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DISCOVER the 90's

90年代にデビューした邦楽アーティストに特化した配信・サブスク化プロジェクト

DISCOVER the 90'sこの時代を彩った名曲たちを随時配信!!

90年代にデビューした邦楽アーティストに
特化した配信・サブスク化プロジェクト

DISCOVER the 90's

DISCOVER the 90'sこの時代を彩った名曲たちを随時配信!!

NEW!第28弾アーティスト

Paris Blue

百花繚乱にして非常に芳醇な音楽にあふれた90年代。“DISCOVER the 90's”と銘打ち、ソニーミュージックのアーカイヴから、これまでリイシューされていなかったアーティストを中心に、この時代を彩った名曲たちを随時配信していきます。

Text by 兵庫慎司

Paris Blue

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J-POPという言葉が生まれる直前に、すでに存在したJ-POP

Paris Blue

 え、Paris Blueってソニーミュージックのレーベルでしたっけ? そうか、BMGビクターからリリースしていたけど、その後、そのBMGビクターがBMG JAPAN→Ariola Japanと変わって、Ariola Japanになる時にソニーミュージック傘下になったからか。だから旧譜の管理もソニーミュージックになったんですね。なるほど。

 さて、そのParis Blue。作詞とボーカルの谷口實希と、作曲とコーラスの日比野信午のふたりのユニット。1992年にデビューし、1996年に解散するまでの間に、シングル6作、フルアルバム5作、ミニアルバム2作を残している。このたび各ストリーミング・サービスで聴けるようになったのは、それらすべての作品である。なお、4作目の『Living』には、そのアルバム収録の「新しい私」と「友達のまま」の、別バージョンが加えられている。

 僕は1991年から働き始めたので、Paris Blueがデビューした時、もう音楽雑誌の編集部にいた。なので、詳しくは知らないが存在は知っている、何曲かは聴いたことがある、くらいの感じだった。
 で、女性が詞を書いて歌い、男性が曲を作るふたりユニットであることや、アーティスト写真やMVのたたずまいなどから、なんとなく、渋谷系のムーブメントの中から出て来た一組、みたいな印象を持っていた。
 渋谷系って、4人組とか5人組のバンドよりも、男性ふたりとか男女ふたりとかの、いわゆるユニット的なアーティストの方が多かったのもあって、そう捉えていたんだと思う。
 が、このたび聴き直して、それ、だいぶ間違っていたことがわかった。そもそも1992年にデビューしている時点で、渋谷系よりも前だし。
 いや、大きく捉えると、渋谷系と見なしても当てはまっていなくはない部分もあったかもしれないが、そのカテゴライズだけでは全然収まらない、深さやユニークさや鋭さを持っている音楽だったことに、気がついたのだった。

 渋谷の輸入盤屋に並んでいる、イギリスやアメリカやフランスやスウェーデンなどの音楽を、そのままトレースする。音を日本仕様に作り変えたり、歌詞を日本語にしたりしない。というのが、ざっくり言うと渋谷系の特徴だったが、Paris Blueはそうではない。
 谷口實希の書く歌詞は、基本どれも、女性視点の、一人称のラブソングである。歌唱方法は、ハイトーンとかブラック・ミュージック系とかではなく、この年頃の女性の、普通の声で歌うスタイルである。
 で、日比野信午の作る楽曲は、その日本語の女性視点のラブソングが無理なく載せられる、コードに対してもリズムに対しても自然にスッとなじむ、ポップで軽やかなメロディである。
 そして、キャリアの前半は主に岡本洋、後半は主に日比野信午が手掛けているアレンジメントは、各楽器の入れ方、各音色の選び方、音の重ね方、展開の作り方などなど、どこを見ても……いや、「聴いても」か、とにかくどの曲も、広いジャンルのポップ・ミュージックを知り抜いていないと作れない、いわゆる手練れの仕事である。

 というわけで。ばりばりにプロの作詞家と、ばりばりにプロの作曲家と、ばりばりにプロのアレンジャーが集まって作った、当時のアイドル・ポップスに近いのではないか、と思うのだ、Paris Blueは。それも相当ハイレベルな。
 ただ、違うのは、アイドル・ポップスは、そうやってプロが作ったものをアイドルが歌うわけだが、Paris Blueは、その「作る」側に「歌う人」も入っている、という点である。あと、その「プロの仕事」の中に、歌っている人、曲を書いている人の「個」が、否応なしに表れているのも、とても重要だと思う。というか、そこも、すばらしいと思う。
 という意味では、ジャンルとかは違うし、音楽的に似てないけど、同じ年代で言うと、当時、森高千里がやっていたことに近いのかもしれない。なんてことまで、考えたりした。
 あと、J-POPという言葉が生まれる直前に、すでに存在したJ-POPが、このParis Blue。という捉え方をしても、おもしろいかもしれない。

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濱田マリ

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ソロ・アーティストとしてもめっちゃ良かった濱田マリ

濱田マリ

    NHK朝の連続テレビ小説『カムカムエブリバディ』(2022年)『マッサン』(2014年)『カーネーション』(2011年)などの多数のドラマ……あ、最初に朝ドラを3つ並べたのは、単に自分が朝ドラ好きだから、というだけですが、とにかく、多数のテレビドラマ、そして映画、さらにナレーションなどなど、「何も出てない時期がない」状態が長年続く、つまり「ずっと売れている」俳優でありタレントである濱田マリは、もともとミュージシャンで、1992年にデビューした大阪のバンド、モダンチョキチョキズ(以下モダチョキ)のボーカリストだった。
     ということはよく知られているが、そのモダチョキが1997年に休止する少し前あたりから、俳優としての活動が本格化するまでの数年間、ソロ・アーティストとして音源をリリースしていたことを知っている人は、モダチョキを知っている人に比べると、ちょっと減るかもしれない。
     モダチョキがソニー傘下のキューンレコード所属だった流れで、モダチョキ活動中だった最初のソロアルバムはキューンからリリース、モダチョキ休止後のソロはポリスターに移籍、という記憶があります。
     というわけで。通算でシングル5作、アルバム2作を出しているうちの、キューンの方=ファースト・ソロアルバム『フツーの人』全11曲と、カップリング曲を含むシングル3作『人の息子』『ひとひと』『フツーで行こう』が、このたびこうして、各種ストリーミング・サービスで聴けるようになったのだった。

     ソロデビュー・シングル「人の息子」は、奥田民生のセカンドアルバム『30』に収録されている、あの「人の息子」のカバーである。歌詞も音もひたすら豪快なあの曲を、森俊之アレンジでオシャレに生まれ変わらせてデビューした、そのさまが当時やたら鮮烈だったので、よく憶えている。
     メロと歌詞は基本的にはいじっていないが、「言わせてもらうよ」を「言わせてもらうわ」「わしらが楽になる」「わたしも楽になる」と、自分が歌っておかしくないように変えていたりするのも、ミソだったりする。
     という「人の息子」以外も、1995年当時のJ-POPの感じ……って、当時もうJ-POPって言葉あったっけ。ギリなかったかもしれないが、とにかくそんな当時のさまざまジャンルのJ-POPを網羅するような、バラエティに富んだ楽曲を、のびやかに歌う濱田マリを、このアルバム1作とシングル3作では、満喫することができる。
     作家陣は、歌詞はほぼ自分で、作曲や編曲は、藤井麻輝、森岡賢、菊地成孔、ヒックスヴィル(演奏も)、石井裕樹など、森俊之以外も、一癖も二癖もあるクリエイターが集まっている。
     アルバム6曲目の「わたしいのしし」は、本人とECDの共同作曲だったりして、当時の日本のヒップホップにも目配せが効いている。
     なお、8曲目「祝歌」は作詞作曲が本人で、しかもゴスペラーズ&河村光司によるアカペラ・アレンジ。
     総じて、「こういう方向で行こう」とか「このジャンルの女性アーティストになろう」とかいうのではなく、「今やりたいことやれることを全部やろう」みたいなテイストのアルバムで、聴き通すのがもう、大変に楽しい。
     こんな自由な作品になったのは、モダチョキがまだ活動中だったことも関係あるんだろうか。あるんだろうな。休止後にポリスターから出た『編む女』は、もっとフォーカスが絞られた音楽性になっていたし……これもまだサブスクにないんだよな。なんとかしていただけませんでしょうか、ポリスターさん。

     あ、サブスクにないと言えば、そもそもモダンチョキチョキズが、まだサブスクにないんだった。関わったメンバーの総数が「リーダー(矢倉邦晃)も把握していない」というくらい多かったバンドなので、権利関係とかをクリアするのが大変すぎるのだと推測します。中には亡くなっているメンバーもいるだろうしなあ。なんとかして出してほしいですが。
     なお、モダンチョキチョキズは、2020年以降、年に一回くらいのペースで、不定期にライブをやっている。2023年9月には、27年ぶりの新曲「きんかん」をデジタル・リリースした。そこで聴ける濱田マリの声、少なくともファースト・ソロアルバムから30年近く経っているのに、不思議なくらい、瑞々しいままです。

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ホブルディーズ

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現在の「日本のパンクのスタイル」の源流のひとつ、かも

ホブルディーズ

    90年代にソニーミュージック・グループからリリースされたアーティストの音源が、権利関係のクリア等の手続きを経てストリーミング上にアップされる、その際に解説のようなものを書く──という、この仕事の依頼を4年前に受けた時、その90年代に、自分がインタビューしたり記事を書いたりしていたバンドたちの音源が、もうアップされているかどうかを、まず最初に調べた。
    たとえばそれがThe Changだったり、ザ・カスタネッツだったり、ロッテンハッツだったり、the chewingum weekendだったりするわけだが、それらの中で「まだこないな」と、心の中で、長年待ち続けてきたバンドがいる。
     それがこのバンドです。ホブルディーズ。1989年、長野県で結成。1990年、NHKのコンテスト「BSヤングバトル」の関東甲信越大会で、時間オーバーで失格になるも、審査員特別賞を受賞。おそらくこの時にマネージメント=ジャグラーとの接点ができたのだと思われる。
     そしてジャグラーに所属し、当時同じジャグラーのザ・ブルーハーツの真島昌利のソロがソニーだった縁もあって……って、どちらもただの推測ですが、1992年12月にシングル「オウムの唄」で、ソニーからメジャーデビューする。
     以降、1994年8月21日リリースのシングル「SONG FOR YOU」を最後にソニーを離れるまでに、シングル4作、アルバム3作をリリースしている。あ、ファーストアルバム『フロンティア兄弟と大富豪』は、6曲入りで実質ミニアルバムだが、当時はアルバムという扱いだった。なんでだっけ。まだミニアルバムという概念がなかったんだっけ、音楽業界に。
     なお、それらのソニー時代の作品のほとんどは、プロデュース/共同編曲を白井良明が手掛けている。それから、メジャーデビュー翌年の1993年には、ボーカル&ギターでありこのバンドのソングライターである市川武也が、宮沢りえに「赤い花」を提供、バンドごと演奏にも参加して、シングル・リリースされた。
     当時は、市川武也、ウッドベースの小島誠、ドラムの塩入文彦の3ピース編成で、全員1968年生まれ。私、同じ学年です。デビューするということでソニーのスタッフに誘われて、最初に原宿ルイードでライブを観た時に「嘘ぉ! 全然年下にしか思えん!」とびっくりしたので、よく憶えている。
     もうひとつ。そのライブ、演奏も歌も何もかも、めちゃくちゃ荒くて粗かった。で、終わったあとに、ソニーの宣伝の偉い方に「びっくりしたでしょ? 私も最初に観た時は途方に暮れましたよ、はっはっは」と言われて「『はっはっは』ってあなた!」と驚いたので、それをそのまま誌面に書いたのも憶えている。書くなよ。
     主人公を設定した物語調で市川武也が書く、シンプルだが実は今の世を描いていたりする歌詞。同じく童謡のように明快だが、強く耳にひっかかるメロディ。当時、日本では(少なくともオーバーグラウンドでは)めずらしかった、カントリー&ウェスタンやトラッドやロカビリーを、パンクとミックスしたような……って、そうか、「パンカビリー」って言えばいいのか。「サイコビリー」かも。とにかく、そのようなフックたっぷりなサウンド・プロダクト。
     いずれも当時、とても新鮮だった。で、このたび聴き直してみてもやはり新鮮、というだけでなく、「こんな挑戦的なソングライティングをしていたのか」とか「こんなおもしろいアレンジをやっていたのか」ということが、改めてわかったりする。
     メジャーデビューしても長野在住で普通に働いていたりして(確か市川武也は植木屋だった)、ソニー&ジャグラーの所属にもかかわらず、メジャー意識/プロ意識がない、というか「持ってたまるかそんなもん」みたいな人たちだったこともたぶんあって、前述のようにまずソニーとの契約が終わり、しばらく事務所にはいたが(その頃にもインタビューをしたことがあるので憶えています)、それもやめて、1995年頃から活動休止する。
     そして、1998年に新メンバーふたりを加えて活動再開したことは、当時は知らなかったのだが、それから数年が経った頃、このバンドの名前をまたきくようになって知った。
     どこで。たとえば、MONGOL800などの人気バンドが、対バンやゲストとして、彼らを呼んだり。トリビュート・アルバムやオムニバスアルバムに、何作も参加していたり。つまり、実は、主にパンク・シーンの後続のバンドたちに影響を与えていたり、一目置かれていたりする存在だったのだ、ホブルディーズは。ということを、それらの事実によって知りました、私。
     オリジナル・メンバー3人に、アコーディオンの池田恭子とティンホイッスルのビースケが加わった5人編成で、バンドは現在も活動中。2011年、2015年、2021年にリリースしたアルバムも、各ストリーミングサービスで聴けます。
     あとひとつ。バラードがすさまじくいい、というのもこのバンドの特徴なので、プレイリストに「花咲く街で」と「星になった最後のヒーロー」の2曲を入れました。

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ゴンザレス三上/チチ松村

ゴンザレス三上
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チチ松村
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ゴンザレス三上とチチ松村、1993年の初ソロアルバムはこんな作品でした

ゴンザレス三上/チチ松村

    1978年結成、1983年デビュー、なので結成45年・デビュー40年を超えた現在も、ゆるやかながらもしっかりと活動を続けている、ゴンザレス三上とチチ松村のインストゥルメンタル・ギター・デュオ、GONTITI。
    デビュー・アルバム『ANOTHERMOOD』(1983年)は、ポリスターからのリリースだったが、セカンド・アルバム『脇役であるとも知らずに』からエピック・ソニーに移り、以降2000年まで在籍した。なので、GONTITIといえばエピック、という印象が強いです、私ぐらいの世代(1968年生まれ)だと。2001年にポニーキャニオンに移ったが、2008年からまたエピックに戻っているし。
    ただし、2018年に出た7年ぶりのオリジナル・アルバムである結成40周年記念作品『「we are here」-40 years have passed and we are here-』は、またポニ−キャニオンのリリースである。その4年前(2014年)に、GONTITIが手掛けた是枝裕和監督の映画のサウンドトラック3作品分を1枚にまとめたアルバムが、ポニーキャニオンからリリースされていて(是枝映画は、いつもフジテレビが製作に入っているので、そのグループ企業であるポニーキャニオンから出たのだと思われる)、その関係で『we are here〜』も同社から出ることになった、のかもしれません。そんなことを丁寧に推測してどうする。
    まあとにかく、いずれにせよ、そんなふうに(どんなふうだ)発表されてきたGONTITIの作品は、現在すべて各ストリーミング・サービスにあるのだが。1993年と2007年の二回、同時にリリースされた、ゴンザレス三上とチチ松村それぞれのソロアルバムのうち、In The Garden Recordsから出た2007年の方は聴けるが、1993年にエピック・ソニーから出た方=ゴンザレス三上の『gate of notion』とチチ松村の『ふなのような女』の2作は、これまで音源がアップされておらず、聴くことができなかったのだった。
    というわけでこのたび、その2作が晴れて各ストリーミング・サービスで聴けるようになったことを、まず喜びたい。

    ゴンザレス三上の『gate of notion』は言わば、ギターに縛られない(主に)インストゥルメンタル・ミュージック集。
    GONTITIと近いくらいギターがメインの曲もあるが、ピアノやホーン等、ギター以外の楽器が中心の曲もある。
    それから、さっき「(主に)インストゥルメンタル・ミュージック集」と書いたが、後半1/3くらいに歌が入っている曲もあるし(dip in the poolの甲田益也子が詞を書いて歌っている)、正面から歌ものの曲も3曲入っている(かの香織と、小川美潮と、工藤順子作詞でゴンザレス三上本人が歌っている曲)。それから、1曲目は女性のイタリア語のナレーション、SILENT POETSと共作したラストの曲は、複数の女性の日本語の会話が、曲の主軸になっている。
    ダブ、ジャズ、R&B、どれでもあるがどれでもないような、それこそインストか歌ものかにもこだわっていないような……このアルバムが出た数年後から、一般的に使われるようになった「ラウンジ・ミュージック」という言葉をここで用いると、安易だろうか。
    でも、そのあたりに近い感触がある。当時、ドイツに、まりん(砂原良徳)やFantastic Plastic Machineなどの日本のアーティストの作品もリリースしていたBungalowというレーベルがあって、当時そこの12インチよく買っていたのを思い出した、この作品を改めて聴いていて。

    そして、チチ松村の『ふなのような女』は、全10曲とも本人が歌唱しているアルバムで、作詞は全曲本人、作曲は8曲が本人で2曲がゴンザレス三上。本人は一切ギターを弾いておらず、作詞作曲と歌に徹している。パリでレコーディングされており、彼の地のクラシックの指揮者であるマーク・マーダーに、編曲と指揮を託したそうである。
    なので、テイストとしては、シャンソン感・クラシック感・パリ感、あり。でも、フォーク感や、ブルーズ感や、そこはかとないクレイジーキャッツ感もある。曲によっては、憂歌団と相通じるものもあったりするのは、影響とかではなくて、この世代の関西ミュージシャン共通の、というか「ならではの」感じなのでは、と推測する。チチ松村と木村充揮、どちらも1954年生まれで、どちらも大阪出身なので。
    ずばり「僕のシャンソン」という曲も入っているように、このアルバムは、「チチ松村のシャンソン」なのだと思う。それ以外の曲を聴いてもそう感じるし。メロディをそっと形にしていくようなチチ松村のボーカルは、どの曲でも、どの楽器にも心地よくなじんでいながら、どの曲でも、どの楽器にも「食われない」強さを、同時に孕んでいるし。
    なお、2曲目・4曲目では、CHARAとデュエットしていて、当時の彼女のボーカルを堪能できる。
    あと余談。僕は中島らもの熱心な読者だったので、彼の親しい友として著書に何度も出てきたり、ユニット「らもチチ」としてラジオ番組をやったり対談を行ったりテレビに出たりしていた、チチ松村という人に、勝手に尊敬の念のようなものを、抱いていたりもします。

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浜崎貴司

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ソロ・アーティスト浜崎貴司のスタートは、ソニーミュージックだった

浜崎貴司

    え? 浜崎貴司がソニーミュージックからリリースしてた時期、ありましたっけ?
    ……いや……そうだ。あった。知らなかったわけではないが、忘れていた、完全に。
    なぜ。ビクター/スピードスターの印象が強いアーティストだから、だろうか。FLYING KIDSはビクターインビテーション→スピードスターレコーズの所属だったし、ソロも、デビュー時はソニーミュージックだったが、その後、スピードスター・ミュージック内のレーベル(空気の底レコード)に移ったし。
    確か、マネージメントも、一時期はスピードスター・ミュージックじゃなかったっけ。FLYNG KIDSのディレクターだった安藤広一さんが、後にスピードスター・ミュージックができた時、初代社長になったので、そのあたりの関係じゃなかったっけ。なぜわざわざ実名を出す。
    で、その後また、本体のスピードスターレコーズに戻ったし……あ、でも、その前に、東芝EMIからリリースしていた時期もあったよな。それは憶えてるな。じゃあなんでソニーミュージックのことは忘れてたのか……って、もういいですね、言い訳は。

    とにかく。そんなわけで、FLYING KIDSも、ソロも、斉藤和義と共作した「オリオン通り」(2004年)も、KICK THE CAN CREWのMCUとコラボした「サーフライダー」(2004年。これ超名曲です)等の楽曲も、小峰理沙と結成したハマザキコミネ(2008年)も含めて、過去の作品はどれも、普通に各種ストリーミング・サービスで聴けるのに、ソロ初期のソニーミュージック時代の音源だけは、ポコッと漏れてしまっていたのだった。
    その時代の作品=『ココロの底』『どんな気持ちだい?』『誰かが誰かに』のシングル3作と、全12曲収録のファースト・ソロ・アルバム『新呼吸』が、このたびこうして聴けるようになって、よかったです。と、素直に思う。

    弾き語りで全国をくまなく回ったり、他のボーカリストたちとの対決イベント「GACHI!」を各地で行ったりしているソロ・アーティスト。解散や休止の時期もあったが、今はバリバリ活動中の、FLYNG KIDSのボーカリスト。寺岡呼人の25周年ライブで集まったミュージシャン仲間がそのままバンドになった、カーリングシトーンズのメンバー(他は奥田民生、斉藤和義、トータス松本、YO-KING)。
    という3つの軸で動き続ける、その歌のすさまじさを誰もが認める国内屈指のシンガー、浜崎貴司は、ソロで始動した頃は、どんな音楽を作っていたのか。
    「初めてソロをやる!」という気合いに満ちた音楽です。
    と、聴き直してみて、改めて感じた。
    ポップであることが軸になりつつも、曲ごとにジャンルや方向性や方法論が異なるサウンド・プロダクト。内省へ向かう力よりも、外に向かっていこうとする力の方を強く感じさせる、強い感情のこめられたリリックと、奔放に放たれていくメロディ。
    実は、まだ方向性が定まっていなかったり、これから進む道の見通しが立っていなかったりするところも、もしかしたらあったのかもしれない。が、そんな未確定な感じまで含めて、前に進もう、何かをブレイクスルーしようという、勢いに、力強さに満ちているように感じる、どの曲も。

    作詞作曲(浜崎貴司との共作)や編曲で、高野寛、白井良明、根岸孝旨、柴田俊文といった、錚々たるプロデューサー陣が参加している。作詞家の田中花乃の名前もある。
    あと、編曲で入っている「HAAS」は、高野寛の変名だと思うが、その「HAAS」と共に「ココロの花」と「瞬間接着愛」にクレジットされている「紀里谷和明」って、あの写真家・映画監督の紀里谷和明よね? 浜崎貴司のジャケット写真を撮っていた記憶はあるが、「作曲」や「編曲」で入っているって、どういうこと?
    そのへん、どういう事情だったのか、他のプロデューサーやミュージシャンなどはどのような人選だったのか、この当時はどんなビジョンを描きながら、これから始まるソロ活動に向き合っていたのか、などなど、できれば今からでも、ご本人にインタビューしたいぐらいである。
    浜崎貴司のオフィシャルサイトで『ハマミチ〜“浜崎貴司ができるまで”』という、音楽との出会いから現在までを振り返るインタビューが、連載されている。
2023年6月11日に第1回がアップ、以降、週イチペースで更新されていて、これを書いている2023年9月28日段階では、第16回=FLYNG KIDSで『イカ天』に出始め、原宿クロコダイルでライブをやったら動員記録を作った、というところまで話が進んでいる。
    この連載が、ソロデビューの時期に差し掛かるまで、待とうと思います。

※この“DISCOVER the 90’s”企画は、最後に10曲選んだプレイリストを付けるのがルールになっていますが、浜崎貴司のソニーミュージック時代の音源は、全部で13曲なので、今回は行いません。
なお、スピードスター時代/東芝EMI時代等のソロ音源や、FLYING KIDSの音源、カーリングシトーンズ等の他の活動の音源も、各ストリーミングサービスで聴くことができるので、ぜひそれらも合わせてお楽しみください。

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大久保海太

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ソロアーティストでありながら、ロック・バンドの魂を感じさせるジェットロックサウンドメーカー

大久保海太

    1977年生まれ、東京都出身。高校時代にバンドを始める。高校卒業後、バンドの結成や解散や脱退をくり返す。「これなら!」という新たなバンドを探していたわけだが、そんな時期に、ソニーミュージック傘下のレーベル、アンティノス・レコードのオーディションに、ひとりで作ったデモテープを送ったところ、合格する。
    1999年4月21日、シングル「パンチ」でデビュー。同年7月20日に、ファーストアルバム『リン』を発表。以降、2002年にアンティノスを離れるまでに、アルバム3作とシングル6作をリリースする。
    『リン』のリリース日である7月20日が「海の日」だったり、「海の日ワンマンライブ」を毎年その7月20日に行うのが恒例化していくなど、自身の名前にかけたアクションも行っている。というだけでないか。ファーストアルバム『リン』は波の音で始まるし、サードアルバム『ROCK MARINE』は「夏・海」をテーマにしたコンセプトアルバムだった。つまり、「海」が、活動全体の軸のひとつになっている、とも言える。
    アンティノスを離れた後は、バンド(OKBQT VERY LIFE、ELEC)を結成して活動したり、ソロに戻って作品をリリースしたり、2011年に新たにCORONA sessionsを立ち上げたりしつつ、現在に至る。今はライブを中心に、ソロとCORONA sessionsの2ウェイで活動している。
    このたび、こうして各ストリーミングサービスで聴けるようになったのは、アンティノス時代の音源。『リン』『ギン』『ROCK MARINE』のアルバム3作品と、「パンチ」「ヴィデオ」「僕等の心臓/カナリヤ」「スウェイ」「旅立ちジェット」「夏は、いつ」の6作品である。なお、配信スタート日は、2023年の海の日、7月17日。『リン』と『ギン』に収録されていた隠しトラックも、今回は曲名が表記されている。配信なので当然だが。

    以上、プロフィールでした。で。
    なんて声がのびる男なんだ。
    と、
    ロック・バンドじゃん。
    というのが、その頃、アンティノスレコードによく出入りしていた僕が、初めて大久保海太の音楽を聴いた時の印象だった。 前者は、ノーブレスで長く声を出せる、という意味ではない。いや、その意味も入っているが、それだけではない。
    なんというか、自在なのだ、歌が。耳に飛び込んできた瞬間に、この人だとわかる声で、どんなメロディでも形にしていく。低い方、高い方、上の方、下の方、右の方、左の方、東西、南北……「なんだ東西南北って」と気が自分でもするが、そんな自在さを持っていて、かつ、破壊力とか突破力とかつきぬけ力とか言いたくなる勢いに満ちている。歌詞がいちいちきっちりヒアリングできるのも大事。というわけで、耳が釘付けになってしまう。
    そして、もうひとつの方、「ロック・バンドじゃん」について。ソロのアーティストなのはわかっているが、アレンジと演奏が、完全にロック・バンドのそれなのである。
    いや、別に、ソロでも普通にいるでしょ、そういう人。と言われそうだ。まあ、実際、ギターとベースとドラムで編曲して演奏すれば、だいたいロック・バンドの音になるもんだが、そういう次元の話ではないのです。もっとこう、がっちりロック・バンドというか、正面からロック・バンドというか、発想がロック・バンドというか、魂がロック・バンドというか。そういう音であり、そういう楽曲だ。つまり、そういうミュージシャンなのだ。
    ということが、この人の音楽の、大きな魅力のひとつになっていると思う。逆に言うと、ロック・バンドの編成で、ロック・バンド然としたアレンジでもって歌って演奏しているのに、ロック・バンドならではのダイナミズム、なんか、全然感じられない。という例、昔も今もゴロゴロいるので。

    このたび聴けるようになった音源で、そんな魅力に満ちた初期の大久保海太の音楽に、触れていただければ。と願う。

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SKAFUNK

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ラジカルで手に負えない「スカパンク以前のスカ+パンク」を鳴らしていたバンド

SKAFUNK

    熊本出身の幼一こと宮崎洋一(Vo.)を中心に、1988年、東京にて結成。1989年、同郷の先輩(杉本恭一、MAGUMI)が所属するレピッシュや、アンジー、POGO等のいわゆる「ポコチンロック」勢のイベントに出演したことで、注目を集めるようになり、その直後にキャプテン・レコード(雑誌の『宝島』が立ち上げたインディ・レーベル)からリリースされた、オムニバス・アルバム『パニック・パラダイス』に参加。
    他に、フィッシュマンズ、KUSU KUSU、ポテトチップス、ムスタングA.K.A.等が参加しているこの作品がヒットしたことによって、さらに人気が上昇。キャプテン・レコード初の年間契約バンドになり、1989年のEP『BRAIN GAMES』と1990年のアルバム『RULE OF PARTY』の、2作をリリースする。
    そしてソニー・レコーズと契約、1991年4月にアルバム『SKAFUNKⅢ』でメジャーデビュー。同じ時期にデビューした、スピッツやthe PILLOWSとツアーを回るなどの活動を行うが、1992年4月に突然解散する。その後、宮崎洋一は、杉本恭一のバンド、the analersや、杉本恭一&The Dominatorsで、ギタリストとして活動。
    その後SKAFUNKは、2001年10月と2011年10月、つまり10年に一回のペースで、下北沢シェルターとに下北沢CLUB 251で、再結成ライブを行っている。後者は、キャプテンからの2作の全曲と、オムニバス収録の2曲と、映像作品でしか聴けなかった1曲を収めた『復刻キャプテン・コレクション』が、リリースされたタイミングだった。
    しかし、その11年後の2022年9月9日、宮崎洋一が亡くなったことを、杉本恭一がツイッターにて発表。ガン等の病気を併発し、数年間の闘病生活を送った末のことだったという。2023年2月26日には、下北沢CLUB251で追悼ライブ『Ric Fest.at 251』が行われ、水戸華之介、MAGUMI AND THE BREATHLESS、杉本恭一&The Dominators、analers、SKAFUNKが出演。今回のこの『SKAFUNKⅢ』の音源が、各ストリーミング・サービスで解禁になったのは、そのタイミングで、ということである──。

    以上のプロフィールは、2011年8月11日、つまり二回目の再結成のタイミングでRooftopのウェブにアップされて、現在も読むことができる、音楽ライター中込智子による宮崎洋一のインタビューを、力いっぱい参考にして書きました。ありがとうございました、中込さん。学生の頃から読んでいたライターの大先輩ですが、後に同僚になった時期もあります。ご無沙汰してます。
    で、ここから自分の話。そんなSKAFUNK、もちろん存在は知っていたが、詳しく把握してはいなかった。「レピッシュの後輩」「音もレピッシュと共通点ある」「TVKのイベントに、電気グルーヴやムスタングA.K.A.や16TONSあたりと出ていたのを、テレビで観た記憶がある」「それ、バンドブームの主流だったビートパンクとは違う、ダンス・ミュージック寄りの新人ってことで、一緒にブッキングされたんだろうな」というくらいしか、知らなかった。
    なんで知らなかったのかは、当時私は、このあたりの音に疎かったからです。なんで疎かったのかに関しては、前回ここで紹介したムスタングA.K.A.の時に書いたので、くり返しません。

    というわけで、このたび初めて『SKAFUNKⅢ』を聴いたのだが。いやあ、人気出るわ、こんなのが当時いたら。と、素直に驚いたのだった。
    先に名前を挙げた、レピッシュやムスタングA.K.A.等と同じジャンルの、スカやダブとパンク・ロックをミックスした音楽性だが、他のバンドたちと比較すると、パンクの色が、より強く、より激しく出ている。ヤンチャな……いや、「ヤンチャ」ってほどかわいくない。もっと制御不可能で手のつけられないものを感じる、音にも歌にも。無邪気な子供ならではのかわいさ、じゃなくて、無邪気な子供ならではの残虐性、というか。宮崎洋一が「幼一」と名乗ったのは、そのあたりに自覚的だったからじゃないか、という気もしてきた。
    これよりだいぶ後だけど、オアシスが出て来た時、リアム・ギャラガー、怖かったじゃないですか。「話せばわかる人じゃない」感がおっかなくて、そこにたまらなく惹かれるものがあったじゃないですか。というのと、ちょっと近いような気がする。
    しかし、書いていて気がついたが、レピッシュもSKAFUNKも、スカやダブとパンクが合わさっているけど、後に出て来た、いわゆるスカパンク、もしくはスカコア、ではないですよね。というのもおもしろい、今になると。スカパンクは、スカ+メロコアだからああいう音だけど、レピッシュやSKAFUNKのパンクは「メロコア以前」のパンクだからだろうな。

    あ、SKAFUNKに関して知っていたこと、あと3つあった。
    まず、二代目のギタリストは、後にJUDY & MARYに加入して大活躍するTAKUYAであるということ。というか、「あ、ジュディマリに入ったギター、SKAFUNKの人じゃん」という認識だった、当時。
    ふたつめは、ベースの立川晋は、解散後スタッフ側に身を移し、ソニーのSDを経て、GOING UNDER GROUNDがデビューする時にそのマネージメントを設立、社長として長く共に活動したこと。私、ゴーイングとよく仕事をしていたので、知っていました。
    そして3つめは、SKAFUNKのMVの制作をした映像会社で、当時電気グルーヴを始めたばかりだったピエール瀧が働いていて、そのSKAFUNKの撮影現場に、ADとして行っていたこと。さっき書いたように、その直後に、共演することになるとは。

※注:この「Discover 90’s」の解説テキストは、毎回最後に10曲選んだプレイリストを作って、付けていますが、SKAFUNKはアルバム1作で11曲なので、造りませんでした。

※注:バンド名の「F」は正式には「F」に「/」

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ムスタングA.K.A.

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1991年、レベル・ミュージックとしてのスカを日本で鳴らした存在──ムスタングA.K.A.

AKA

    非常に個人的な話で恐縮ですが。自分の人生において、「あの時期もっとちゃんとあれを聴いておけばよかった」とか、「あのバンドのライブ、観ておけばよかった」というような後悔は、それはもうたくさんあるのだが、その中のひとつに、バンドブームの時代の前後に出て来た、いわゆるスカやダブの要素を取り入れたバンドの良さを、当時の自分はよくわかっていなかった、というのがある。
    中学生の頃から20代が終わるくらいまで、ギターとベースとドラムと歌だけのロック・バンドが好き、ホーンはもちろんできれば鍵盤も入ってほしくない、みたいな、極端に狭い趣味嗜好だったのだ、自分は。
    90年代の後半に、ハウスやテクノ等のクラブ・ミュージックも聴くようになり、そこから遡って、ディスコやファンクやR&Bを聴くようになり、ヒップホップやスカやダブも……というふうに趣味が広がって、ようやくわかるようになった。 つまり、目覚めたのがものすごく遅かった、ということです。そんな奴が音楽ライターなんて仕事をしていていいのか。と、自分でも思う。

    ゆえに、バンドブームの頃に普通に聴いていた、レピッシュやフィッシュマンズも、「げっ、こんなにラジカルなことをやっていたのか」と、ちゃんと気がついたのは、ずいぶん後になってからだった。
    バンドブームよりも前の時代、たとえば、じゃがたらも、ミュート・ビートも、当時は「なんかすごく尊敬を集めている」という知識はあったが、聴いてもそこまでピンとこず、それから10年以上経ってから「しまった!こんなにすばらしかったのか!」と後悔しながら、レコファンなどで中古盤を探し回る羽目になった。CDはまだしも、アナログは手の届かない値段になっていました。

    話をバンドブーム当時に戻す。そんなふうに、リアルタイムでいいバンドをいくつも見落としてきた、その中のでっかいやつが、このムスタングA.K.A.だった、という話なわけです。
    中古盤屋で旧譜を漁っている時に、ムスタングA.K.A.のCDを掘り出した(確か渋谷のレコファンだったと思う)。あ、このバンド知ってる、ソニーだったよな、シングルがCMに使われてたよな、確かスクーターのCMじゃなかったっけ、それともCDラジカセのCMだったっけ……このあたり、記憶が曖昧なので、今、調べてみた結果、デビューシングルの「WONDERLAND?」が、スズキセピアZZのCMソングだったことが判明しました。
    とにかく、そんなわけで、ムスタングA.K.A.のファースト・アルバム『踊りAKAソカ』を買った。
    その時点で、ムスタングA.K.A.に関して、他に知っていたことは、

・キーボードのHAKASEが、このバンドとフィッシュマンズを兼任していたが、ファーストアルバムを出した後に脱退。フィッシュマンズに専念するが、数年後にフィッシュマンズも脱退、LITTLE TEMPOに参加する。

・音楽的には、当時で言うと、フィッシュマンズやレピッシュ、初期THE BOOMや東京スカパラダイスオーケストラ等と、同じ括り。要はスカ、ダブ、レゲエ。もうちょっと広げて「バンド編成でロック以外」ということにすると、カリプソをやっていたKUSU KUSUなんかも同じ範囲、として捉えてもいいかもしれない。

・ボーカル&サックスは、セニョールとマーヴィンのツイン編成。マーヴィンは、後に吉祥寺スターパインズカフェの店長になる。ということを、1998年くらいだったっけ、スターパインズの店内でお見かけして知りました。「あ、ムスタングA.K.A.の人だ!」と。 さらにその2年くらい後に、彼はスターパインズの前は、三宿Webのオープン時の店長だったことも知った。自分がWebに行くようになって。

    で、その時点まで──つまり、アルバムをちゃんと聴くまで、知らなかったこと。
    こんなに攻撃的で、こんなにシリアスで、こんなに哀愁に満ちてもいて、こんなに音楽的にかっこよくておもしろいバンドだったのか! ということだ。
    スカ、ダブを、バンド編成で、日本語でやる時の王道のスタイルではあるが……と、書いてから気がついた。今だからそう思えるけど、当時はまだ、王道なんかなかったんじゃないか。つまり、前述のレピッシュと同じく、その筋の王道を作ったバンドのひとつ、と言っていいのかもしれない、ムスタングA.K.A.は。
    「WONDERLAND?」の叙情性。「欲BO」の政治性・メッセージ性。王道スカな「スカデキクヤ」。「P.J.(Punky Japanese)」のソリッドなニュー・ウェイブ感。「OH! アフリカ」の、どファンクならではの快感……。
    って、アルバムはソニーからファースト『踊りAKAソカ』とセカンド『COLORED』の2作が出ているのに、なんで『踊りAKAソカ』の曲ばかり挙げているのかというと、そのレコファンで掘り出した時に聴いたのが、ファーストだったからなのだが、とにかく、そんなふうに、1曲1曲に、いちいちやられたのだった。
    なので、このたびこうしてアルバム2作とシングル2作の21曲を、ストリーミング・サービスで聴けるようになったのは、素直にうれしいことなのだった。
    ただ、ちょっと困りもしたが。このテキスト、最後に10曲選んでプレイリストを作ることになっているのだが、21曲しかないのに、なかなか10曲に絞れなくて。それぞれの曲の方向性がはっきりしているから、「この曲を落とすと、この方向の曲がなくなってしまう」ということになる。14曲までは選べたんだけど、あと4曲落とすのに、とても苦労しました。

    しかし、デビュー・シングル「WONDERLAND?」が、1991年2月21日リリースで、セカンド・アルバム『COLORED』が1991年11月21日リリース。なので、実質1年もいなかったのか、ソニーには。
あ、あとひとつ。ギターの菊谷知樹は、ハロプロ等多数のアーティストや多数のアニメや多数のCM等の、アレンジや作曲やギタープレイを手掛ける、アレンジャー・プロデューサーとして活躍中。

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Chocolat

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Chocolatの原点は、こんなに混沌としていて、こんなに自由だった

Chocolat

     ChocolatのNeOSITE時代の作品、つまり1997年のメジャー・デビューから、2011年にワーナーに移るまでの作品がサブスク解禁された。 NeOSITEというのは、エピックの傘下のレーベル。後にキューン傘下に移り、2014年まで存続した。 PUSHIM、RHYMESTER、HOME MADE 家族、Chocolatの双子の妹であるheaco等が所属していた。

    Chocolatは、1997年5月21日に、シングル「ショコラ・ア・ラ・モード」でメジャー・デビュー。以降、NeOSITE在籍中に、『one too many Chocolat』と『ハムスター』のフルアルバム2作と、シングル8作をリリースしている。このたび聴けるようになったのは、それらの作品である。
    「ショコラ・ア・ラ・モード」の1曲目「ブルーでハッピーがいい」の作詞・作曲・編曲は、カジヒデキ。同シングルや、ファースト・アルバム『one too many chocolat』には、ニール&イライザのふたり=松田岳二&堀江博久、神田朋樹、L↔Rの黒沢秀樹、スーパーカーの石渡淳治&中村弘二、などの多数のクリエイターが、作詞や作曲や編曲で参加している。
    現在の実生活上のパートナーであり、共にユニット「Cholat & Akito」を組んでいる片寄明人も、「NO REGRET」という曲を書き、EL-MAROの柚木隆一郎と共同でアレンジを手掛けている。

    そのChocolatのファースト・アルバム、数々のシングル(シングル扱いなのに表題曲と別にタイトルが付いていたりするので、シングルなのかミニアルバムなのか判断が難しいのだが)、セカンド・アルバム、と、順を追って聴いていくと、わずか2年の間であるにもかかわらず、彼女のアーティストとしての急成長がよくわかって、おもしろい。
    ファーストも全体の半分の曲は自分で詞を書いているが、セカンドでは3分の2に増えている。で、ファーストは、それだけ多くのクリエイターが参加しているだけあって、よく言えばバラエティに富んでいる、悪く言えば曲ごとにバラバラであって、Chocolatはそれぞれの作家の曲をひたすらまっすぐ歌う、という感じである(淳治&ナカコーの「ステキなクルマで走り抜けて」なんて、フルカワミキが歌うスーパーカーの曲のようだ)。
    それが『ハムスター』では、曲ごとにさらにバラバラで、やりたい放題と言っていいほど自由度が増している各曲を、Chocolatが軽々と乗りこなしている、そんな印象に変わっている。曲に合わせて歌い方を変えたりはしてないのに、のびのびとメロディと言葉を放てば、それが演奏に自然にハマるというか。自然で自在、だから聴くこと自体が心地いい歌になっている、というか。
    その後の、ワーナーに移って以降のソロ活動においても、Chocolat & Akitoでの楽曲も、聴くべき作品は幾つもあるが、この、言わば「最初期のChocolat」も、彼女のキャリアにとってとても重要だったことが、聴き直してみるとよくわかる。
    あと、ファーストの中で、もっともChocolatにしっくりハマる、そして現在の彼女の音楽性につながる曲になっているのが、前述の「NO REGRET」である、というのは、さすがだなあ、とも思う。

    現在Chocolatは、息子さんも含めた家族3人によるラジオの週イチのレギュラー番組『Everyday Story』(京都α-STATION)を続けていたり、アクセサリーをデザインしたりと、さまざまに活動中。
    音楽作品としては、2016年に、カリフォルニアの双子のサーフジャズデュオ、The Mattson 2と共同で作ったコラボ・アルバム『Chocolat & Akito meets The Mattson 2』がすさまじく良いので、未聴の方はぜひ。2022年6月27日現在の時点では、サブスクにはありませんが、ダウンロードで買える他、SOUNDCLOUDで一部が聴けます。
    しかし、そうか、あれ、もう6年も前なのか。そろそろまた何か新しい作品、作ってくれるとうれしいです。

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SANDII

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1970年代から2020年代まで、一貫して「大きな歌」であり続ける存在

SANDII

     僕ぐらいの世代(1968年生まれ)だと、最初にその存在を認識したのは、1980年代に活動していた、サンディー&ザ・サンセッツのボーカリストとして、だった。それより以前からキャリアがあり、「グッバイ・モーニング」で1976年の『世界歌謡祭』でグランプリを受賞したり、いくつかの名義を使いながら映画やアニメの主題歌を歌ったりしてきたシンガーであることを、後に知ることになる。
    生まれは日本、10歳で移住したハワイで音楽を始め、逆輸入的に日本でデビュー。ラジオのパーソナリティーやテレビ出演等、いわゆる芸能界的なフィールドでスタートした後、ロック・ミュージシャンたちとの交流を機にシンガーとしての活動を絞り、サンセッツ結成前の1980年には、細野晴臣のプロデュースで、ソロ・アルバム『EATING PLEASURE』を制作。日本とイギリスでリリースされている。
    その後、サンディー&ザ・サンセッツを結成、久保田麻琴と活動を共にするようになる。ヨーロッパ等の各国をツアーし、オーストラリアでシングル「Sticky Music」がヒットするなど、海外で高い評価を受けたこのバンドを経て、1990年から本格的にソロでの活動を再開。同年リリースのアルバム『マーシー』は、シンガポールを代表するミュージシャン、ディック・リーと久保田麻琴が共同でプロデュースした。
    日本の戦前の歌謡曲、ハワイアン、アジア、ブラジル等をルーツにした音楽性は、その後、日本の音楽シーンで起こったワールド・ミュージック・ブームの先駆者的存在となった。
    1990年代半ば頃からは、自身のルーツであるハワイ音楽/フラ・カルチャーの方向に軸足を移していき、自身のフラスタジオも設立。スタジオでは多数の門下生を育て、2005年にはフラ・カルチャーを伝導する最高位の称号「ウニキ・クム・フラ」の称号を、ハワイの先人たちから授かる──。

    というようなサンディーのプロフィールは、彼女のエピック時代の音源がサブスク解禁されたことを知って、このページに飛んで来たような方ならご存知だとは思うが、なんにも触れないわけにはいかないので、以上、ザッとですがご紹介しました。
    というわけで。『マーシー』でソロとして再始動した当時は、サンディー&ザ・サンセッツからの流れで東芝EMI(現ユニバーサル ミュージック)からリリースしていたが、1994年にエピック・ソニー(当時)に移籍。2年の間に『DREAM CATCHER』と『WATASHI』のアルバムを2作、シングルを4作、それからTOWA TEIやSATOSHI TOMIIE等が参加したリミックス・ミニアルバム『WORLD REMIX』を発表している。このたび、各ストリーミング・サービスで聴けるようになったのは、それらのエピック時代の作品である(一部の楽曲を除く)。

     EMI時代に続いてディック・リーが作曲した『DREAM CATCHER』収録の4曲。宮沢和史が曲提供した「DREAM CATCHER」「パルス」「サンビイニャ」。細野晴臣が曲を、サンディーと久保田麻琴が詞を書いた「ライフ〜THERE IS NOTHING HIGHER THAN YOUR LIFE〜」。ザ・タイガース「シーサイド・バウンド」のカバー、などなど。
    曲の成り立ちや、曲の書き手や、曲ごとで目指した音楽性は、さまざまだが、当時聴いても、今聴いても、曲がかかっているだけでその場の空気から淀みを消し去って、きれいなものに変えてくれるようなこのボーカルは、やはりワン&オンリーだ。どの歌も、自己表現とか自己主張とかのためではなく、もっと大きくて、普遍的で、重要なもののために捧げられている、そんなふうに耳に届く。

    なお、1994年・1995年の2年間で、サンディーはエピックを離れるが、2007年のアルバム『Sandii’s Tahitian』が再びソニーから出ている。それから、前述の細野晴臣プロデュースの『EATING PLEASURE』をリリースしたレーベルが閉鎖になり、原盤権がソニーに移った。という関係で、その2作は、エピック時代の作品よりも以前から、サブスクで聴けるようになっている。
    が、2006年7月にソニーからリリースされた、デビュー20周年記念ベスト・アルバムは、今のところ、サブスクにはない。権利とかの問題なのかもしれないが、これも聴けるようにならないでしょうか。ベスト盤と言いつつ、山下久美子「赤道小町ドキッ」サザンオールスターズ「真夏の果実」のカバーや、元ローザ・ルクセンブルグ→元BO GUMBOSのどんとが書いた「波」という曲なども入っていて、貴重だと思うのですが。
    なお、サンディーは、2022年現在、シンガーとしても、「ウニキ・クム・フラ」としても、精力的に活動中。

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カンガルーポケッツ

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「ロック・バンドによるファンク」の、90年代の形

カンガルーポケッツ

     1989年、京都の大谷大学にて知り合ったメンバーで結成。1994年から、バンド名をカンガルーポケッツとする。1996年6月のシングル「Movin’ In The Right Direction」と、同年7月のバンド名を冠した8曲入りアルバム『Kangaroo Pockets』で、メジャー・デビュー。
    アルバムはそのファーストとセカンド『Poket Park』の2枚、シングルは『フェアウェル』『ふたつの太陽』『黒いオレンジ』『Pride & Joy』までの6枚を、SONY RECORDSからリリース。このたび各ストリーミング・サイトで聴けるようになったのは、それらすべての作品である。なお、バンドは1999年8月に活動休止。
    要は、デビューまでは順調に行ったが、メジャーで望まれるような軌道にはうまく乗れなくて、アルバム2枚で契約終了、そのまま活動が止まる──というケースのひとつだったのだと思うが、ただし。
    このたび聴き直して、なぜ当時うまくいかなかったのかということと、だからといってこのバンドの音楽に魅力がなかったわけではまったくないこと、むしろその真逆であることが、改めてわかった。
    どファンクなのだ。ソウルなのだ。R&Bなのだ。総じて言うと、歌って踊れるブラック・ミュージックなのだ。で、ロック・バンドの編成で、日本語で、そのような方向性の音楽を受け入れる土壌が、90年代の日本には、まだなかったのだ。今思えば。
    ソロ・シンガーとか、歌謡曲方向とか、アイドル方向とかでは、あった。あと、バンド編成でも、米米CLUBみたいな大所帯でエンタメ性込みのバンドなら成功例はあったし、逆にウルフルズみたいに思いっきりロックに寄ってシンプルかつソリッドにやって、うまくいった前例もあった。
    が、このカンガルーポケッツのように、「形はロック・バンドだけど、音は華やかでどファンキー」という方法論で、ブレイクした例は、なかったのではないか、と思う。ちなみに、それより後の時代には、あります。特に2010年代以降は、そういうバンド、めずらしくなくなった。
    つまり、(ありふれた言い方だが)当時としては早すぎたのかもしれない。もっと後の時代ならブレイクしたかもしれない。逆に、もっと前の時代で、バンド形式じゃなくて、ソロだったりユニットだったりしたら、うまくいったのかもしれない。
    歌ものとしての性能、どの曲もこんなに高いんだから。音のファンキーさに耳を奪われがちだが、バラード方面の曲の美しさも、相当なもんだし。
    ……って、そんなことを、今になってウダウダ言ってもしょうがないが、どの曲を聴いても、「うわ、こんなかっこいいことやってたのか」と、いちいち驚く。しなやかで、自在で、一語一句がはっきり耳に入ってくる、小原健吾のヴォーカルといい、曲によっては「えっ、Char?」とか言いたくなるほど艷やかな、山崎真嗣のギターといい。
    ファースト・アルバムは、元SPANK HAPPY(!)のメンバーで、脱退後は作曲家・アレンジャー・劇伴作家等で現在も大活躍中の、河野伸がプロデュース。セカンド・アルバムのプロデューサーは、米米CLUBのメンバーであり、現在はNHK総合の『うたコン』の指揮者や、連続テレビ小説『カムカムエヴリバディ』の音楽等で知られるフラッシュ金子こと金子隆博。
    その後のシングル『黒いオレンジ』は、プロデューサーとしてもプレイヤーとしても現在も活躍中の柿崎洋一郎が、その次のシングル『Pride & Joy』は土屋公平(蘭丸! The 99 1/2等を考えると「なるほど」と思う人選です)が、プロデュースを手掛けている。
     個人的に、ギターが華やかでグルーヴィーな曲が、特に好きなので、下のプレイリストは、そういう曲を多めに入れています。

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露崎春女/Lyrico

露崎春女 配信はこちらから

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「90年代に流行った」のではなく「90年代から根づいた」
R&Bフィメール・シンガーの先駆者

露崎春女/Lyrico

    1990年代中盤から後半にかけての日本で、女性R&Bブーム、というムーヴメントがあった。その少し前に英米で、そうした音楽性のアーティストたちが人気を博すようになったのを受けて、日本でも……みたいな始まり方だったのだと思う。
    その時期よりちょっと前にデビューしていたCHARAや、1995年にデビューしたUAなどの成功が牽引する形で、多くのアーティストが、オーバーグラウンドで活躍していくようになっていく。1995年にはACO、1997年にはSugar Soul、1998年にはMISIAに宇多田ヒカルにDOUBLEにSILVA、1999年にはbird、小柳ゆき、Crystal Kayがデビューしている。
    なお、その頃、女性は多いが男性はまだそんなにいない、というところを狙って、R&B方向にシフトを変え、「楽園」(2000年)で大ブレイクしたのが、平井堅である。

    と、今、振り返ってみると、これ、「女性R&Bブームが流行った時期」というよりも、「女性R&Bというジャンルが日本に根付いた時期」という言い方の方が、正しい気がする。
    名前を挙げたアーティストたちの多くが、今でも活躍しているし、それ以降もそういう音楽性の新人が、何人もデビューして、成功を収めている。
    「卓越した歌唱力」「海外クオリティのトラック」「それでいて日本の土壌になじむポップさ」の3つを併せ持つ音楽である、という点でも、健全な、好ましいブームだったのだなあ、と思う。このブームが起きたおかげで、日本のポップ・ミュージックのクオリティが一段階上がった、というか。
    要は、この時期はこういうのが流行ったけど、5年後にはみんな消えちゃいました、みたいな、一過性のブームではなかった、という話だ。

    以上、前置きが長くなったが、そのムーヴメントの中で、最初の方にデビューしたのが、露崎春女である。
    1995年・21歳の時、徳間ジャパンから、シングル「TIME」とアルバム『HARUMI TSUYUZAKI』でメジャー・デビュー、と同時に。さっき「CHARAやUAが牽引した」と言ったが、露崎春女もその「牽引した」側のひとりである。
    以降、シングル8作、アルバム4作をリリースした後、2000年からソニーミュージックに移籍。2001年11月からアーティスト名をLyricoに変える。
    以降、2008年まで在籍。露崎春女名義・Lyrico名義を合わせて、シングル11作(「Lyrico with Yuji Toriyama」の作品も含む)、アルバム5作(ベストアルバムも含む)をリリースした後、ヤマハミュージックコミュニケーションズに移籍した。
    この度、各ストリーミング・サービスで聴けるようになったのは、そのソニーミュージック在籍時の音源である。

    で。シーンの中ではデビューが早めだったことや、デビューしてすぐ売れたこともあって、「その中で早かった方のやつ」「で、ちゃんと売れたやつ」「しかもクオリティが高いやつ」みたいな、ざっくりした印象しか、正直、当時は持っていなかったのだが。
    今、聴き直すと、いやあ、いいわあ。この頃としては、新しい音のはずだったのに、今でもまったく古びていない。というか、当時から、最先端ではなく長く聴き続けられ、愛される音楽を目指しており、だからあんまりとんがったことはやらないようにしていた、オーセンティックな音を指向していた、という可能性もある。
    スクラッチが入っていたりする曲や、DTMと思しき曲や、彼女のルーツであるゴスペル・テイストの曲や、日本民謡的なトラディショナルな曲もあったりするが、いずれも、構えずに自然に、心地よく聴けるポップ・ミュージックになっている。

    ソニーミュージック移籍後の最初のアルバム『as I am』は、全曲本人が作詞作曲しているが、その次の『Tender Lights』からは、作詞は基本的に本人で時々別の人、作曲は、本人も書くが、軸はさまざまな外部のクリエイター、という方式になっている。
    小森田実、鷲巣詩郎、妹尾武、原一博などなど、作曲陣は多数で多彩。作詞は、本人以外では、元PRINCESS PRINCESSの中山加奈子や、辻仁成が書いた曲もある。
    このあたり、「いい曲なら、自分の書いた曲だろうが、人の書いた曲だろうがかまわない」という、当時の平井堅と共通するものがある。
    アレンジャーも、鳥山雄司やchokkaku、河野圭など、錚々たる顔ぶれが参加している。

    個人的には、佐々木潤(COSA NOSTRAだ!)が作曲と編曲の、2000年12月6日リリースのシングル「情熱の太陽」が、めちゃくちゃ良かった。聴き直した中でも、特に。
    あと、作詞作曲が本人で、アレンジはchokkakuと本人が手がけている、ソニー移籍一発目のシングル「Break Om Out」も、大好きなやつである。
    要は、ハウスっぽい四つ打ちで、ピアノやホーンがばんばん入っていて、女性ヴォーカルがソウルフルにドラマチックに歌い上げるタイプの曲が、とにかくツボなのだ。ダンス・ミュージックを好きな人向けに言うと、要はデヴィッド・モラレス的なやつが好きなのです。
    なので、下のプレイリストも、この方の本道であるバラード系よりも、だいぶダンス系に寄った選曲になっています。

    なお、ソニーを離れるタイミングでリリースしたベストアルバム『13years』で、名前を露崎春女に戻して以降も、彼女は、ばりばり活動中。
    ほぼ年に1作のペースでアルバムをリリースし、コンスタントにライブを続け、自身の活動の他にも、鈴木雅之のアルバムでコーラスを務めるなど、精力的に動き続けている。

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B☆KOOL

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日本国における、ストリート・ダンス・グループの先駆け。と言っていいと思う

B☆KOOL

    「早すぎた」という言い方は、ずるいしダサいしみっともない。ましてや、その時点でリアルタイムで言うのはまだしも、時が経ち、時代が変わった後になってから、振り返ってそう言うのは、イコール「当時、私は何もわかっていませんでした」と白状しているということなので、ずるさダサさみっともなさの自乗である。
    ということはわかっているので、普段はしないように心がけているのだが、このグループに関しては、どうしても、そう言いたくなってしまうのだった。当時自分は、全然わかっていませんでした。と、認めることも含めて。

    ストリートから出て来た、ヴォーカルありラップありの、男性ダンス・グループ。1994年10月21日のシングル「BABY BODY BEAT」、続いて1995年にファースト・アルバム『KOOL STUFF』で、T.M.RevolutionやフラワーカンパニーズやカスタネッツやCMJKとKAJIWARAのCONFUSION等が所属していた、ソニーミュージック傘下のレーベル、アンティノス・レコードからデビュー。
    DA PUMPのデビューが1997年、EXILEの前身グループであるJ Soul Brothersの結成とデビューが1999年なので、つまり、それより前ということだ。つまり、その二者によって、「男性ヴォーカル・ラップ・ダンス・グループ」という表現形態が、J-POPのメインストリームのひとつになる前の時代、ということである。
    ちなみに、K-POPにおいては、それがメインになるのは、さらに後の時代だ。もうひとつちなみに、アメリカにはこれより前に、ニュー・キッズ・オン・ザ・ブロックやボーイズ・Ⅱ・メン、バックストリート・ボーイズなどなどが人気を博していたが、日本にはいなかったのだった。いや、そこまで断言するのは雑か。現にTRFやZOOはいたし。でも、どちらも男女混合グループだったので、すみません、ここでは棚に上げますね。

    とにかく。「海外にはいるけど日本にはいない」し、「音楽としてだけじゃなく、ダンスやファッション等も含めたライフスタイルとして理解することが必要」な、B☆KOOLのような存在を、当時僕は、どう解釈し、いかに位置付けていいのか、わからなかったのだ。
    ダンサーなの? 歌手なの? ラッパーなの? アイドルなの? アーティストなの? という。
    今になると「全部だよ」のひとことで片付く話だが。あと「位置付けなんかわからなくてもいいじゃねえか」という気もするが。
    1998年11月の渋谷ON AIR WEST(現TSUTAYA O-WEST)でのライヴを最後に解散するまでの4年の間に、フル・アルバム4作、シングル12作(リミックス盤も含む)をリリース。今考えると、これも「早すぎた」だが、台湾でも高い人気を博していた。というか、下手したら、日本での人気を超えるくらいだった。台湾限定の編集盤『KOOLEST』も、リリースされている。
    アンティノス・レコードがアジア戦略を精力的に行っていたこと(逆に韓国のソテジワアイドゥルを日本でリリースしたりもしていた)。台湾では、すでにダンス・ミュージックが広く市民権を得ていたこと。台湾にとっては「アメリカも日本も台湾に海外」という意味で、フラットに受け入れられたこと。そして何よりも、「やっていることがかっこよかったこと」が、理由だと思う。
    松原憲がサウンド・プロデュースの、ファースト・アルバム&セカンド・アルバムの時期は、やや当時の日本のポップス寄りの音。G.M-KAZがサウンド・プロデュースのサード・アルバムと4枚目は、ヒップホップ方向の音に路線変更しているが、どちらも、今聴いても、あたりまえにかっこいい。いや、今聴くと、あたりまえにかっこよかったことがわかる、と言うべきか。
    それから、ダンス・ミュージックと言っても、ヒップホップ/R&Bに留まらず、ファースト・シングル「BABY BODY BEAT」などの数曲では、「RED MONSETR MIX」としてバキバキのユーロビート・ヴァージョンを作ったりしていたのも、おもしろい。なお、同ヴァージョンは、当時、国内ダンス・チャートで1位を記録している。
    松原憲は、後にMISIAやモーニング娘。の仕事で、知られるようになる。G.M-KAZは、KREVAの一連の作品のエンジニアであり、DREAMS COME TRUEのリミックス等も手掛けている。というのも、「早すぎた」に当てはまる。いや、だから、今、そういうことを言うのは、とてもみっともないんですが。

    それから。こうして全音源が、ストリーミング・サービスで聴けるようになったのは、とてもありがたいが、できればミュージック・ビデオ等の映像作品も、どこかでオフィシャルなものとして、観れるようになると、さらにうれしいです。
    当然ながら、ダンス、ファッション、ルックス等の「目で観るエンタテイメント」の部分も、とても重要だったグループなので。

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脱線3

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「オモロ・ラップの先駆者」というだけではなかったことが、今聴くとわかる

ROVO

    1990年代の中盤、音楽シーンの中において、もっとも先端にいて、もっともオシャレで、もっともセンスがよくて、もっともかっこよくて、ただし気取った二の線の「かっこいい」じゃなくて、ユーモアや笑いの要素、つまり三の線も込みの「かっこいい」であって、だからもっとも「モテている」存在が、Little Bird Nation(通称LBネイション)というクルーだった。
     いちばん早く世に出たスチャダラパーを筆頭に、TOKYO No.1 SOUL SET、かせきさいだぁ、THE CARTOONS、四街道ネイチャー、ナオヒロック&スズキスムース、THREE ONE LENGTHなどなど。ラップではないホフディランや小沢健二も、近しいポジションにいた。
     スチャダラパーの曲「GET UP AND DANCE」に、これらの面々がマイクリレーで参加したことや、1996年7月14日に日比谷野外大音楽堂にてメンバー総登場のイベント『大LB夏祭り』が開催されたことなどが、当時の象徴的な活動。その頃のヒップホップ・シーンと表す、というよりも、時代そのものをも表すような動きだった。と、今になると思う。

     以上、前置きが長くなったが、そのLBの中において、唯一の関西勢が、脱線3である……と書いてから、本当に「唯一の」と言い切っていいのか、心配になってきたので、改めて調べてみたりしたが、大丈夫ですよね? ナオヒロックは神戸出身だけど、スズキスムースと組んだのは上京した後だし。
     えーと、いまいち心配は残るが、話を進めます。「だっせんとりお」「だっせんすりー」と読みます。ロボ宙とM.C.BOOのラッパーふたりにDJのKING 3LDK(確か最初はKING3Kと名乗っていた記憶がある)の神戸と大阪でデザインやアートの大学に通う3人で1989年結成。M.C.BOOがビースティ・ボーイズのライヴに出演し、1992年アルバム『CHECK YOUR HEAD』からのカット「Gratitude (Live At Budokan)」に参加して全米デビュー。その後1994年7月21日、スチャダラパーやRHYMESTER、EAST END×YURIなどを世に送り出したファイルレコード傘下のメジャーフォースよりファースト・アルバム『バチルカ』を高木完とスチャダラパーのSHINCOプロデュースでリリースする。1995年にエピック・ソニーにメジャー移籍し、シングル『サタデー・アップタウン』『スペース・ホルスタイン』と、ビースティ・ボーイズと一緒にLAレコーディングしたアルバム『XXX JAPAN』を発表。このたびサブスク等で聴けるようになったのは、それらの、エピック時代の3作品である(『バチルカ』は以前からアップされている)。

     というわけで、『バチルカ』以外の音源を、久々に聴いたのだが。いやあ、おもしろいわあ。当時「関西オモロラップ」とか呼ばれていたし、そういえば『バチルカ』のリリースくらいのタイミングで、マネージメントが吉本興業になった(その後、離れたが)。『バチルカ』には「秘密の暗号やしきたがじん」という曲が入っていたりするし、吉本新喜劇の芸人さんのセリフのサンプリング、あちこちの曲に入っているし、他にも関西のテレビからのサンプリングなども多数ある。かといって関西だけかというと、「スペース・ホルスタイン」にはおぼんこぼんやセントルイスといった東京漫才のネタも入っているし、『バチルカ』の「バカが戦車でやってくる」の元ネタは、ハナ肇主演・山田洋次監督の1964年公開の松竹映画『馬鹿が戦車でやって来る』である。

     が、そういうような、いわゆる「お笑い」的な要素のことを「おもしろいわあ」と思ったのではない。いや、それも「おもしろいわあ」と思うが、それだけではない。
     トラックに使われているサンプルネタの選び方・切り取り方・並べ方などのセンス。曲そのものの構成。リズムの組み方。ビースティ・ボーイズを思わせるハイトーンなロボ宙の声と、何を言うとか以前に発された声自体がすでにビズ・マーキーばりのヒップホップ的ユーモアを孕んでいるM.C.BOOの声、そのふたつの絶妙な絡み方。などなど、音楽として「おもしろいわあ」というポイントだらけなのだ、どの作品を聴いても。飽きない。ラップもトラックも何度も聴いて、細部まで把握したくなる、そんな魅力にあふれている。
     あと、今はあたりまえになっているが、「関西弁でラップをやる」という点でも先駆者だあった、脱線3は。いや、きっと他にも関西弁の(もしくはそれ以外の方言の)ラッパーは存在したのだろうが、インターネット普及前だった当時において、最初に全国区に出たのは脱線3だった、と言っていいと思う。

     なお、その後、脱線3は、1997年12月6日に、SkyLarkinRecordsから7曲入りの『DAS BACK AGAIN』を発表して以降、作品のリリースは行っていない。が、解散も、していない。2016年には、4月17日(日)に日比谷野音で20年ぶりに行われたイベント『スチャダラ2016~LB春まつり~』にも、出演した。
     その後、M.C.BOOは、テクノやトランス、ダークサイケにラップをのせるKANI BASSを経て、近年はクリエティヴディレクターとしてグローバル企業のクリエイティヴに関わりながら、ストリートカルチャーを多様なフィールドに伝えている。
     KING3LDKは、2012年頃よりアニソンDJとして数々のイベントに参加。チューンコアを通してインストトラックを配信中。
     ロボ宙は、2007年から活動したスチャダラパー・SLY MONGOOSEとのバンド、THE HELLO WORKSでの活動を経て、以降、スチャダラパーのライヴに、レギュラー状態で参加している。つい最近も、2021年8月4日に、VIDEOTAPE MUSICと共に7インチ・アナログ・シングルで「サイエンス・フィクション」をリリース。
     2021年9月24日には、ロボ宙とM.C.BOOがレギュラー参加する電子音楽家で日本で最初のヒップホップ・プロデューサーであるヤン富田のBLUE NOTE TOKYOでの公演に参加することが決まっている。

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ヒックスヴィル

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「息が長いだけのことはある」、稀有な3人による稀有な音

ROVO

    1994年に解散したロッテンハッツ(ご存じない方は、このサイトの「ロッテンハッツ」のコーナーをどうぞ)は、6人のメンバーが3人ずつ、2つのバンドに分かれた。ひとつは、ヴォーカル&ギター片寄明人・ベース高桑圭・ドラム白根賢一からなるGREAT 3、そしてもうひとつが、ヴォーカル真城めぐみ・ギター中森泰弘・ギター木暮晋也が結成したヒックスヴィルである。
    ヒックスヴィルの初音源は、1995年にインディーズのBAD NEWS RECORDSからリリースされたミニ・アルバム『RIDER』。そして、1996年に、ソニーミュージック内のSONY RECORDSから、シングル『BYE BYE BLUES』とアルバム『トゥデイ』で、メジャー・デビューする。以降、1999年までに、アルバム『サンセット・ブルバード』『マイレージ』のアルバム3作、シングル6作を、SONY RECORDSから発表した。
    ソニーを離れて以降は、かなり間が空いて2014年に、つまり15年ぶりに、アルバム『WELCOME BACK』を、VILLAGE DISCからリリース。その間の2008年に、ユニット「ヒックスヴィルと堂島孝平」で、「南の島のハメハメハ大王」のカバー・シングルを出している。
    で、その2014年から2021年6月現在までの間、新音源は発表されていないが、1999年から2014年までリリースが空いた時も、2014年以降から2021年現在まで空いた今も、活動休止などのステートメントは、特に出されていない。パーマネントに動いているバンドではないが、時々ライヴをやるなどしつつ、存続している。
    というような活動になっているのは、ヒックスヴィルの結成とほぼ同時期から、3人ともサポート・ミュージシャンとして、あるいは他のユニット等で、多方面で大活躍するようになったことが、大きな理由だと思う。普通のバンドみたいに、年に1枚アルバムを作りツアーを回る、みたいなペースで、常に活動していくのは、物理的に難しい。ただし、解散したいわけではないから、しない。できる時に、できるタイミングで、バンドとしての活動をする、という。
    木暮晋也は、小沢健二やフィッシュマンズ、初恋の嵐や曽我部恵一、木村カエラ、ORIGINAL LOVE等、もう数え切れないくらい、あちこちで弾いている。真城めぐみは、小沢健二、ホフディラン、キリンジ、ノーナ・リーヴス等、多数のアーティストのライヴやレコーディングに参加している。中森泰弘は、キリンジ、カーネーション、かせきさいだぁ等のサポートの他、近年では14歳の女性ヴォーカリストのユニット、SOLEILのメンバーとしても活動した。また、真城めぐみと中森泰弘は、ザ・クロマニヨンズの真島昌利と3人でましまろを結成、2015年と2016年にアルバムをリリース、ツアーも行っている。あと、中森泰弘は、ロッテンハッツ加入前から、プロのフォトグラファーとしても仕事していたりする。
    さて。そんなヒックスヴィルのソニー時代の作品のうち、アルバム3作は以前から配信されているが、このたびシングルのカップリング曲もすべてアップ、全曲コンプリートされた。
    「浅き夢見し」や「雲のように」などの、カップリングのみで発表されていた曲を改めて聴ける、といううれしさもある。サード・シングル『こんな晴れた日には』のイリシッドツボイ・ミックスや、4thシングル『恋する青春』収録の「真夏のサン・ホセ」のシングル・ミックス、インディ・リリースした「RIDER」のライヴ音源などの、ミックス違い/ヴァージョン違いを楽しめる、という喜びもある。
    古き良きルーツ・ミュージックとしてのアメリカのロックンロール/ブルース/ジャズ/カントリー等をベースにしている(で、セカンド・アルバムからAOR等も入ってくる)音楽性は、手法として誰もが知っているものだけに、「自分たちの音」として表現することは、とても難しい。それに自然な日本語をのっけることは、さらに難しい。じゃあ「うわ、ルーツそのままだねえ」っていうものを作ればいいのかというと、そういうことでもない。「じゃあルーツを聴けばいいじゃん」っていう話になるし。
    というふうに考えた上で、音源を聴くと、ヒックスヴィルって、かなり、相当、ありえないことを、軽々とやっている人たちなんだなあ、という事実が、よくわかる。
    「RIDER」の、圧倒的な本物感。「バイバイ・ブルース」の、爆発的な躍動感とせつなさ。「天国まで」の、「ワクワク」という感覚をそのまま音像化したような楽しさ。「恋する青春」の、聴くとたまらない気持ちになるハーモニー。「恋のはじまり」の、キラキラした50'sフレーバー。「フォレスト・グリーン」の、すべての声&すべての楽器の音を耳で拾いながら、いつまでも浸っていたくなる美しさ──。
    どれも、この3人にしか作り得ないものだと、今聴き直しても思う。いや、今の方が、より思う。ヒックスヴィル以降、これに続くようなバンドは、現れていないので。現れようがないのだと思う、きっと。
    なお、以上の文章を書くために、オフィシャルサイトなどを見ていて、2021年7月21日に、デビュー・シングル『バイバイ・ブルース』の7inchアナログ盤が発売されることを知った。
    欲しい。これは欲しい。予約しよう。

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ROVO

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「世界に誇る唯一無比の音」、そう言い切れる

ROVO

    そうか、ROVOのdohb discs時代の音源って、ストリーミング・サービスで聴けなかったのか、これまで。今もバリバリ現役のバンドなのに。
    と、まず驚いたが、冷静に考えてみると、2021年の現在に「dohb discs」とか言ってスッと「ああ、はいはい」ってなるのは、90年代後半にその界隈の音源を聴いていた熱心なファン、もしくは関係者くらいか。説明した方がいいですね、じゃあ。
    dohb discsとは、エピック・ソニー傘下のレーベルで、1994年に誕生。最初は青山一丁目駅そば、赤坂DSビルのエピックの中にあったが、1996年には下北沢駅前に事務所を開設。
    TOMOVSKY(今も元気に活動中の、元カステラ→元コングラチレイションズの、あのトモさんです)、POINTER(元ULTRA POP高畠俊太郎の轟音トリプル・ギター・バンド)、54NUDE HONEYS(全員下着姿がユニフォームだった女性バンド。現POLYSICSのフミがギターで在籍したり、クハラカズユキがヘルプでドラムを叩いたりした時期もあり)などの作品をリリースしていた中で、もっとも広く世に出た看板バンド、ふたつのうちのひとつがSUPERCARで、もうひとつがROVOだった。
    レーベルは、2000年に解散……って、こんなに文字数使ってdohb discsの顛末を書いてどうする。いや、いいか。そのdohb discsの現場のチーフだった人が、現在のROVOの所属レーベルをやっていて、マネージャーでもあるので。wonderground musicの小川さん。通称オガワンダー。
    というわけで。dohb discsからのミニアルバム『PICO!』(4曲/1998年)とフルアルバム『imago』(7曲/1999年)、1曲入り43分16秒の作品『PYRAMID』(2000年)、計12曲のソニー時代のROVOの作品が、このたびこうして聴けるようになったのは、シンプルに喜ばしいことなのだった。
    メンバーは、勝井祐二(エレクトリック・バイオリン)、山本精一(ギター)、芳垣安洋(ドラム、パーカッション)、岡部洋一(ドラム、パーカッション)、原田仁(ベース)、益子樹(シンセサイザー)の6人。ひとりひとりのプロフィールを書くと、膨大すぎてえらいことになるので省略しますが、とんでもねえセンスとテクニックを持ったミュージシャンだけが集まっている。
    ジャンルは、ええと、インストゥルメンタルというか、人力トランスというか、エレクトリック・ジャム・バンドというか、いやべつにエレクトリックじゃないか、でもリスナーとしてはそっちの耳で聴いているとこ、間違いなくあるよね……とにかく、そんなような、世界レベルで見ても、唯一無比のバンドです。当時も、今も。
    2000年以降、『FUJI ROCK FESTIVAL』や『METAMORPHOSE』、『朝霧JAM』といった、野外フェス、野外レイヴに欠かせない存在になっていく……というより、そうした日本における野外フェスや野外レイヴの歴史を作ってきた、重要な存在のひとつ、という印象がある。そういう場でよく観てきた身からすると。
    なお、2003年から毎年ゴールデンウィークに続けてきた、日比谷野外大音楽堂でのイベント『MDT Festival』(ずっと活動しているバンドではないのに、止まっていた印象がないのは、たぶんこれのせい)は、2020年は新型コロナウイルス禍で開催されなかったが、9月9日にはニューアルバム『ROVO』がリリースされ、10月には観客数をしぼって名古屋と東京でリリース・ライブも行われた。
    その東京の方=10月25日渋谷TSUTAYA O-EASTの方から、「HINOTORI」が、YouTubeのROVO公式チャンネルにアップされています。

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Chappie

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時代を席巻したキャラクターの音楽作品にはこんなに豪華なクリエイターたちが集結していた

Chappie

    Chappieとは、90年代後半から現在まで、多数の作品/商品を送り出し続けるデザイン・スタジオ、グルーヴィジョンズが、設立当初に作ったキャラクター。顔だけが同じでヘアスタイルも衣装も性別も自在に替わるこのキャラクターは、90年代後期に大人気になり、テレビCMや雑誌の表紙等、さまざまなメディアを席巻し、1999年に3月3日にはCDデビュー。
    デビュー・シングル『Welcome Morning』は、当時ソニー・ミュージックが発掘したばかりの新進気鋭のプロデューサー、pal@pop(高野健一)が手掛け、これによって彼の名前も世に知れわたることになる。
    同年5月5日リリースのセカンド・シングル『Good Day Afternoon』は、COILがプロデュース。同年7月7日のサード・シングル『水中メガネ/七夕の夜、君に逢いたい』は、前者を草野正宗、後者を細野晴臣が作曲、作詞はどちらも松本隆。
    で、唯一のフルアルバム『NEW CHAPPIE』が、同年の10月10日にリリースされた。上記のクリエイターたち以外に、井上陽水、小西康陽、川本真琴、福富幸宏などが、作詞や作曲や編曲で参加している。このたび“DISCOVER the 90's”によって、各音楽ストリーミング・サービスで聴けるようになったのは、以上の4作品である。
    というクリエイターたちの豪華さだけでも、当時のChappie/グルーヴィジョンズの勢いがわかるが……あと、「当時のCD業界って、おカネあったんだなあ」と改めて思ったりもするが、この「Chappie、歌手デビュー」という企画には、もうひとつフックがあった。
    曲ごとに、複数のシンガーやミュージシャンが参加しているのだが、本当は誰が歌っているのかが、公にはされなかったのだ。
    Chappieという、変幻自在なキャラクターの色が固定されないように、そうしたのだと思う。詞を提供して歌も歌ったパターン、曲やアレンジを担当したクリエイターの界隈のボーカリストが歌ったパターンなど、推測しながら聴くのが楽しかったのを憶えている。
    で、中には、特にそういうのがないのに歌っている、しかも聴けば誰なのかがあきらかにわかる、なので驚かされる、という人もいた。
    「七夕の夜、君に逢いたい」を歌っている森高千里だ。って、それも、正式には公表されていないのだが、この作品の14年後(2013年)に、森高千里がデビュー25周年を記念して、自身の曲を200曲セルフカバーする企画で、この曲も歌っているので、じゃあ書いてもいいであろう、という判断でした。
    ともあれ、当時聴いていた方も、ここで初めて触れる方も、この豪華なクリエイターたちのすばらしい仕事を、楽しんでいただければと思います。

※この“DISCOVER the 90's”企画、10曲選んだプレイリストを付ける、というのがルールになっていますが、このChappieの場合、全部合わせても15曲なので、10曲選ぶのはやめておきます。なお、ソニーの音源以外には、2001年5月に「pal@pop featuring Chappie」という名義で『the never ending rainbows』という3曲入のシングルが出ていますが、今のところ、サブスク未解禁です。

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朝日美穂

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エクスペリメンタルでポップ。90年代後期、すでに日本にはこんな音があった

朝日美穂

    1972年大阪生まれ、東京都と千葉県佐倉市で育ち、早稲田大学在学中の1995年、リットーミュージック主催のAXIAアーティストオーディションに応募。優秀賞とサウンド&レコーディング賞を受賞する。
    という縁で、1996年にリットーミュージック内のインディーズ・レーベルから、ミニアルバム『APEIRON』をリリース。これが評判になり、メジャー数社の争奪戦の末、ソニー・ミュージックレコーズと契約。1997年から1999年までの間に、2枚のフル・アルバムと6枚のシングルをソニーからリリースした。このたび各種配信サイトで聴けるようになったのは、それらの作品である。
    ソニーを離れて以降は、2002年に岡村靖幸のトリビュート・アルバム『どんなものでも君にかないやしない』をオーガナイズしたり(自身も「だいすき」をカバー)、2002年からは自身のレーベル「朝日蓄音」を立ち上げたり、2006年にはもりばやしみほ、川本真琴との期間限定ユニット「ミホミホマコト」でミニ・アルバムを発表したり、母親になってからは「子供を連れてできるようなライヴをしたいと思って」良原リエと一緒に乳幼児向けの音楽イベント『ハニカムジカ』を始めて、そのコンピレーション・アルバムも作ったり──と、多彩に、かつ精力的に活動中。
    女性アーティスト、というと、「R&B」とか「ディーヴァ」とかだった90年代後期に、よくこんなの、作ってたな。しかも、よく大ソニーから出してたな。と、このたび各配信サイトに解禁された、彼女のソニー時代の音源を聴き直すと言いたくなるが、この場合の「こんなの」というのは、もちろん、100%肯定的な意味でだ。
    歌自体はポップで親しみやすいので、聴き手を置き去りにするようなことはないが、改めて細部まで聴くと、1曲1曲のサウンド・デザインにびっくりさせられる。ルーツはあるが、ジャンルがない。アレンジも使う楽器も音の配置もメロディの展開も、とにかく自由で型破り。
    当時は「この人の中ではいちばん定型のJポップな曲」だと思っていたサード・シングル「勉強」も、今聴くと、アレンジも歌詞も、かなり、素敵にどうかしているし。
    ただし。さっき「よく大ソニーから出してたな」と書いたが、当時のソニーって、大メジャーな作品を次々と生む一方で、オフィス1からオフィス7までレーベルを作って、それぞれが欧米のテクノとかドラムンベースとかを、どんどんリリースしている会社でもあったことを、このテキストを書いている途中で思い出した。確か、モロッコの音楽とかまで出してたもんなあ。
    なお、朝日美穂は、2020年7月に7年ぶりのニュー・アルバム『島が見えたよ』を発表している。
    あとひとつ。このテキスト、10曲のプレイリストを考えて付けることになっていて、いつもは、その時配信が始まったソニー時代の音源から選ぶようにしているのだが、今回に限り、特例として、岡村靖幸トリビュート・アルバムの「だいすき」を入れました。
    このトリビュート・アルバム、大好きで、よく聴いていたもんで、当時。中でも彼女の「だいすき」にやられて、BPMを測って、盤に「123」って書いたシールを貼って、DJをやる機会があるたびにかけていました。

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SIDE-ONE

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ネオ・ロカビリーであり続けながら、J-POPのフィールドに出ていくスケール感を持っていた

SIDE-ONE

    グレッチもしくはギブソンのセミアコを抱えたヴォーカル&ギター、ウッドベースをスラップ気味に弾くベーシスト、キックとスネアとシンバルだけのセットをスタンディングで叩くドラマー、という3人編成のネオ・ロカビリー・バンドが、1980年代初頭~1990年代前半頃の日本には、各地に、必ずいた。と断言するのは、ちょっと乱暴かもしれないが、少なくとも、1980年代半ばに広島の高校生であり、1980年代末期には京都の大学生であり、1990年代初頭に東京の音楽業界で働き始めた僕の知る限りでは、そうだった。
    1981年のストレイ・キャッツのブレイク以降、そうなった。と、シンプルに言っていいと思う。それくらい彼らの登場は、絶大な影響力を持ったものだったわけだが、伝統的でかっちりスタイルが決まった音楽性であるだけに、その影響をルーツとしてスタートし、メジャーのフィールドまで浮上したバンドは、決して多くはなかった。
    その数少ない存在が、1997年にデビューしたSIDE-ONEである。言い換えれば、ネオ・ロカビリーであり続けながら、当時の言葉で言うところのJ-POPのフィールドに出ていくスケール感を持っていた、そういう曲を書いて歌って演奏することができるバンドだった、ということだ。その十数年前、同じようにフィフティーズのロックンロールやドゥワップをルーツとしてスタートした、チェッカーズのように──。
    と言うと、わかりやすいだろうか。残念ながら、チェッカーズのようにブレイクしたわけではなかったが、そうなってもおかしくないポテンシャルを彼らの音楽が持っていたことは、このたびこうしてストリーミングで聴けるようになった、当時の楽曲に触れていただければ、伝わると思う。
    あと、武内享がプロデュースを手掛けている理由が、決して「頼まれたから」だけではなかったことも、伝わると思う。それくらいエヴァーグリーンな輝きを、彼らが残した楽曲たちは、放っている。
    1990年、札幌にて、アキラ(ヴォーカル&ギター)、ユウジ(ベース)、ワタル(ドラム)の3人で結成。1991年に活動の基盤を東京に移す。1997年4月21日、ソニー・ミュージック傘下のアンティノス・レコードから、武内享プロデュース(曲によってはギターでも参加)のアルバム『ロックンロールメン』で、メジャー・デビューする。以降、1998年までに計2作のアルバムと5作のシングルを発表、2000年に解散。
    アキラとユウジは元PEALOUTの高橋浩司、元THE COLTSの清野セイジとHARRISを2005年に結成、2015年の休止まで活動を共にする。2012年にはSIDE-ONEが再結成、ニュー・アルバム『ROCK ME ROCK YOU』をリリース。2020年現在、アキラは、ソロ・プロジェクトAKIRA WILSONで活動中で、年内に配信シングル、来年にはニュー・アルバムをリリース予定。また、ユウジとワタルは少林兄弟で活動中。こちらも年内にはニュー・アルバムをリリース予定である。

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大塚利恵

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柔らかく深く刺さる刃のような歌

大塚利恵

「ぼくが消えた朝 天使の羽が生えて 鏡見て笑ったよ 似合わない おかしいね」
「悲しみは 悲しみのまま 喜びは 喜びのまま ぼくだけがいない」
「ぼくが消えた朝 愛しいかけらたちが ぼくの手さえ握らず 泣いている気がした」
「恋人は 恋人のまま 友達は 友達のまま ぼくだけがいない」
「幸せは 幸せのまま 優しさは 優しさのまま ぼくだけがいない」
「もう一度 生まれ変わっても ぼくはもう ぼくじゃないから 忘れてもいいよ」

    以上、長々と引用してしまったが、大塚利恵、20歳の時のデビュー・シングル(だからおそらく書いたのは10代の頃)、「いいよ。」の歌詞の抜粋である。
    すごくない? デビュー曲のテーマがいきなり「己の死」。しかも、自分が死んでも何も変わらない、ただ自分がいないだけ、とか、もし生まれ変わっても、それはもう来世であって今の自分じゃないから、忘れてもいいよ、とか。よくこの曲を選んだな、当時のスタッフ。
    でも、そうか。いちばん強烈なのはこの曲だけど、他の曲も多かれ少なかれ、基本的にはこういうテイストなんだから、それでいいのか。
    普段ピアノを弾きながら作っているんだろうなと思わせる(実際「Oh Dear」のようにそのままピアノ弾き語りの曲もある)、素朴で抑揚のはっきりしたメロディと、よく通るまっすぐな声で、この人が歌うのは、こんな曲ばかりだ。すごいギャップ。ゆえに、すごいインパクト。心の無防備な部分を、ぐっさりえぐられる。ネットで探したら歌詞を見つけられない曲もあったので、聴きながらインタビューをテキストにする時みたいに、パチパチ書き起こしたほどです。で、そこに並んだ文字を見て、改めて「うわっ」となったほどです。
    1998年7月18日、ソニー・ミュージック傘下のアンティノスレコードから、前述の『いいよ。』でメジャー・デビュー。同年9月19日にはシングル『涙のカギを開けて』、11月21日にはファースト・アルバム『Oh Dear』を発表。アンティノスを離れて2003年にコニシス・エンタテインメントに移るまでの間に、セカンド・アルバム『東京』(2001年2月28日)、シングル『東京』(1999年4月29日)、シングル『笑わせてあげる』(1999年9月22日)、シングル『それだけのこと』(2001年2月28日)と、アルバムをリリースしている。このたびストリーミング・サービスで聴けるようになったのは、以上の、アルバム2作・シングル6作の、全36曲である。
    なお、『Oh Dear』は、笹路正徳がプロデュース、土方隆行等も参加。『東京』のプロデューサーは、リトル・クリーチャーズのベーシストであり、他アーティストのライヴ・サポートやレコーディングやセッション等でもひっぱりだこの鈴木正人が務めている。
    2020年現在は、自身のシンガー・ソングライターとしての活動のほか、作詞家としてもFUNKY MONKEY BABYSやAAA、アニソンや舞台など、広範囲にわたって多数の作品を手がけている。また、作詞教室「作詞Labo Lesson」の主宰でもある。

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センチメンタル・バス

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今聴いても「素敵にどうかしてる」楽曲たち

センチメンタル・バス

  「センチメンタル・バス(SENTIMENTAL:BUS)は、日本の音楽ユニット。1998年9月19日にCDデビューし、2000年12月31日に解散した。略称『センチバ』」
    ウィキペディアでセンチメンタル・バスを当たると出てくるこの1行目を見て、まずびっくりした。え、2年? そんなに短かったっけ? もうちょっと活動していたような印象があったんですけども。
    というふうに、誤った記憶を自分が持ってしまっていた理由が、このたび配信解禁になった、アルバム2作・シングル7作を聴き直してわかった。2年ちょっとでそれだけ出ているという作品数の多さもあるが、という以上に、それぞれの曲の印象があまりも鮮烈だからだ。リリースになるたびに、強く耳にひっかかっていたからだ。
    メロディはストレートでキャッチー。「普通の人の普通の声」っぽくありながら、高音域からローまで自在に発する、そしてひとことひとことがクリアにヒアリングできる、NATSU(ボーカル/ギター/作詞)の歌。というどまんなかのポップソングでありながら、「バンド・サウンドも打ち込みもあり」なアレンジに、「ノイズ」要素や「不協和音」要素や「効果音」要素や「何これ?」要素などをポンポン放り込んでくる、鈴木秋則(キーボード・作曲)の、過剰としか言いようのない、素敵にどうかしてるセンス。「変な音を変な位置に変なタイミングで入れる」だけじゃなくて、「ギターうるせえ」とか「なぜかピアノの音割れてる」とか「スネア、なんでこんな音!?」とか、そういうのも含む。というのが、よけい手がつけられない。
    当時としてはあきらかにラジカルで異質だったけど、今はこういうのも普通になったよね。時が経ってから聴き直すとそう思う音楽も多いが、この人たちは違う。今聴いてもあきらかに異質だ。「スッと作れば王道J−POPなのに、なんでそんなことする!?」だらけだ。そこがたまらなく素敵なユニットだったんだなあ、と、改めて思う。
    解散後、NATSUは、Dragon AshのギタリストHIROKIのバンド、Dt.で活動した(というか当時は「Dragon AshのサポートやってたDt.のHIROKIが正式メンバーになった」という認識でした)。
    鈴木秋則は、ソロアーティスト/ジャニーズ/アイドル/バンド/お笑い芸人などなど、大メジャーからアンダーグラウンドまで手掛ける、しかもプロデュース・作詞・作曲・編曲・エンジニアリング・ライブのサポート等、なんでもやるクリエイターとして活躍中で、よく名前を見かける。
    最近の仕事を調べてみたら、古都の夕べのレコーディングまわりはもちろん、ライブ映像の撮影までしていて、びっくりした&笑った。あ、古都の夕べ、数年前に、ちょっと面識のあるドラマーが入ったバンドなもので(日本マドンナのさと子)。

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CHIEKO BEAUTY

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当時は比類なき存在、そして今もやはり比類なき存在

CHIEKO BEAUTY

  ピアニカ前田やTOMATOS、後にTOKYO No.1 SOUL SET等も世に出したインディ・レーベル、ナツメグから、1990年に作品リリースをスタート。
    1992年6月21日、元MUTE BEATのこだま和文にプロデュースを依頼し、MUTE BEAT、東京スカパラダイスオーケストラ、TOMATOSのメンバーたちが曲提供や演奏で参加した全8曲のアルバム『BEAUTIY'S ROCK STEADY』でメジャー・デビュー。「夏の思い出」等の童謡のカバーとオリジナル曲をとりまぜた構成だった。
    1993年5月21日リリースのセカンド・アルバム『L』は、藤原ヒロシがプロデュース。当時メジャー・デビュー直前だったヒップホップ・レゲエMC、BOY-KEN等が参加している。全11曲で、カーペンターズの「トップ・オブ・ザ・ワールド」等のカバーも4曲収録されている。
    この 2作と、ファースト・アルバムより前の1991年にリリースしたキャンディーズ「ハートのエースが出てこない」のカバー・シングル(ポッカのCMのためにレコーディングされた曲)が、キューン・ソニー在籍時の作品で、このたびこうしてストリーミングで聴けるようになった曲たちである。それ以降の作品は、レーベルをBAD NEWSに移してリリースされることになる。
    という、プロデューサー陣・参加ミュージシャン陣の、黎明期にあった日本のダブ/レゲエを代表するような錚々たる顔ぶれからも、このCHIEKO BEAUTYという(当時)新人シンガーが、どのような存在だったのかが、うかがえる。
    レゲエとJ-POP(この頃まだそんな言葉はなかったが)、その最初の橋渡しになれる才能として期待された、ということだ。そして、実際にその期待に応えた存在だった、ということでもある。
    今でこそ、そのようなアーティストは他にもいるし、レゲエに軸足を置いてメジャー・ブレイクした例もあるが、当時はごく限られていた。どれくらい限られていたかというと、先に名前が出てきたミュージシャンたちでほぼすべて、と言っていいくらいだった。
    ましてや、女性のシンガーとなるとさらに限られていたわけで、その中にあって、それこそ童謡を歌ってもぴったりはまるような、素直でまっすぐな響きの声でありながら、同時に、ナチュラルにダブのタイム感やグルーヴを併せ持った歌を歌うことのできる存在など、CHIEKO BEAUTY以外には存在しなかったのではないか。
    と、ここまで書いて、改めて思った。そんな歌を歌える人、今でも、ほぼいないかもしれない。もっとR&B寄りで力強く歌える人はいるし、もっとヒップ・ホップ寄りでラップするように歌える人もいるが、CHIEKO BEAUTYのように歌える人は、今だったら誰だろう……と考えていくと、彼女の「昔も今もワン&オンリー」っぷりが、わかると思う。

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チューインガム・ウィークエンド

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美しく冷たい狂気を放つギター・サウンド、2020年に発掘される

スキップカウズ

  1991年、札幌市にて、ヴォーカル&ギターの橋本孝志とギターの岩田晃次を中心に結成。bloodthirsty butchersやイースタンユース等の札幌パンク・シーンの潮流から登場したというか、彼らの後輩にあたるようだ。
    1992年に上京、1996年にシングル「あの娘をつかまえて」でメジャー・デビュー。マネージメントはザ・ブルーハーツやBOOM BOOM SATELLITES、SNAIL RAMP等が所属したジャグラーだった。ファースト・アルバム『the chewinggum weekend』をリリース後に、プロのセッション・ドラマーとして活動していた夏秋文尚が正式加入する。
    シングル4作、アルバム2作をソニー・レコードからリリース、2000年にUKプロジェクトに移籍してシングル3作を発表するが、2001年に岩田晃次の脱退により解散。
    ベースの鈴木淳はthe pillowsのサポートを長く務めた後、2018年に西早稲田でアコースティックライヴパブBLAH BLAH BLAHをオープン。仲間のミュージシャン等が多数出演している。橋本孝志は長らく音楽活動から離れていたが、2014年にライヴ活動を再開。2016年には、大森靖子シンガイアズなどでベースを弾いているえらめぐみ等とthe MADRASを結成し、2019年にはファースト・アルバム『awake』をリリースしている。
    以上が、このTHE CHEWINGGUM WEEKENDというバンドの経歴だが、彼らのデビュー当時に音楽雑誌にいて、ライヴを観たりインタビューをしたりしていた者のひとりとして、強く印象に残っていることを何かひとつ挙げるとしたら、ファースト・アルバム『the chewinggum weekend』と、セカンド・アルバム『KILLING POP』では、音楽性がガラッと変わった、ということだ。
    より正確に言うと、ファーストの後のシングル『アイス』と『ロマンス』から、大きく変わった。ファーストでは、ネオアコ成分多めな、柔らかな触感の音作りだったのが、『アイス』以降はギザギザに歪んでいてザクザクと響いてくるギター・サウンドになった。
    要はラウドでノイジーになったと言えるが、それにつれて橋本孝志のヴォーカルが熱く激しいものになっていったのかというと、逆で、何かヒンヤリとした狂気がにじむ、冷蔵庫から刃物を出して首筋に押し当てられたみたいな感触をもたらすものになっていった。それがとても不思議で、たまらなく魅力的だったことを、このたびこうして聴けるようになった当時の音源に触れ直して、改めて思い出した。あと、岩田晃次の弾くギター、(称賛の言葉として)本当にどうかしていることも思い出した。
    なお、前述の『アイス』と『ロマンス』の2作。それぞれ3曲ずつ入っていて、後のセカンド・アルバム『KILLING POP』には収録されていない曲もあったりするのだが、どちらも、3曲ともすばらしいので、ぜひ飛ばさずに聴いていただければと思う。
    それから、ファースト・アルバムまでの楽曲も、当時の渋谷系の潮流とリンクしていた、とも言えるところが、興味深くもある。当時は全然そんなこと感じなかったけど、今聴き直して、初めてそう思いました。

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スキップカウズ

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名曲製造機バンド・90年代の音源は、2020年の今も輝いている

スキップカウズ

  「今度やる新人バンド、観てくれない?」と旧知のディレクターに誘われて、ライヴハウスに足を運んだ。ライヴが終わって「どう?」と感想を訊かれた。「うーん……俺がディレクターだったら、やんない」と、正直に答えた。「なんで? 曲、よくない?」「いや、曲はいい。とてもいい」「だろ? じゃあ、やっぱり、あれか?」「……うん」。
    要は、「このルックス、売りにくい! パッとしなさすぎる!」と思ったのだった。んなことねえよ、そんなバンドなんぼでもデビューしてるし、ブレイクしてるのだっていくつもいるよ、というのは、2020年の今だから思えることです。 1997年当時は二の足を踏むのに充分な理由でした。それ以降にデビューしたあのバンドとか、どかーんと売れたあのバンドとか、うーん、やっぱり具体的に名前を挙げるのがはばかられますね。でもそのどれとも仕事したことあるな、俺。ともあれ、それらのバンドが出てくるよりも、全然前の時代の話です。
    とはいえ、結局ソニーレコードからメジャー・デビューしたそのバンドを、当時所属していた音楽雑誌で大プッシュしたのも、事実なのだった。なんで。その楽曲たちの、あまりのよさに、抗えなくて。
    JBマナーのド派手な衣装で登場し、ラジオ・パーソナリティまんまのおもしろMCをかまし(後にほぼ本職がそれになる)、ライヴハウスのフロアを練り歩いて客をいじるヴォーカリスト、イマヤスのキャラによって、まず人気が出たようなところもあったが、実はそれは二の次だったりする。いちばんの魅力は、ギター遠藤肇の生み出すメロディを、かすれてしゃがれたイマヤスの声が形にしていく、それが耳に飛び込んできた時のあの感覚。明るさとやるせなさ、ばかばかしさとせつなさ、笑いと涙、そんな相反する感情が同時に脳内に渦巻いてしまう、あの感じ。そんなものをもたらしてくれるのは当時このバンドだけだったし、今だってこのバンドだけなんだなあ、と、こうして配信が始まった3作のアルバムを聴き直していると思う。
    いやあ、いい曲、いい声、いいリリック、いい演奏、つくづく。と、感じ入るたびに、当時このバンドがブレイクに至らなかった、その責任の一端は自分にもあることを思い出して、どんよりしたりもする。ただ、であっても、今からでもいいので、ぜひ触れてほしい、とも思う、まだの方は。
    あとひとつ。デビュー当時、ベースの小川雄二が、遠藤肇の書く曲はネオアコの匂いがする、それに惹かれて自分は加入した、というようなことを言っていた。バンドのキャラがネオアコとは程遠かったのもあって、当時は「そうかなあ?」としか思わなかったが、今聴き直すと「ほんとだ!」と納得します。失礼しました、ユーヤン(小川の愛称)。23年経って謝られても、って話ですが。なお、スキップカウズは、紆余曲折いろいろありつつも、現在も活動中。

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睦 [井上睦都実]

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時を経ても色褪せない「最初からタイムレスだった歌」

睦 [井上睦都実]

    1970年に熊本で生まれ、9歳から18歳まで福岡で育つ。高校卒業後に上京、1988年頃からモデルとしての活動をスタートする。
    1992年にソニーレコードより井上睦都実としてデビュー。2002年の結婚を機に、芸名を睦(ムツミ)に改める。デビュー直後から作詞家としても活動しており、島谷ひとみやAFTERSCHOOL、椎名へきるなど、多数のアーティストの作品を手掛けてきた。ソニーレコードからはフル・アルバムを3作、ミニ・アルバムを1作、シングルを5作リリースしており、2017年10月には、それらの音源から本人が14曲をセレクトし、最新曲4曲も加えたコンプリート・ベスト・アルバム『睦まじい日々-1992-2017-』がリリースされた。
    そしてこのたび、ソニーからの音源がこうして聴けるようになったわけだが。改めて聴き直す前の段階で、その作曲・編曲のクレジットに、まず目を奪われる。
    高野寛。田島貴男。片寄明人。小西康陽。高浪敬太郎。井出泰彰。何これ。才能大集合じゃん、当時の。いや、「当時の」じゃないか。今に置き換えてもそうか。という事実は、これらの作品が作られた頃も知ってはいたが、年月を経た上でこうして触れ直すと、やっぱりまず驚くし、音源を改めて聴くと、もっと驚く。
    洗練の極み、どの曲も。こんなにストレスのない、かと言って「ひっかからない」とは真逆の音楽、そうそうないのではないか。
    関わっている作家がさまざまなので、当然、音楽の手法はさまざまだし、どの作家が書いた曲か、どの作家がアレンジした曲かが聴くとわかるくらい、それぞれのカラーがはっきり出ているが、それらをすべて、言わば「井上睦都実というジャンル」として聴かせてしまう、不思議な統一感がある、どの作品にも。
    作詞はすべて井上睦都実本人だから、とか、同じ人が歌っているから、という理由だけでは、きっとない。井上睦都実のヴォーカルは、自分の個性を際立たせよう、というのとは反対の、むしろそういうエゴが前に出ることを避けるような、淡々と美しい歌いっぷりだし。ただし、そういう歌声の方が、曲そのものの魅力を最大限に引き出すことがある、いつでもどこでも常にそうだというわけではないがそういうケースもある、ということを、この作品たちが証明している、というふうにも言える。
    今聴いても新しい、とは思わない。でも、今聴くと懐かしいとか古いとも思わない。そのようなタイムレスな輝きを、28年前も、現在も、この曲たちは放っている。

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SUPER JUNKY MONKEY

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7インチアナログ再発

まさに不世出のバンド。日本でもっとも自由なミクスチャー、SUPER JUNKY MONKEY

SUPER JUNKY MONKEY

    今年結成30周年、現在もきわめて精力的に活動中のフラワーカンパニーズが、1994年に所属マネージメントが決まって、上京して来た時のこと。同じタイミングで新しく事務所に入った、全員女の子のバンドがいるというのを知り、ライヴを観に行ったそうだ。で、「……ダメだ、俺ら」「……プロをなめてた」「名古屋に帰ろうか……」と、すっかり打ちひしがれてライヴハウスを出たという。
    がんばれ。あきらめるな。きみたち、25年もまだバンドで食っていられるから、と当時の彼らに言いたいが、そういう気持ちになってしまったのもよくわかる、というか「そりゃなるよね」と思う。その直前にライヴを観て(確か渋谷ラ・ママだった気がする)、僕はバンドマンじゃないから打ちひしがれることはなかったものの、「うっわあ、なんじゃこりゃ!」と、心底びっくりしたのを、よく憶えているので。
    この超いかつい音を女の子が出しているからびっくりした、というレベルではない。当時、ミクスチャー・ロックは、アンダーグラウンドなシーンでは日本でも始まっていたが(真心ブラザーズが『KING OF ROCK』を出したのがその翌年だ)、その最先端にして最強な人たちが出て来てしまった、そういう存在だった、この人たちは。
    リヴィング・カラーやリンボー・マニアックスは数年前にデビューしていたが、日本でそこまで脚光を浴びることはなかった。レイジ・アゲインスト・ザ・マシーンはすでにデビューしていたが、日本でもブレイクしたのは確かもうちょっとあとだった。
    という時期に現れた、しかも「それまでのミクスチャーをなぞる」のではなく「自分たちのミクスチャーを作る」バンド、SUPER JUNKY MONKEY。1994年の時点において衝撃でしょう、それはもう。「何をやってもいい」という音楽的な自由さに満ちたバンドだったが、それは「だいたいのことならできる」演奏力を持っていたから、ということでもある。
    国内にも──先にも書いたが──インディ・パンク・シーン(AIR JAM勢とつながるような)にすばらしいミクスチャー・バンドはいくつか存在したが、それらの中でもっとも型破りで自由だったのがSUPER JUNKY MONKEYだった、と言ってもいいと思う。「歌詞は全部英語」とかいうような、当時のそういうバンドのセオリーからも自由だったし。ユーモラスでキャッチーなところもあるし。デビューするや否やアメリカでも注目され、ファースト・アルバム『SCREW UP』が全米リリースされたのもうなずける。
    今回聴けるようになったのは、ソニー・ミュージック・レコーズからリリースされたデビュー・ミニ・アルバムとアルバム3作。今聴いても異様にかっこいい。いや、「今聴いても」じゃない。今聴くと、よりいっそうかっこいい。
    ヴォーカルの高橋睦が1999年に亡くなってしまったので、それ以降ニュー・アルバムは出ていないが、その10年後にリキッドルームでメモリアル・ライヴを行って以降、数年に一回のペースでライヴをやる、という形で、バンドは存続している。
    余談。ファースト・アルバム『SCREW UP』の1曲目「宿直の長老は遅漏で候」、リリース当時に聴いた時、何がなんだかさっぱりわからなくて混乱したんだけど、これ、ケチャだったんですね。当時、ケチャというもの自体を知らなかったんです。お恥ずかしい。失礼しました。

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dip in the pool

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80年代から鳴っていたこの音に、世が追いついたのは活動休止の頃だった

dip in the pool

    1985年にデビューした、モデルの甲田益也子と作編曲家の木村達司によるユニット。当時、最初は洋楽誌ロッキング・オンによく載っていて、1986年以降はその年創刊された邦楽誌ロッキング・オン・ジャパンによく載るようになっていたので、その存在は知っていた。が、ファンではなかったというか、正直、自分とはかなり距離のある人たちだと認識していた。
    なんで。あまりにもオシャレなので。男女ふたりのユニットで、女性はモデルだし。歌詞、英語だし(日本詞の曲もあるが)。なんかゆっくりでふわふわしている音で、どう位置づければいいのかもわからなくて、「新しいんだろうなあ」くらいしか言えないし。
    要は、「ドクター・マーチンほしくてたまらないけど高くて買えない」とか「ドラムはやっぱりツーバスの練習をするべきだろうか」とか、そんなことしか考えていない、やかましい音ばかり聴いていた田舎の高校生の自分には、まったく縁のない音楽だったわけです。書いていて思い出した。当時、洋楽ロッキング・オンの某常連投稿者がギターを弾く人で、dip in the poolのレコーディングに参加した、ということを書いていた。で、甲田益也子にレッド・ツェッペリンを聴かせたら、「あら、ツェッペリンってギャング・オブ・フォーに似てるのね」と言われて「キイィッッ!」となったそうだ。それを読んで私も「キイィッッ!」となったのを憶えています。
    というわけで、このユニットが活動休止した1997年頃だっただろうか、ようやく初めてちゃんと聴いてみて、ぶったまげることになる。え、こんな時代からこんな先鋭的なことやってたの? いや、先鋭的なだけじゃない。歌もののポップ・ミュージックとしての美しいフォルムを持っている。にもかかわらず、歌謡曲みたいな土着感もなければ、逆に「洋楽をそのまま真似しました」みたいな借り物感もない。近い人いたっけ、誰か。ええと、コクトー・ツィンズ。違う、あれ、もっと普通にギター・バンドっぽい音だ。スウィング・アウト・シスター? いやいや、あんなにベタじゃない。というか、そもそも何かのジャンルの中にいない。本当に「dip in the poolの音楽」としか言いようがない。
「この楽器の音はこう使うべき」みたいなマニュアルにまったく縛られていなくて、自由奔放に音が編まれているのに、実験性よりも耳への快楽の方が優先されているこのトラック、いったいどういうふうに発想してどんな具合に組み立てていたのか、とても気になる。2000年代にこれをやっているとしたら、お手本になるものはいくつもあっただろうけど。そうか、逆にdip in the poolをお手本にした人はいっぱいいるんだろうな。
    このたびこうして聴けるようになったのは、1993年から1997年までの間に、エピックに残した『静かの海』『KM93.11』『7』の3作のアルバムとシングル5作。『7』あたりになると、わりと普通に聴けるようになります、ようやく周囲にもこういう音のアーティストが出てきた頃になるので。それでも充分に先鋭的だけど。
    なお、dip in the poolは2006年に再始動、2011年と2015年にニュー・アルバムをリリースしている。

ロッテンハッツ

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ひとりいればバンドが成立するミュージシャン/シンガー/ソングライターが6人も、ひとつのバンドにいたことのほうが、何か嘘のように思えてしまう

ロッテンハッツ

    1989年、東京にて、モッズ・シーン/ネオGSシーンにいたバンドマンたちが中心となり、結成。1991年秋、UKプロジェクト内のRICE RECORDSから初めての7曲入りの音源『ROTTEN HATS』をインディ・リリースするや否や、各メジャー・レーベルの争奪戦になり、最終的にソニー内のトレフォートがこのバンドを獲得(リリースの頃にはソニー・グループ内の組織変更により「キューン・ソニー」という会社になっていた)。
    1992年9月21日にファースト・フルアルバム『Sunshine』をリリース。リカットされたシングルTBS系金曜21時のテレビドラマ『ホームワーク』の挿入歌になった。翌1993年10月1日には、セカンドアルバム『Smile』をリリースするが、1994年には解散。
    その後、ヴォーカルの片寄明人、ベースの高桑圭、ドラムの白根賢一はGREAT3を結成、もうひとりのヴォーカルの真城めぐみとギターの木暮晋也とギターの中森泰弘はヒックスヴィルを結成、それぞれメジャー・デビュー。
    で、それから25年が経った、2019年現在。片寄明人は、古くはフジファブリック、最近ではDAOKOやTENDOUJI等、多数の新人を手掛けるプロデューサー。妻であるChocolatとのユニット「Choclat & Akito」でも活動するほか、NHK-FM毎週日曜夕方の番組『洋楽グロリアス・デイ』のDJを長年担当している。高桑圭は、ソロ・アーティストCurly Giraffeとしての活動と、佐野元春&THE COYOTE BANDなど多数のミュージシャンのサポートも務める。白根賢一は、ライヴやレコーディングのサポート・ドラムだけでなく、プロデュースや曲提供も手掛けているし、Manmancerという名義でソロ活動も行っている。休止していたGREAT3は、2012年に高桑が脱退、代わりにjanが加入して活動を再開した。近年は動いていないが、解散はしていない。
    真城めぐみ、木暮晋也、中森泰弘のヒックスヴィルは、現在も活動中。真城めぐみも、木暮晋也も、多数のアーティストのサポートを務めている。真城めぐみと中森泰弘は、ザ・クロマニヨンズの真島昌利と3人で「ましまろ」というユニットを組み、2作のアルバムをリリースし、ツアーも行っている。
    というふうに、それぞれが長きにわたり活躍中である現在を見ると、短い期間とはいえ、ひとりいればバンドが成立するミュージシャン/シンガー/ソングライターが6人も、ひとつのバンドにいたことのほうが、何か嘘のように思えてしまう。
    ブルースやカントリーやフォークやAORをベースにした歌謡曲感ゼロの音楽性。ウッドベースやカズーやバンジョー等も用いたアコースティックでトラッドな楽器編成。平易の極みのような日本語で綴られる歌詞。いずれも、音楽を知り尽くし探求し尽くした末に素朴でシンプルな世界に辿り着いたような存在、それがロッテンハッツだった。
    当時、その才能が正当に世の中に受け入れられた、とは言い難いが……というか、正当に受け入れられる前に早々とやめてしまった、とも言えるが、当時この音楽がいかに先鋭的であったか、そしていかに今聴いても一切色褪せない普遍性を持っていたかは、このたびこうして聴けるようになった、キューンに残した音源が示していると思う。

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宮田和弥

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20代の頃も、50代の今も、メロディと言葉をとんでもなく輝かせる天賦の才である宮田和弥の歌は、30代のこの頃も、鮮やかに、まっすぐに、耳に突き刺さってくる

ロッテンハッツ

    解散する3年前。寺岡呼人が脱退し、その前のベーシストの伊藤毅が復帰したタイミングで、JUN SKY WALKER(S)はエピックへ移籍した。そして、1997年に解散した後も、ヴォーカルの宮田和弥はエピックに留まり、1998年に『smash』、1999年に『HERE』と、2作のソロ・アルバムをリリースしている。このたび聴けるようになったのは、その2作である。その後、宮田和弥は、2003年に元ユニコーンの川西幸一らとジェット機を結成、2007年にはジュンスカが再結成。再結成後の2010年にもソロ・アルバムを作っているが、純然たるソロとして活動したのは、このエピックの時期だけ、と言える。
    基本的に、宮田和弥という人は、発言にも、行動にも、書く歌にも、その時思っていること、感じていることがそのまんま出てしまう、というか「そのまま出さないと生きていけません」っていうくらいの、ものすごく正直なアーティストである、と、僕は思っている。どんな理由であれ、自分の音楽の受け手に対して、何か嘘をついたり、自分を大きく見せたり、逆に小さく見せたり、ごまかしたり、フワッと曖昧にして提示したりすることが、とにかくイヤなのだと思う。
    ましてや、バンドを失って、ひとりになって音楽を作ると、その正直さにさらにブーストがかかることになる。という意味で、この時期のこの2作のアルバムというのは、今聴いても、いや今聴くと、よりいっそう、おもしろい……って、おもしろがっちゃ申し訳ないか。「興味深い」「だから惹かれる」という言い方に、訂正します。
    インダストリアルなサウンド・プロダクトの「リズム」でスタートし、アコースティック・ギターの弾き語りで始まる「Login Dance」に続き、やはり弾き語りがベースになっている曲調の「21c」へ連なっていく『smash』もそうだ。全体にバンド・サウンドに回帰しているが、トータル的な方向を決めてサウンド・プロデュースしたというよりも、「1曲1曲にふさわしいアレンジを考えました」というふうに作ったのではと思わせる『here』もそうだ。
    特に後者。「赤いナイフ」には「どこにももう逃げられない 誰ももう助けてはくれない」というラインがある。その前の曲は「崖っぷちでハロー」というタイトルである。「ヒラリ」では「僕になれるかな 本当のバカになりたいんだ」と歌っている。
    ただ、どの曲も、ジュンスカが解散して窮地に追い込まれた宮田和弥の個人の状況ではあるが、彼だけでなく当時解散を経験したバンドマンの多くが経験したことでもあるし、バンドマンでなくても、自分に置き換えたり自分と照らし合わせたりして曲の世界に入っていくことができる表現になっている。それも「ああ、わかるねえ」くらいではなく、どっぷりと。
    苦い。重い。切実。だから、沁みる。20代の頃も、50代の今も、メロディと言葉をとんでもなく輝かせる天賦の才である宮田和弥の歌は、30代のこの頃も、鮮やかに、まっすぐに、耳に突き刺さってくる。

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ザ・カスタネッツ

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聴き手を一切選ばない、誰のことも疎外しない、メロディと声とリリック

ザ・カスタネッツ

    このバンド、なんでブレイクしなかったんだ!? と、納得がいかないことは何度もあるが、個人的には、90年代においてその中でトップと言っていい。いや、00年代以降を含めてもそうかもしれない。自分が好きであることを棚に上げて、極力冷静かつ客観的な耳で聴いても、そういうふうにしか思えない。聴き手を一切選ばない、誰のことも疎外しない、このメロディと声とリリックは、もっともっと広く世に届くポテンシャルを持っているのに、90年代ならミリオンセールスを記録しても不思議じゃなかったのに、と、今聴き直しても思う。
    初めて聴いたのに、前から知っていたように耳になじむ。なのに、何度聴いても飽きることがなく、いつでも新鮮に響く。自分の思いを綴ることが、そのまま普遍的な物語に化ける牧野元の詞。抑揚が大きくてドラマチックなのに、まるで話しているみたいに自然に耳に届く、同じく牧野元のメロディ(声がいい、というのも重要)。コード一発の豪快さと、エフェクターで多様な音色を奏でる繊細さの両方を駆使して曲の世界を作り、広げていく小宮山聖のギター。いずれもすばらしいし、今聴いてもまったく古くなっていない。最初から懐かしかった、と言えるかもしれない。
    1987年に明治学院大学のサークルで、ボーカルの牧野元とギターの小宮山聖を中心に結成。1995年にソニー傘下のアンティノスレコードからメジャーデビュー、『LIVING』『PARK』『MARKET』『khaki』の4作のオリジナルアルバムと、ベストアルバム『9599』をリリースし、2000年にはドラムの金野由之が脱退して活動休止、2002年から活動再開。以降は、メンバーチェンジ等ありつつも、下北沢CLUB Queを中心に活動中。現在も熱心なファンが集まり、ワンマンを行うたびにソールドアウト。アンティノスを離れた後も、3作のアルバムを発表している。
    現在は、牧野元と小宮山聖に、高橋優やChage等のサポートも務めるベーシスト小島タケヒロと、元THE COLLECTORSで現在チリヌルヲワカ等でもプレイ中のドラマー阿部耕作が加わった4人。2018年には牧野元が舌癌に罹ったことを発表、夏の活動を休止し手術を受けたが、秋にはライブ復帰した。

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デキシード・ザ・エモンズ

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不思議で、愉快で、曲と演奏がとてもいい、すごいバンド

デキシード・ザ・エモンズ

    90年代から活動を続ける下北沢の名物レーベルであり、近年ではKEYTALKをブレイクさせたことで知られるK.O.G.A Recordsからのリリースで知られるようになったデキシード・ザ・エモンズ(以下デキシー)は、1997年から1999年までエピックソニーに所属し、『ROYAL LOUNGE』『Berry, Berry Bo, hho』『S,P&Y Sound, Pew & Young』をリリースした。今回こうして聴けるようになったのはその3作のアルバムとシングル収録曲を含む全てのエピック音源。
   「英国60年代」「モッズ」「ソウル」「R&B」といった自らのルーツとなる音を忠実に再現しようと、アレンジや演奏はもちろん、機材やレコーディング方法にまで徹底的にこだわり抜いていたバンドで、ゆえに音源ではしっかり60年代まんまの音が鳴っていたことを記憶していたが、このたびこうして聴き直したところ、全然それだけじゃないことを、改めて強く感じた。
    60年代まんまの音で今の自分たちを描くと、こんなに新鮮で新しいものになることもある。という実験がデキシーだったんだなあ、ということだ。日本語だし、その日本語が自然にのっかるメロディだし。この少し前に流行ったネオGSブームのバンドたちとも違うし(元々近い界隈にいたのだとは思うが)。そもそも当時、バンドなのにボーカル&ギターのアベジュリーとドラムのハッチー・ブラックボウモアのふたり、って「なんじゃそれ」と思ったし、それぞれの名前にも「なんじゃそれ」と思ったし(※後にハッチーはハッチハッチェルと改名)。
    2006年に解散するまで、そのような、不思議で、愉快で、曲と演奏がとてもいい(いわゆる「うまい」演奏とは違う、「味がある」「というか味だらけ」な演奏)バンド、というふうに認識していたが、ひとつ付け足しておくべきだった。不思議で、愉快で、曲と演奏がとてもいい、すごいバンド、というふうに。
    解散以降、アベジュリーもハッチハッチェルも、自身のバンドや他ミュージシャンのプロデュースやサポートで活躍中。2014年2月22日には、K.O.G.A Recordsの20周年を機に、レーベルオーナーの古閑裕にひっぱり出される形で、リキッドルームで復活ライブを行った。以降、不定期だが、時々ライブを行っている。

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ワイヨリカ (Wyolica)

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J-POPのどまんなかで勝負できる歌ものであることと、クラブのフロアで鳴って成立すること、その両方を併せ持つ

wyolica(ワイヨリカ)

    ヴォーカルのazumiとギター/プログラミングのso-toのふたりで1997年に結成、1999年5月にシングル「悲しいわがまま」でエピックからデビュー、2002年2月に、大沢伸一プロデュースのファースト・アルバム『who said “La La…”?』をリリース。以降、計4枚のアルバム、2枚のミニ・アルバムをリリースするも、2011年には実質的に活動が止まり、2013年5月に正式に解散する。
    しかし、デビューからぴったり20年にあたる2019年5月21日に、再結成を発表。同年8月7日に、新曲3曲と新録音1曲を含む全30曲のベスト・アルバム『Beautiful Surprise ~Best Selection 1999-2019~』を、その1週間前にはアナログ7インチと各定額配信サービスでシングル「Beautiful Surprise/OneRoom」をリリースした。
    そのシングルの2曲が、ワイヨリカの、各定額配信サービスにアップされた初めての曲で、それに続いてエピック時代の作品も、こうして聴けるようになった、ということだ。
    ワイヨリカがデビューした1990年代末期~2000年代初期は、国内でもヒップホップがチャートの上位にランクインするようになっていったり、R&Bをベースにした女性シンガーが人気を博して「Diva」と呼ばれるようになったり、テクノやハウスといったダンス・ミュージックが広く聴かれるようになっていった頃でもあった。要は、クラブ・ミュージックがJ-POPと結びついて、オーバーグラウンドになっていった季節だったわけだが、その「オーバーグラウンドにした」立役者のひとりが、いや、ふたりか、とにかくそれがワイヨリカだった、と言っていいだろう。
    J-POPのどまんなかで勝負できる歌ものであることと、クラブのフロアで鳴って成立すること、その両方を併せ持ったワイヨリカの作品は、同じような志向を持つ当時の新人アーティストの中でも抜きん出て輝きを放っていたし、だからデビューとほぼ同時に広く熱く支持されるようになった、ということだ。
  「さあいこう」、「ありがとう」、Kj(Dragon Ash)参加の「風をあつめて」などの名曲の数々が、今こうして聴けるようになったことは、当時のファンにとってはもちろんのこと、ワイヨリカを知らない世代にとっても、とても意味のあることだと思う。

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松崎ナオ

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トピックス

聴き逃していい瞬間がもう本当にない彼女のソングライティングは、ある意味、デビューの時点で完成していた

松崎ナオ(NAO MATSUZAKI)

    NHK総合のドキュメンタリー『ドキュメント72時間』のエンディングでは、テーマソングとして、松崎ナオの「川べりの家」が、かかり続けている。2006年の番組開始から2019年現在まで、つまり13年間ずっとこの曲である(バージョンは一度変わったが)。という事実も、彼女がどんなアーティストであるかと表している、と言えるのではないか。
    1976年生まれのシンガー・ソングライター。エピックに在籍したのは1998年から2002年までで、ミニアルバム『風の唄』でデビュー、フルアルバム『正直な人』『虹盤』の通算3作品をリリース。以降、インディーズで長く活動を続けている。昔も今も同業者からリスペクトされる存在であり、2017年には以前から親交のある椎名林檎とコラボしたデジタル・シングル「おとなの掟」を発表したり、2018年からは3ピース・バンド「鹿の一族」を結成して、リリースやライヴを行ったりもしている。
    シンプルなサウンド・プロダクトにのせて、言葉とメロディをひとつひとつくっきりと刻み込むように曲にしていく。喜怒哀楽それぞれの感情や、それらが重なった感情や、それらの間の感情や、それらのどれでもない感情を、絶妙に掬い上げていく。「ラブソング」というよりも「コミュニケーションの歌」や「ディスコミュニケーションの歌」と形容したくなる、他者と己の「ままならなさ」を表していく。
    そんな、聴き逃していい瞬間がもう本当にない彼女のソングライティングは、ある意味、デビューの時点で完成していたことが、当時の作品を今聴き直すと、わかる。このあと、時期によって、サウンド・プロダクトやレコーディング方法等はいろいろ変化・進化していくし、曲そのものも洗練されていったりはするが、その芯にある強いものは変わっていない、まったくぶれていない、そう感じる。
    エピックを離れて以降の作品は、各定額配信サービスに音源が揃っているし、エピック時代の作品も、最後の『虹盤』は以前からアップされているが、『風の唄』と『正直な人』は廃盤になって以降、触れることができる場所がない状態になっていた。それがこうしていつでも聴ける状態になったことを、素直にうれしく思う。

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The CHANG

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7インチアナログ再発

「この後何度も流行った音」「そして今また流行っている音」のスタイルが、既にここで鳴らされている

The CHANG

    CHEMISTRY、ハナレグミ、小泉今日子、大橋トリオなど、サポート・ギタリストとして、そしてプロデューサーとして、多くのアーティストを支える石井マサユキが、最初にプロとして活動したバンドである。レーベルはエピック・ソニー、マネージメントはアミューズ。1995年、屋敷豪太プロデュースのもと、シングル「今日の雨はいい雨だ」とアルバム『DAY OFF』でメジャー・デビュー。1996年には同じく屋敷豪太プロデュースでセカンド・アルバム『acton』をリリースするが、バンドとしての活動はここまでで終わる。
    そこから石井マサユキは、ボーカリスト武田カオリとふたりでTICAを結成し、2009年頃まで活動することになる。以降もサポートやプロデュース、映画の劇伴等で活躍しており、2019年には井出靖が結成した25人編成のTHE MILLION IMAGE ORCHESTRAに参加。6月26日にリリースされたアルバム『熱狂の誕生』では、このバンドで「今日の雨はいい雨だ」をリメイクしている。
    ソウル、ブルース、サーフ・ミュージック、アシッド・ジャズ、AOR等のエッセンスを、洋楽と邦楽の境界線がいい感じで曖昧になってきた当時ならではの手つきで、「日本語の歌もの」としてまとめあげる──音楽性を無理やり説明すると、そんな感じだろうか。
    とにかく、「この後何度も流行った音」「そして今また流行っている音」のスタイルが、既にここで鳴らされていることに驚く。試しに、今人気のある、近い系統の音のバンドと、並べて聴いてみてほしい。まったく古くなっていない、そして、まったく負けていないことが、よくわかるはずだ。
    シンプルで意味の明確な言葉を使って、「暗くはないけど疲れてはいる」みたいな、明るい倦怠を感じさせる歌詞の世界も、聴き手を強く引き込むものを持っている。という点も、今聴いてもまったく色あせていない。
    世間的に広く知られるようになる前に活動が終わってしまったバンドだが──それは今「世間に気づかれなかったから終わった」というよりも「短期間すぎて世間が気づく前に終わった」という方が近いのではないか、と、今になると思うが──現在活躍している20代~30代のバンドが「実はThe CHANGを聴いていました」と言っても、納得こそすれ、驚きはしないだろう。「早すぎた」とか「あとから時代が追いついた」みたいな言い方、手垢にまみれすぎていて普通使うのがためらわれるが、このバンドを形容する時に限っては、許していただければと思う。

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