ドゥルーズ=ガタリが提示した最も斬新な概念は「リゾーム」であろう。
この比喩的な含蓄を持った用語は、この著書「千のプラトー」の中で用いられた。
実際は、グレゴリー・ベイトソンが『ナーベン』という、パプアニューギニア の少数民族イアトルム族に関する調査記録論考の中で最初に提示されたものとされる。
ベイトソンの認識論の原点である「関係性」という言葉を説明する際に、「根茎(リゾーム)」という言葉を持ち出して、あるものがまったく別のものと意外な関係の糸に結ばれているという状況をあわらすキーワードとしたとされる。
比喩として見れば、「関係性」というものは本来、植物の根が単一に固定するというのではなく、地下茎が網目状につながり合うようなイメージで用いられるものではないかとベイトソンは考えたのである。
西洋の伝統的な形而上学は、演繹的な樹状構造を基とする存在モデルとそれに対応する思考形態をとってきた。
ドゥルーズ=ガタリは「リゾーム」という概念によって、網目状のネットワーク的「関係論」モデルを提唱する。
その様態は特定の中心を持たず、異質なもの同士がそれぞれ互いにドラスティックかつフレキシブルにつながり合いながら、始まりも終わりもなく、多方向にわたって重層的に錯綜しつつ「ノマド」的に拡張してゆく。
「定住民」的な視点ではなく、「遊牧民(ノマド)」的な視点からあらゆる現象、事物を捉え直すこと。
そこには、「階層構造(ヒエラルキー)」によって大きな体系を構築し、そこに適合されないものはすべて排除するという西洋の伝統的な思考異議申し立てをして、発想の根源的な(文字通り「ラディカルな」)転換を企てようとする意図がある。
はてさて、「リゾーム」とは「つかみどころがない」という性質自体を特徴にした発想である。
主体も客体も特定できない多元的多層的な運動体であり、それ自体「内」と「外」という二項対立的なものの見方を拒否するものであるため、「境界設定」によるアイデンティティに基づく従来の世界認識から解放されており、常に流動的に性質を変えることなしには存在し得ないシステム(「存在する」とか「システム」 とかいう概念さえ当たらない概念かもしれない)である。
そこには安定した構造は成立し得ず、要素間の「機能連結」もなく、ただ単に「差異」を生み出し続けることのみを自己目的的に希求する「運動」だけがあるだけ・・・と言っても過言ではない。
この時代のあらゆる領域を緊縛する「コントロールの思想」に基づく「機構」。
それは、それぞれ何らかの「標準モデル(スタンダード)」に準拠して機能している。
しかし、「リゾーム」は「差異」それ自体を生み出すダイナミズムであるため、「標準モデル(スタンダード)」というルールさえ無視し、「機構」の機能する前提さえ無効化してしまう。
そこにはそもそも「機構」に対して反抗し、攻撃を仕掛ける「対立」「反逆」の発想は存在しない。
こうした一切に執着しないアナーキーな姿勢は、従来のパラダイムからすれば、「病理」の次元でしか語り得ないものであろう。
しかし、新たなパラダイムを模索し、立ち上げる過程においては、有効な「戦略」的かつ「戦術」的なヒントになり得るのではないだろうか。
この世界のそこかしこに蔓延する「カオス」的状況の中に「関係」の網状の「運動体」を透視しつつ、閃光とともに炸裂する「戦略」なき「戦略」と「戦術」なき「戦術」とを持って、「コントロールの思想」に基づくあらゆる「支配」とそれに付随する「暴力」に抗する術を見出すことが必要であろう。
この著書の持つ意味は重く大きい。
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千のプラトー: 資本主義と分裂症 単行本 – 1994/9/1
- 本の長さ668ページ
- 言語日本語
- 出版社河出書房新社
- 発売日1994/9/1
- ISBN-104309241514
- ISBN-13978-4309241517
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商品の説明
内容(「MARC」データベースより)
「千のプラトー」は大地や宇宙をつらぬき、非生命の次元にまでその讃歌をとどろかせている…。資本主義のダイナミズムを読み解き、管理社会に対抗するための実践を示唆する、われわれの時代の歴史的唯物論。
登録情報
- 出版社 : 河出書房新社 (1994/9/1)
- 発売日 : 1994/9/1
- 言語 : 日本語
- 単行本 : 668ページ
- ISBN-10 : 4309241514
- ISBN-13 : 978-4309241517
- Amazon 売れ筋ランキング: - 351,745位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
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- - 3,279位思想
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- 2019年8月25日に日本でレビュー済み
- 2022年5月24日に日本でレビュー済み今からもう20数年前。
この本は前巻『アンチオイディプス』とともに、
当時暇人だった私に友人が薦めてくれたので
読了。
そのとき感じたのは、
『なんかよくわからないけど、これは現代だ。今まさに世界はこうなってるんだ。』
とそう感じました。
あれから紆余曲折、
このわけのわからない本の意味が
どうしても気になって、
私はドゥルーズの解説本を
いくつか紐解きました。
大学で
『差異と反復』の
翻訳者、
財津先生の講義を受けられたのも
ありがたかったですね。
先生は当時、
講義室がある建物に
階段しか無いことを
ディスっておられました。
また確かカシオの安っちいデジタル腕時計を
ご愛用しておられました(^^;
さて、話を戻しますと、
つい最近
『レンタルなんもしないひと』
という方のインタビューを
読みました。
曰わく、
この方は社会に出てから
どこで働いても叱られてばかり
でしたとのこと。
そのような、
『社会人としての規範』を
乗り越えて、
『なんもしないひと』として
レンタルビジネスをすることで
成功を納められたことに、
時代がますます
『ドゥルーズ的に』なったことを
思います。
かなり以前になりますが、
槇原さんが
『世界に一つだけの花』を
歌われておられましたときも、
私はそのことを
感じました。
なにを言っているのかというと、
おそらく
このドゥルーズさんの哲学の
要旨は、
。。。。。。。。
①『脱イデア』すなわち、『お手本』となるような『超越的存在』は無く、世界は『内在平面』、すなわち『物質』しかない。
②『物質』しか無いのであれば、世界は『存在』と、存在の表現(※襞!?)である『諸存在者』しかない。
③『諸存在者』は、例えば人が『単なる気候の流れの一部』である『強い熱帯低気圧』を『台風』と認識し、そう名づけるように、分類したり、カテゴリー分けできるような『個物』では無い。一切はとらえどころがなく、お手本も規範となるような存在も無い。
④なので、ありとあらゆる『諸存在者』には、上下となるような『階級』は存在しない。私のよだれ、子どもの笑い声、ドゥルーズ大先生のお写真とサイン、産まれたばかりの赤ん坊、これらに『価値的な』差異は無い。
これは、言いかえれば『残酷なまでの博愛主義』とでも言えようか。
なお、
小泉さんが書いた
講談社現代新書『ドゥルーズの哲学』では
このことを『僕らはみんな生きている』と
表現したのだと、そう思われる。
⑤『超越』が無いので『不滅の霊魂、魂』は否定される。よってその『諸存在者に対する絶対的な平等観』により、我々人間ですら『諸機械』となる。ただしこれは、先ほど書いた『台風』のメタファーのように、ありとあらゆる諸存在者とのつながりのなかでしか一時的に存在できない、自立など無い初めから壊れかけている儚い機械である。
。。。。。。。。
とまぁいろいろと
アツくポエムっちゃったけれど、
つまるところ私はドゥルーズの思想は
少なくとも自分の中では卒業しておりまして(^^;
ドゥルーズ哲学の問題点は、
差異を強調するあまり
超越の存在を小さくしすぎたことかと、
僕はそう思います。
なぜかというと、
国語辞典を開けばわかるとおり、
ありとあらゆる『存在』は、
『なにかが《同じ》』でないと
成り立つことができません。
けれども、
内在(物質)ばかりを追い求めると、
確かにそこには『違い』しかない。
例えば『水素』の中にも『重水素』があったり、
分子、原子、陽子、クォーク!? etc.。。。
けれども、もし、もしも
この世界には『違い』しか存在しないのだとしたら、ありとあらゆる諸存在者は
『まったく存在しない』
もしくは
『まったく認識できない』
そう思いませんか?
ちょうど、ミヒャエル・エンデさんの
『果てしない物語』に出てくる、
『虚無』のように。。。
なので、
やっぱり『超越』はあるんです、
もちろん多くの人間を苦しめてきた
『規範』や『メートル』『キログラム』などとは違ったかたちで(^^;
だもんで
僕の最近は
『聖書』です(^^;
ま、人によっては
『ファンタージェン』でも良いのかもしれませんね(^^;
なんて不謹慎かもしれませんけど(^^;
けど
ここに至る過程において『ドゥルーズ哲学』は
僕にとっては大変有用でした!
どういう事かと言うと、
ドゥルーズさんのご著作読むと
なんか力が湧いてくるんですよね(^^
ああ、
僕生きてても別にいいんだって。
とまぁ
そんなこんなで
卒業はしちゃったけれど、
ドゥルーズさん
どうもありがとう☆
2022/5/27追記)
これ企業活動もドゥルーズ哲学に
似てるように思えちゃうんですよね(^^;
例えば『コーラ会社』という業界共通の
『イデア』があると良いんですけど、
ペプシにしろコカ・コーラにしろ
ドクター・ペッパーにしろ、
常に
『価値を生み出すための企業努力』
を続けているんで、
『似てるんだけど、共通には括れない』
だったりするんですよね
(^^;
じゃあ各社はなにやってるの?
と言いますと、
例えば『緑茶』で
トップの会社とか
あったりすると、
『M&A』とかして
買収しちゃうんですよね(^^;
つまるところ
新たな価値を生み出すために、
いろんな会社の
いろんな良いところを
『合成』しちゃうんですよねぇ。。。(;'∀`)
これ、
これまでの企業活動の『伝統』から
徐々に徐々に進化・改善するんではなくて、
M&Aでパクった独自技術に
自分たちの文化・伝統を
プラスアルファして
『新たな価値』を
作り出しちゃうと(;'∀`)
だもんで
ほんに現代って
生物進化の
『突然変異理論』っぽい
世界観の世界線。。。
のように、
ボクには
どーしてもそういう風に
見えちゃうんだよなぁ
。。。(;'∀`)
ま、経済のことなんて
ボクぜんぜんまるっきり
わからんけどね。。。(;'∀`)
2022/5/28さらに追記)
存在は存在だ
どんなものも存在だ
優劣やランク付けは
要らない
とまぁ
あっしの理解では
たぶん
このよーなご主張だったんですな、
ドゥルーズたんは。(;'∀`)|||
- 2018年2月8日に日本でレビュー済みこのミル・プラトーでそれぞれの年代とそれぞれの固有名詞を表題とした平滑空間における彼ら固有の概念群の開示は見事と言うほかない。
あえて言うならミル・プラトーに足りなかったものとは開示された平滑空間上のそれぞれの機械圏がその力動の極限に達する時、高速の自動性を得て一点に折り重なり臨界を造るということだろう。
臨界とは限界ではない。
それはある一点に集約重合したものがまた果てしなく微分化されていく通過点にすぎない。
この宇宙はある特異点から始まり、また特異点で終わるだろう。その特異点、それはまた始まりとなる。
ミル・プラトーの野望とはこの宇宙の内在的な機械とその力動性を表記すること。
ならば概念群=自動制御の機械圏がその力動性の臨界に達した様をもっと描いて欲しかった。
主観も客観も無い光速の力動性の自動制御の世界。
そこでは精神は瞬時に物質に生成し、物質もまた瞬時に精神に生成する。
ミル・プラトーとはドゥルーズ/ガタリをもって最強最速にアップデートされたスピノザの「エチカ」なのだから
今でも盲信されて止まない唯心/唯物の2元論を軽々と越境する。平滑空間における運動とは概念=カテゴリーを越境して止まない運動だからである。
しかし、このミル・プラトーはアンチ・オイディプスほど反響を得なかった。
それはアンチ・オイディプスよりも余りにも抽象性/抽出性の高い概念表現を具体化しているが故に現実の政治的な野心は欠いたものと受け取られたからだ。
勿論、そんなことは無い。
未来の最強最速のエチカを得る為の基礎理論を見事に構成し終えているのだから
スピノザの構成した強固な内在平面の運動を現実の平滑空間に延長展開したこと、その哲学的な偉業は揺るぎない
ミル・プラトーを何かリジットな哲学の為の哲学内における哲学書として捉えるならそれは大いに間違うことになる
表記されているのはあくまで現働化された平滑空間においての運動と生成変化なのだから
- 2014年2月26日に日本でレビュー済みAmazonで購入少し本文に乱丁がありました。具体的に言えば本のページに折れ目が多数あるということです。
- 2019年9月17日に日本でレビュー済みこの本に出会わなくても人生は変わらない。
でも、出会ってしまったら、最後まで、そして繰り返し読まずにはいられない。
ドゥルーズ=ガタリは、この本で数学の概念を多用しているが、彼らはその概念を正確に理解し、注意深く使っている。
読み手を選ぶ良書。
- 2012年4月10日に日本でレビュー済み「アンチ・エディプ」に比べたら、何か決定的に新しいことを言おうとしているってことだけは茫漠と分かるが、それは一種のオカルトではないかという気もしないではない。少なくとも論理的に読めるものではないし、何について語っているのかも分からない。学問的意味はゼロ。