2014年春のNHK朝ドラは『花子とアン』だ。
モンゴメリの『赤毛のアン』を日本に紹介した翻訳家・村岡花子(1893-1968)を、吉高由里子が演じる。

出演は他に黒木華、伊原剛志、高梨臨、室井滋、ともさかりえ、石橋蓮司、松本明子、竹山隆範(カンニング)、浅田美代子など。ナレーションは美輪明宏だ。

ヒロインの結婚後の名前こそ「村岡花子」だけど、結婚前の名前は「安東はな」。現実の村岡花子の旧名は「安中はな」だから、伝記ドラマというよりは、現実の人物をモデルにした同名の主人公が出てくる、純然たるフィクションだ。まあドラマはすべてフィクションだけど。
リアル村岡花子の夫・村岡けい三(「けい」は人べんに敬う。社会運動家である賀川豊彦・フサ夫妻の、妻のほうの従兄)の名前も、ドラマでは村岡英治となっている。演じるのは鈴木亮平。
パラレルワールドというか、歴史の二次創作みたいな設定のドラマなのだなー。

さて、このドラマの原案となったのが、村岡恵理『アンのゆりかご 村岡花子の生涯』(新潮文庫)。親本はモンゴメリ『赤毛のアン』原著刊行のちょうど100年後、2008年にマガジンハウスから出たものだ。原案は「評伝」なので、もちろん、実在の人物は現実の名前のまま。


著者は村岡花子の孫にあたる。〈祖母が亡くなったとき、私は11ヶ月の赤ん坊だった〉という。著者の姉は翻訳家の村岡美枝。ふたりで大田区にある「赤毛のアン記念館・村岡花子文庫」を主宰している。
花子の東洋英和女学校(ドラマでは修和女学校)でのうんと年上の同窓生で、バツイチで編入してきた大正天皇の従妹・柳原あき子(「あき」は火へんに華、以下同。のちの歌人・柳原白蓮[1885-1967])は、ドラマでは仲間由紀恵演じる「葉山蓮子」に変更されている。
柳原白蓮は、のちに、二度目の結婚生活を棄てて駆け落ちした「白蓮事件」で知られた。駆け落ちの相手は、これも社会運動家である弁護士・宮崎龍介。辛亥革命を支援した浪曲師・宮崎滔天の息子である。
これは長谷川時雨の評伝「柳原あき子」(杉本苑子編『新編 近代美人伝 下』岩波文庫所収、青空文庫はこちら)や森まゆみの『明治快女伝 わたしはわたしよ』(文春文庫)などに詳しく、また林真理子が柴田錬三郎賞受賞作『白蓮れんれん』(中公文庫、集英社文庫)で小説化しているほどのスキャンダルだった。
『アンのゆりかご』を読むと、白蓮が駆け落ちのさいちゅうに村岡花子に手紙を出したりしている。ふたりの交遊は深かったようだ。
この事件はドラマでも大きく取りあげられることだろう。
原案を読むかぎり、『ごちそうさん』に続いて『花子とアン』でも、関東大震災と、太平洋戦争での空襲が描かれるに違いない。

ところで、先立つNHK朝ドラ『ごちそうさん』では、ヒロインの夫の妹・ 西門希子(高畑充希)が昭和初期の大阪ラヂオ放送(モデルはNHK大阪の前身JOBK)のアナウンサーになるという展開があった。
じつは村岡花子も昭和初期に、NHKラジオでレギュラー枠を持っていた。
『アンのゆりかご』によると、キリスト教出版物を刊行する出版社・教文館で少女文学・児童文学の編集者・翻訳家として活躍していた村岡花子は、1932(昭和7)年6月1日から、9年半後の日米開戦までのあいだ、NHKの前身JOAKで、初の子ども番組『子供の時間』(18:00-18:30、帯番組らしい)のラスト5分間「子供の新聞」のコーナーを担当していたのだという。
〈全国のお小さい方々、ごきげんよう! これから皆さまがたの新聞のお時間です〉
で始まる「子供の新聞」コーナーはたとえば、初回放送ではつぎのような内容だったという。

〈帝国議会は大日本帝国憲法という、国の掟によって、今から42年前の明治23年から毎年開かれています。
今日から開かれる帝国議会はその62回目に当るのです。
議院は貴族院と衆議院のふたつに分かれ、国の大切な事柄を決めるのです。
今日はその開院式が貴族院で行われます〔…〕。
帝国議会はいつもならば年の暮れから翌年の3月までの3ヶ月間でありますが、今度の議会は臨時の必要で開かれましたので、今月の14日までの2週間で終わることになっています〉(250頁。引用者の責任で改行を加えた)

これって、のちのNHKの人気TV番組『週刊こどもニュース』でNHK時代の池上彰さんがやってたことじゃないか。

村岡花子はこの番組で、〈ラジオのおばさん〉として人気ものになったという。番組を締めくくる「子供の新聞」の、そのさらに〆の挨拶フレーズは
〈それではごきげんよう! さようなら〉
というもので、〈この独特の口調が流行し、物真似が現れた〉(252頁)。
いま30歳以上の世代なら、テレビ朝日『日曜洋画劇場』で解説の映画評論家・淀川長治が〆る〈それでは次週をご期待ください。サヨナラ、サヨナラ、サヨナラ〉を小松政夫がモノマネしていたのを思い出すだろう。
戦前のNHKラジオは、TVもウェブもない時代のメディアとしてたいへんな影響力があった。そこに、専門のアナウンサーでも芸能人でもないのに起用された村岡花子は、児童文化への貢献が注目されていたのだろう。

だけどこのとき、彼女は『赤毛のアン』とはまだ出会っていない。
1939年にモンゴメリのAnne of Green Gablesの原書を、教文館の同僚であるカナダ人宣教師ミス・ロレッタ・レナード・ショーに手渡された村岡花子は、戦時下にこれを翻訳し、戦後、三笠書房から刊行するにさいし、訳題をいくつか考えていたという。
『夢みる少女』
『窓辺の少女』
『窓辺に倚〔よ〕る少女』
……なんかぜんぜん違う。
編集部と合議のうえ『窓辺に倚る少女』になりそうになったが、そこで担当編集者・小池喜孝が『赤毛のアン』をいう案を出し、社長で売れっ子翻訳家の竹内道之助(ミッチェル『風と共に去りぬ』新潮文庫版はこの人と大久保康雄の共訳)もこれに賛同したという。

村岡花子は〈『赤毛のアン』なんて絶対嫌です〉と突っぱねたが、当時20歳の姪で養女の村岡みどり(著者の母)に
〈ダンゼン『赤毛のアン』になさいよ、お母様! 〔…〕『窓辺に倚る少女』なんておかしくって!〉
と一気に覆され、〈この物語を読むのは若い人たちなのだ。若い人のほうが正しいのかもしれない〉と翻意したという(326-327頁)。

とはいえ、三笠書房から出た最初の版のカヴァーには、
〈どうひいき目に見てもアンとは似つかない、金髪の、しかもとても深刻な顔をしている少女が描かれて〉
いたという(328-329頁)。
これは村岡花子自身が、モンゴメリ作品と出会う前からかかわっていた少女雑誌《少女の友》のバックナンバーに載ったラルフ・ピーコックの「エセル」という絵を流用したものらしい。
〈花子は少女たちのために希望をかけて取り組み、時代を共に歩んだこの雑誌から、そっと「エセル」を連れ出し、『赤毛のアン』の表紙に飾った。おそらく『少女の友』の愛読者世代がこの物語を手にすることだろう。苦難の時代を共にくぐり抜けたかつての少女たちへ愛をこめて〉。

 それでは、1897年に制作された、赤毛でもなくアンでもない、たぶんカナダ人でもない、ブロンドのエセルの絵を、ロンドンのテイト・ブリテン公式サイトで見てみましょう。こちらです。
…………オリジナルキャラですか? 『赤毛のアン』ってゴシックホラー?
そっと連れ出し、というよりはむりやり拉致してきたようにも思えます。村岡花子にとっては赤毛はホントにどうでもよかったんだ……。
編集部も翻訳者の訳題案を覆して『赤毛のアン』に変えさせた割には、この表紙はOKなんですね。当時の子どもは混乱したんじゃないかな、赤毛ってこういうのをいうのかって。

日本語訳『赤毛のアン』刊行は『花子とアン』後半か終盤の山場だろうから、どう処理してくるのか楽しみです。
ここを原案(史実)に忠実にやったら、脚本家もプロデューサーも尊敬します!
……ないよね……。
(千野帽子)
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