいるかと思うが、実際は「楽しいお兄ちゃんだった」とメンバーは振り返る。
『D2』制作のため、8月に雪山へ取材旅行?
続いては『エネミー・ゼロ』の話題へ。
その矢先、客席にいた元ワープの須藤秀希氏がステージに乱入(?)するという予想外の事態に。「飯野さんのことを語りたい!」という須藤氏を来場者から拍手で迎えられ、出演者4人目のメンバーとしてトークに参加することになった。
『エネミー・ゼロ』といえば、対応ハードがプレイステーションからセガサターンへと電撃移籍したことで業界が騒然となったが、その際、発表の場において、PSのロゴがサターンのロゴにモーフィングする演出があり、それを手掛けたのが須藤氏だったとのこと。
なおエネミー・ゼロ移籍の瞬間に関しては、映像収録などはいっさい行われておらず、取材陣による録音も禁止だったそうだ。そのため、会場に居合わせた当時の記者はものすごい勢いでタイピングによるメモ書きや執筆を行っていたとのこと。
続いては『Dの食卓2』の話題へ。『D2』と言えば雪山が舞台のゲームとして知られているが、極寒のなか、主人公のローラは常にスーツ姿で登場する。ただ当初の予定では、途中で防寒具を手に入れるなど、寒さ対策も考えられた展開が予定されていたらしい。
ただ『D2』に関しては「自分の父親でも楽しめるゲームにしたい」という飯野氏の思いのもと、服装が変化するなどの要素はなくし、最終的には爽快なガンシューティング要素を推した内容になったとのこと。
しかし、この飯野氏の考えにはメンバーの反対もあったらしいので、飯野氏とメンバーのあいだで相当なディスカッションが行われたことは想像に難くない。
『D2』と言えば上記の通り雪山を舞台としたゲームなのだが、開発の最中、「飯野氏は雪を体感するため取材旅行を行う」と宣言。しかし、季節は日本では雪の「ゆ」の字も感じられない夏真っ盛りの8月だった。
そこで選ばれた旅行先は、逆に8月が冬となる南半球・ニュージーランド。
ワープではゲーム開発をする際、実際に取材旅行に行くことが多いが、ニュージーランドへの旅行もそのひとつだったということだろう。
飯野氏自身、いまで言うオープンワールドゲームをずっと作りたいと言っていたらしく、いまにして思えば、雪山を自由に探索できる『D2』もそんな飯野氏の思いが反映されたゲームだったと言えそうだ。須藤氏いわく、現代のゲーム機のスペックだったら飯野氏のやりたいことがすべて可能なのではないか、とのこと。
来場者からの質問では、『D2』開発終了後、ゲーム開発から距離を置くことになるワープ終盤の時期、メンバーはどんな思いだったのかという内容が届けられた。
菅村氏や宮崎氏によると、『D2』終了後、飯野氏はワープメンバーそれぞれと面談を実施。ワープに残るか、それとも辞めるかという選択の話になっていたそうだ。
加えて、報酬などの条件以外でも飯野氏と一部のメンバーとの間で距離ができてしまったこともあり、結果、CGメンバーはほぼ全員辞めることに。ただ『D2』に関しては魂のぶつけ合いだったこともあり、当時の強烈な思い出として残っていると、それぞれ口にしていた。
最後に、飯野氏の妻であり、現在フロムイエロートゥオレンジの代表を務めている飯野由香氏が来場者に挨拶。由香氏はこのイベント前日が誕生日だったのだが、生前飯野氏から誕生日を忘れられてしまうことも多く、あまり誕生日にいい思い出を持っていなかったそう。
だが、今回のイベントで、飯野氏のファンや友人が多く駆けつけてくれ、みんなでいっしょに映像を観られたことは飯野氏からの最高のプレゼントだと感じており、「亡くなってもそんなことができる夫を改めてすごいと思う」と、声を詰まらせながら語っていた。
飯野氏がこの世を去ってから10年が経ったが、今回のイベントを経て、飯野氏が遺した功績やゲームタイトルの輝きはまったく失われておらず、むしろ、いまだからこそ再評価されるべき点もあるのではと強く感じた次第だ。当時を知らない若い世代の方も、ぜひ飯野氏の作品群に触れていただき、かつてゲーム業界に革命を起こした天才がいたということを知ってもらえたら幸いだ。
飯野賢治 特設展示の模様をフォトレポート
[2023年12月23日21:10追記]
記事初出時、文章の一部に誤りがあり修正しました。読者並びに関係各位にお詫びして訂正いたします。