「それぞれの人の仏教」と有ります。
なんどか読み返してみたいと思います。
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はじめての唯識 単行本 – 2001/10/1
多川 俊映
(著)
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- 本の長さ272ページ
- 言語日本語
- 出版社春秋社
- 発売日2001/10/1
- ISBN-104393135040
- ISBN-13978-4393135044
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商品の説明
内容(「MARC」データベースより)
仏教の諸教学の中でも唯識は特に、煩悩から悟りへの深層心理的な過程を明快に解明して、現代的な魅力をもつ。難解とされる学説の要点をわかりやすく解説した入門書。89年刊「唯識十章」の改題・増補・新装版。
登録情報
- 出版社 : 春秋社 (2001/10/1)
- 発売日 : 2001/10/1
- 言語 : 日本語
- 単行本 : 272ページ
- ISBN-10 : 4393135040
- ISBN-13 : 978-4393135044
- Amazon 売れ筋ランキング: - 602,706位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- カスタマーレビュー:
著者について
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カスタマーレビュー
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上位レビュー、対象国: 日本
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- 2018年2月11日に日本でレビュー済みAmazonで購入唯識を知りたくて何冊か本を買った。いずれもいい本だが難しい。分かり易いのを探していた。この本は唯識を学ぶにあたって最初に読む本だと思う。阿頼耶識、末那識、六位五一心所など基本的なことが分かり易く述べられている。唯識を完全に理解することは凡夫にとって難しいと感じているが、この本を読めばその全体像がおぼろげながら見えてくると感じた。
仏教は宗教でなく心理学だという人がいる。この本を読めばその意味も少しは分かったような気になる。
- 2005年3月30日に日本でレビュー済みAmazonで購入本書の存在は小室直樹の「日本人のための宗教原論」の引用で始めて知った。その中で唯識(唯識所変)とは我々の心こそが物事を作り上げ、決定しているのだと言っている。
また、その理論は行動心理学および精神分析学に喩えるとわかりやすいとも。それほど理論体系ずけられた教義であり、末那識(まなしき)・阿頼那識(あらやしき)など耳馴染みのない言葉も多く難解な内容を奈良・興福寺貫主がわかり易く身のまわりの事例なども引用しながら噛み砕いて解説されている。識という教説より仏教原論を理解するうえで最適の一冊ではないだろうか。
- 2018年5月3日に日本でレビュー済みAmazonで購入唯識の本は何冊か読みましたが、かなり難しく、これならなんとか?と思ったのですが、やはり難しい。はじめてと言ってますが、簡単ではありませんね。ゆっくりと何度か読みます。
- 2010年4月2日に日本でレビュー済みAmazonで購入佐藤優が本書を紹介しているのを読んで手に取る機会を得た。
一点目。
唯識仏教とは 人間の意識を高度かつ詳細に渡って分析する哲学である点が良く分かった。日常の中で自分の意識の動きというものを当たり前だとしか思ってこなかった僕にとって、本書で分析される「人の認識の仕方」に関しては目から鱗が落ちる思いがした。また、かような思考が2000年以上前になされていたという事実には驚嘆した。
二点目。
そんな分析から見えてくる自分自身の「意識」の「力」と「どうしょうもなさ」を強く感じた。
本書が説く僕らの認識とは、どうしょうもなく自分の我執と偏見に満ちたものになっている。目の前の事物に関しても、それを見る際にはかならず自分の「意識」と「無意識」というフィルターが掛かってしまう。しかもそれに気がつくことは難しい。
かくて、そのような不透明な眼でしか眺められない世界というものを、一体自分としてどうしたらよいのか。そういう一種の無力感すら感じさせられるものがあった。
三点目。
仏教とは高度な哲学であるという思いを深くした。高度な哲学が宗教足り得るのかという質問が心に浮かんできている。これに対しては、現状自分なりの答えは出せないことも確かだ。今後十年から二十年掛けて本を読み、考える時間が有ったならば、ぜひゆっくり考えていきたい。
- 2009年7月28日に日本でレビュー済みAmazonで購入仏教系の高校に学んだものとしては、いかに特定の宗教に信仰心が皆無としても、本書の凄さは何となくわかる。平易しかも達意の文章が、まず持って見事! 文章の論理的なこと。それはおそらく仏教という最も科学的な宗教を、著者が極めているからであろう。
中身に就いては云々できる素養は当方にない。読者それぞれが三読四読、十年かけて読んでもよかろうし、本書から派生して、他の専門書にドンドン読書は深まって行くだろう。
第1章冒頭に説かれる「大隠は市井に遁る、小隠は山中に遁る」に深く感銘を受けた。これは大いなる希望ではないだろうか。人間的完成、その過程としての人格の陶冶は、悟りきった孤独な苦悩ではないのであると評者は受け取った。いま己が生きているこの現場、様々な人間が居て、様々な苦悩や喜びが交差するこの市井にこそ、人間理解の要諦があるのだ。そして、そこにこそ本当の「自分探し」の意味もある。自己などというものは、社会におけるアクションやビヘイビアを通じてしか理解し得ない。感得できない。
但し、市井の喧騒において、その喧騒が気にならないというレベル(「心遠ければ」の境地)に達するまで、厳しい修行が不可欠ではあろうが・・・・。
そこはそれぞれの読者が犀の角がごとき歩みで生き、熟考するほかなし。
それにしても、理解するためには永年の修行と猛勉強を要するらしい唯識の概要とキモが、評者のような読書スピードが極めて遅い者にも5時間くらいでつかめるようになるから、本書は絶賛に値しよう。
- 2011年5月6日に日本でレビュー済み『認識と超越−唯識 <仏教の思想 第4巻>』第一部(服部正明著)によって、唯識思想の生まれた当時のインドの文化的背景(初期ウパニシャッド、ヴェーダーンタ哲学、サーンキャ哲学)と仏教史で辿る唯識思想の変化を把握してから、本書を読んだ。
本書は入門書ではない。しかし、マニュアルのような羅列的な説明ではなく、論理の流れに従って項目を取捨選択して説明しているので、上記したような入門書で用語や思想に慣れておけば、膨大な唯識体系のエッセンスが驚くほど簡単に理解できる。その意味で本書は名著である。
唯識誕生時の文化的背景を理解することが重要なのは、唯識思想がブッダ釈尊の教法と本質は何も変わらず、表現方法が時代に応じて変化しただけ、ということが理解できるからである。例えば、ブッダ釈尊が創始した「四念処法Anapanasati」は、身念処、受念処、心念処、法念処からなるが、八識心王との対応が、<身念処⇔前五識、受念処⇔第六意識、心念処⇔第七末那識、法念処⇔第八阿頼耶識>となる。また、唯識の五姓各別の無姓有情についても、凡夫に対する釈尊の教導と同じである。実際に、凡夫に対する釈尊の説法の第1段階は「邪見(=因果の道理を否定すること)」の除去を目的とした、(1)「施与慈善の話」(施論=正語の準備)、(2)「戒律道徳の話」(戒論=正業の準備)、(3)「幸福な天国に生まれる話」(生天論=正命の準備)である。第2段階は自己中心的な「我見」を離れることを目的とした「欲の禍患と離欲の功徳の話」(正信論=正見、正思惟の準備)である。これら両段階を理解・共感出来る者に対して、釈尊は八正道を指導し、四沙門果の聖者の悟り(智慧)に凡夫を導くのである。逆に、両段階がクリアできなければ、敢えて教導はしないのである。というより、教導しようとしても業により不可能(時期尚早)なのである。後者の事実を敢えて強調したのが無姓定性なのである。
さらに、空思想から生まれた唯識思想の「三性」についても、龍樹の用語を用いれば、遍計所執性が世俗諦(一般的な真理)に、依他起性が縁起の法に、円成実性が勝義諦(究極的な真理)に対応することが分かる。
このように、仏教史の共通点に気づくことが21世紀の仏教の発展をもたらすに違いない。